別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

読書日記一年分予定(3/52)

10月1日からの読書日記の続き。


先週
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10/15

朝の電車では幸田文『木』のつづきを読む。なんというか、内心の吐露の仕方が上品だ。ひのきのアテ材がなぜダメなのかをこの目で見たくて迷惑承知で頼みいったこと。疲れの中見た縄文杉に怯えてしまったが、休んでから見ると好ましい姿に見えたこと。
書き手の我の部分は前面に出つつも、それが押し付けがましくなく、読んでいて自然に受け入れられる。これが筆力というやつか。
景色の描写はもう文句のないほどに美しい。屋久杉の森に煙る激しい雨を羽織に例えるところなど、美しい絵画のような景色が心に浮かんでくる。

通りぬける時、杉へ雨を置いていくのか、雨は白さを淡くして行過ぎる。そうか、わかったわここでは雨は杉へのお届けものなのだ、とのみこめた。(略)そしてお届け者は雨というより、羽織だと見立てた。軽くふわっと着せかけて、通りすぎていくような感じがあった
(『木』P63-64)

仕事のお昼休憩中、文學界10月号をさっと読み返す。明日は「文芸誌を一年間読んでみるチャレンジ」の報告会なので、話したいところを漏れなくメモっておきたい。一度は読み終えているはずなのに、再度読み返すと「そんな話だったのか」と全体像が鮮明に見えてきたりして、やはり再読は大切だと思う。積読から再読まで、死ぬまでに行くことができるだろうかなぁ。


帰りは再び『木』の続きを読む。薄い本なのですぐに読み終えてしまいそうなものだが、しっかり味わいたい気持ちがあるからか意外と進みは遅い。この本は間違いなく何度も再読することになるだろう。


10/16

文學界の書評で取り上げられていた川野芽生『ゴーストとお茶を』(すばる2024年9月号)を読む。19世紀英国の貴族に嫁いだ中流階級出身のパメラと、その貴族一家の実権を握っていた〈おばあさま〉との確執が、幽霊をめぐる出来事を通して解けていくお話。
物語の間に挟まれる作中人物の書いた文章と、ファンタジックなレイヤーが重なっていくところは芥川候補作の『Blue』と似た構成になっていて、川野さんの作風というべきものになっていくのだろうか。
主要人物たちはそれぞれ女性であるがゆえに何らかの不利益を被ってきた人物たちで、そういう意味では初めから連帯が可能なはずなのだけれど、身分や社会構造のせいで確執が生まれてしまっているという状態。それを解いていくためにはファンタジーに頼らなければならない、というところが社会の歪みを暗に描いているような気もする。
そういう重い受け止め方もできるし、必要なのだけれど、それでもラストのお茶会シーンにはうるっと来てしまう。ああいう展開に弱いんだよなあ。

夜は今月の文チャレ報告会。文學界と群像10月号のほぼ全てを語った濃ゆい回だった。
特集の『おいしい文学。』はたぶん書籍化するだろうという話なので楽しみ。確かに『休むヒント。』も句点ついてるから、これはシリーズなのだな。
江國香織きらきらひかる』の話が出てきたところで他の参加者はみんな読んでいるということを知ったりして、ちゃんと本を読んでこなかった自分が悲しくなったりする。これからいっぱい読まなきゃ。

文チャレ報告会はこちら
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10/17

本を読み続けるには機を逃さないことがいちばん大切だと思う。会話や本の中で出てきて気になった本。気になる話題の新刊。探していてようやく手に入れた本。少しでも読もうと手に取ったその本を読むことができれば、あとは自然に読書の輪が回ってゆく。
ということで『きらきらひかる』を積読から引っ張ってきて読み始める。江國香織ってあまりにも有名すぎるから読んだつもりになってたけど、もしかしたら初めて読むかもしれない。試験問題に出たとか以外で。

