最近、日課的にメメント・モリをしている。具体的には、死をめぐる本を通勤時間なんかに読んでいる。ちょうど今日読み終わったのが『ネットで故人の声を聴け』(古田雄介著/光文社新書,2022)という本で、その名の通り執筆者もしくは関係者が亡くなったものの現在まで残り続けているブログを取り上げた本だ。
故人のブログといっても様々な形がある。本人による闘病記から家族による回想日記、そして自ら命を絶ってしまったと思われる方のブログなども本書では取り上げられていた。しかしそのどれにでも当てはまるのが、生きている(いた)事実を残しておきたいという気持ちだ。余命宣告を受け、絶望のさなかに陥ろうとも、意識が朦朧として言葉を紡げなくなるまでブログを更新し続ける。そこには壮絶な想いがある(もちろん、過度にドラマチックに捉えすぎるのも問題があるとは思うが)。
闘病ブログの中には病気が発覚してから開始したものも多くあるが、それ以前からなんらかの目的でブログを綴っており、病気を患ったことで結果的に闘病ブログになっていったものも複数ある。本書で紹介されている中では「一撃確殺SS日記」などがそのタイプである。
連載での紹介記事
https://toyokeizai.net/articles/-/429206
一方で、「書き手はすでに亡くなっているがブログやSNSは残っている」というパターンは思っているより多いだろう。こうして自身が闘病中であることを発信できたり、没後に関係者が知らせてくれることで、書き手の死を知ることができる。
全ての人が「生きて死んだ痕跡を残したい」と考えるわけではないだろうが、そうやって痕跡が残っていることに少しの救いのようなものを感じてしまう。誰にも知られず亡くなり、更新が途絶えたままいつの間にか忘れ去られる……というのはやっぱりちょっと怖い。孤独な社会でそういうケースがたくさんあるだろうことを思うと、やりきれない気持ちになる。
以前の自分は、もう少しドライな死生観を持とうとしていた気がする。人は死んだら分子レベルで分解されて土になり水になり空気になり……と、身も蓋もないことばかり考えていた。どうせ50億年もしたら地球は存在しないわけだし、そんな遠い先でなくとも人類が滅ぶ可能性もある。残そうとしたところで、何ができるのか……。
実際それが事実だとは今でも思うけれど、こういう考えは死をなるべく客観視しようとした時に浮かんでくるものだ。自分が死ぬという実感を得たとき、諸行無常観だけでは割り切れないものがあるのではないか。歳をとってセンチメンタリズムが加速したのか、あるいはコロナを経て死に対する感覚が少し変わったのか、今ではそう思ったりする。それに、残すこと自体に意味はなくとも、残そうとする行為がその人にとって救いになったり、生きる希望になったりすることは否定できない。
人は皆死ぬ。
それは昔も今も変わらない。ただ、これだけSNSが普遍的になった今、故人ブログやアカウントが残って、その人が生きた痕跡が誰からもアクセス可能なまま(当分)残ってゆく可能性は高まっている。
そういう意識を持ったいま、いったい何を書いていけばいいのだろうね。
このブログもいつか闘病ブログとかになるのかな。
でもこれだけどんどん作って壊してをやっていたら、このブログが死に際まで続く可能性は結構低そうだ。
とはいってもいつ死ぬかわからないんだから、明日突然故人ブログと化すことだってありうる。
それだったらもうちょっと更新頻度を高めようかなーなんて、あまりできそうもないことを思ったりする。
そんな感じで、今日もメメント・モる。