下りのバスは上りよりも安かったけれど、席の間のカーテンやコンセントなど設備が充実していた。それはそれとしてやっぱりバスで眠るのは厳しくて、エア枕を窓との間にはめてもたれてみたり、抱っこしてみたりしていたけれど、意識が閉じていた時間は短かったように思う。
停車するたびにマップで位置を確認しては「まだここ?」と思っていた。浜松名古屋感はかなりゆっくり走っていたのかもしれない。まあ、早く着きすぎても始発も休憩できる場所もないから、時間調節もあったのだろう。
早朝の駅前に歩いている人の大部分はおそらく夜行バスから降りてきた人たちで、みんなよく頑張った……と謎の連帯を一瞬感じたりした。
朝はこの4日間で三度目になる安定の吉野家。この時間からやっててくれるのが何よりありがたい。ただ駅の反対側の店舗しか開いていなかったので、眠気まなこを擦りながら重すぎる荷物を抱えて歩いて行った。
6時半に乗った電車は最寄りに近づくにつれてどんどん通勤ラッシュに被ってしまい、座ってゆっくりできる暇が全然なかった。下りなら大丈夫かと思っていたのだけれど、意外と南部方面に通勤・通学する人もいるらしい。この時間に下りに乗ることがまずないので、初めて知ったのだった。
家の方まで帰ってくると、見慣れた田んぼと畑の光景に迎え入れられる。この景色を見ると一気に日常に戻ってくる感じがする。
なんだかんだこの田舎で生きていくのだろうなあ、と思う。
シャワーを浴びた後はお布団に直行。明日から普通に仕事なので、この旅の疲れを全て拭い去るべくとにかく眠った。お昼は3時ごろに食べた。
こういう時間からでも出かけたり何かやったりできるかの違い、というのが都内と田舎で全然違うよなあと思う。田舎は娯楽に辿り着くまでの時間が圧倒的に長い。午後から活動を開始しても大したことはできないし、数少ない娯楽施設には人が集まるので、結局「もう面倒だし何もしなくていいか……」ということになる。
退屈せず田舎で健康に暮らすには、スポーツか園芸か自然との触れ合いに親しむべし。
そんな自分がほどほどに退屈せず暮らせるのは、文化的なアソビを一緒に楽しめる知人たちがこの街にいてくれる、というのが何よりも大きい。どこに住むかよりも誰と住むか、本当にそうかもしれない。
夜はそんな知人が主催の「戯曲を読んでみる会」に参加した。
今回はチェーホフ『かもめ』の第二幕を7人で読む。突然怒り始めるシャムラーエフと1ページ続くトリゴーリンの長台詞というのが見どころというか読みどころで、今まで距離感を感じていた戯曲の面白さに少しずつ芽生えていくような感じがする。こういう楽しい会が今後も続いて行ってくれると非常にありがたい。
それにしても自分の棒読み具合は酷い。中盤のボルテージが上がる部分を読んだ方たちが上手いだけに、自分のパートの感情の乗ってなさが余計に気になってくる。
小説なんかを読むときも、人物の感情に移入するというより「この人はこんなことを感じてるんだな」という情報として扱っている気がする。自分の感情にも無自覚だし、いつか感情がわかる日は来るのだろうか(心を無くした殺戮兵器みたいなこと言う)。演劇や小説を摂取して、少しずつ感情を芽生えさせていきたい。