心の病をもつ笑子と、医師の睦人は、睦人が同性愛者にもかかわらず結婚している。周囲の圧力や世間体に押されてという部分もあるが、二人は自分たちなりのパートナーシップで結婚生活を送っている。しかし次は「子どもを持たないのか」という圧力が増してきて……というあたりまで読んだ。なんとなく「恋愛小説」というイメージだけあったので、こんな現代的な設定になっているのかと驚いた。もちろん所々時代だなあと思う箇所はあるものの、ポリアモリー的な合意とか家族の幸せを断定してくる圧力とか、最近の小説かと思えるような設定だ。


10/18

きらきら光った。でも思ってた感じの「青春!」的な光ではなくて、ほのかな光りかただと思った。お互いの両親からの圧に晒されてるから仕方ないのかもしれないが、睦人はずーっと心配ばかりしてた気がする。一見すると笑子が自分勝手なキャラに見えて、実は睦人もかなり自分勝手だよなぁと思った。相手を見てなくて、自分の中にある相手の姿を見てる感じがする。そこは最後まであまり変わってなかった気がして、「こういう形の愛もある!」という場所に果たして辿り着けているのだろうか? と思った。

『世界の適切な保存』も読了。後半3編ぐらいにわたるガザについての話の中で、大江健三郎の言葉が引用されている。

ものを直視するとはなにか、ものを認識するということはなにか、それこそが想像力を発揮することではないか
(『核時代の想像力』の孫引き)

見ているようで、見えていない。見ることの弱さにを補うのは想像力である、ということ。自分はSNSのタイムラインに流れてくる雑多な物事を見ているけれど見ていないし、ガザのことも全く見れていない。何かが壊れてしまうんじゃないか、今まで通りに生きられなくなるんじゃないか。そんな怖さと弱さで目を覆ってしまう。当たり前にある目の前の日常と、その反対側で起きている残虐な出来事。それらをうまく繋げることができないでいる。
自分の生活と心を守りつつ、どうやって向き合っていけばいいのか。もっと色々知らなければならない。



10/19

思うに、一箱古本市の出店者はいくつかのタイプに分けることができる。
まずはシンプルに、読んだ本を売る人。読んだ本なので、記憶の多少はあれどある程度本の内容を説明できる。何より「目の前のこの人が読んだ本なんだ」という説得力がある。一方で、よほどの速読・多読家でなければ物量を揃えることは難しく、また「本当に良くてずっと手元に置いておきたい」という一群的な本はあまり出せないかもしれない。
次に、雑貨屋さんタイプ。ハンドメイドや趣味関係のグッズを前面に出しつつ本も売るという形だ。実際に雑貨屋として店舗を持つ人が出店している場合もあるだろう。本と雑貨で半々、もしくはスペース的には本の方がちょっと少なく見えることもある。ただ、あまり本を読まない人にとっては、本が少ない方が見やすかったり興味を持ちやすかったりするかもしれない。
そして、本屋さんタイプ。ちょっと本屋気分を味わいたいという人から、真剣にいつか本屋を開きたいと考える人まで色々。このタイプが上記と異なるのは、一箱古本市に向けて本を仕入れたりする、という点だろう。つまり、読んでない本も売っているということだ。

こんなことを考えている自分は完全に「本屋さんタイプ」で、しかも割と沼にハマり始めて在庫まで抱えてしまっている。もちろん中には猛者もいて、一箱をメインに活動しながら小出版社から新刊を仕入れていたりする。そこまではいかないものの、毎週のようにブックオフに通って、「これは売りたいな、売れそうだな」というようなことを考えて本を買ったりする。せどり紙一重のところでやっている気はする。

一方で、やっぱり読まずに売ってしまうことには多少の罪悪感もある。なぜなら一箱古本市の醍醐味はやはり、「この本めっちゃ面白かっんですよ!」とお客さんに本をおすすめすることだからだ。読むからこそできるコミュニケーション。そういうものに私はなりたい。
だから最近はできるだけ多く本を読もうと試みている、という面もある。

ということで、今日は川端康成の『古都』を読みつつ名古屋へ向かう。川端は『伊豆の踊り子』があまりピンと来なかった記憶があるが、『古都』はなかなか読み進めやすい感触。京都弁の面白みが大きいと思う。あるいは、平安神宮の桜の描写の美しさ。

西の回廊の入り口に立つと、紅しだれ桜たちの花むらが、たちまち、人を春にする。
(『古都』p15)

こういう文章書きて〜〜。

名古屋では今日と明日、来週の土日と『円頓寺 本のさんぽみち』が開催されている。昨年は二日出店し、それなりの本が売れた一箱古本市である。今回はお知り合いが出店していたので、ご挨拶も兼ねて今日行った。なじみの古本屋さんからは知人が売ったであろう本を買い(こうやって本はぐるぐると回ってゆく……)、滅多に行けない岐阜や滋賀の古本屋さんでも気になっていた新古本を買い(私はどちらかと言うと「新刊では高くて買えなかったものが安く!」というのを買いがち)、お知り合いと駄弁って夏葉社さんで話題の『冬の本』を買った(これは手放さないぞ)。
そういえばとある古本屋さんで「徒然舎さんで開催された夏葉社さんと善行堂さんのトークのサイン本」というややこしいものも売っていた。繋がってるねぇ。

円頓寺商店街を3往復ぐらいしてめぼしい本を買ったあとは栄に出て、やはりここでもブックオフ。栄のブックオフは、百円文庫は同じ本ばかり並んでいてつまらないのだが、やはり都市の真ん中ということもあって単行本が強い。じーーっくり見ればいい小説とかエッセイとか人文系の本が手に入ったりするのです。
売るかもしれないけれど読みたい本を数冊買った。

帰りに円頓寺で買った『ブックオフから考える』をパラパラめくっていたら、青山ブックセンターブクログがどちらもブックオフグループ傘下だと知ってけっこう驚いた。


10/20

たまたま手にとった『本の雑誌』2012年9月号が文芸誌特集(「文芸誌とは何か、愛である」)で、新潮の編集長インタビューとか各文芸誌の比較とかが載っていて面白い。調べてみるとこれ以前も以降も文芸誌特集というのが見つからなくて、もっとあってもいいのにと思う。

コラムに「ルポ・都内某所文芸誌読書会に潜入!」というのがあって、文チャレの先輩だ!と思った(これは雑誌編集部内でのレクリエーション的活動らしいが)。
新潮編集長(2012年当時、矢野優さん)で、ツイッターが出てきてから文芸誌の感想とかを言うハードルが下がったという話があって、やっぱりここ10年ぐらいで変わってきてるんだなぁ、と思う。この日記もそうだけど、軽率に感想を言える文化は大変ありがたい。(強度のある批評、みたいなものもそれはそれで生き残って欲しいが)


10/21

最近は毎朝NHK政見放送が流れているのだけれど、なぜ毎朝毎朝愛知選挙区なのか。たまには三重も流してくれてもいいんじゃないの?

朝も昼も読めなくて、帰りの電車でようやく『古都』をひらく。新潮の新版はルビが多くて助かる。おかげで明恵上人を「みょうけい」と読み間違える失態も免れた。
鞍馬寺の竹伐り会とか祇園祭とか色々な伝統行事が出てきて、割と内容の説明も細かく書いてくれているのでなんとなくイメージできた。自分からは積極的に知ろうとしなかった知識だけれど、写真や動画で見るより小説の中で出てきた方がちょっと興味を持てるのはなぜだろう。

「忘れんとおこ、一生、忘れんとおこ……。人間かて、心しだいかしらん。」
(『古都』p116)

祇園祭の章の冒頭、この千重子の言葉を引用していた本を最近読んで、それで『古都』も読もうと思ったはずだったのだが、何の本だったかすっかり忘れてしまった。エッセイか書評のはずなのだけれど……。それにしても、こういう何気ない一文から構想を膨らませていくってすごい(あるいは、先に書きたいことがあってここを引いてこられることも)。

一箱古本市に向け、魔のブックオフシール(110円のやつ)を剥がす作業をした。以前に古本屋講座で聞いたソルベント液を筆でペタペタ塗って、ちょっとしてから剥がすとあら簡単!ぺろっと剥がれます。スプレータイプは飛び散ったり出し過ぎでカバーを傷めそうなので、やはり的確に狙える筆塗りがベストなんだな〜と感心した。みんな本のシール剥がしにはソルベントを使おうね!