10月1日からの読書日記の続き。昨日が休みで曜日感覚失ってて投稿忘れていた。
10/22
右の胸から脇にかけてがじんわりと痛む。左右奥歯のあたりの歯茎も腫れていて痛い。胸は筋肉痛的なやつだと思う。口はポップコーンを食べてからそうなった気がするので、歯茎にかすが溜まって腫れているのかもしれない。できればほっといて治ってほしい。
今日も電車で『古都』を読む。
南禅寺に松を見にいくくだりでの、父娘の掛け合い。お互いのためにこんな着物を作る、と話すところが印象的だが、それぞれがどういう感情なのかが微妙に読み取れない。千重子は自分そっくりの「苗子」と出会ったことで、育ての親に対してやや複雑な思いを抱いているのだろう。
一方の、父の方がよくわからない。苗子の件はまだ知らされていないから、この段階での父の悩みは今までと同じく家業とか自分の才能とかに対する部分なのかなと思うけれど、前章の茶屋に行く場面とかも一体どういう感情で放浪しているのかがよくわからない。読書会とかで他の人の見解が聞いてみたいな。
寝る前にちょっとしたものを読みたいと思って『鏡花短編集』から「二、三羽——十二、三羽」を読む。これもルビをたくさん振ってくれているのでありがたいが、やや文語チックな文体(というか七五調みたいな、リズム重視の感じ)で慣れないと目が滑ってしまうが、なんとなく理解はできる。
庭に来る雀の観察から始まり、雀は子が巣離れするのでなく親鳥がどっか行くと書かれている。これは本当なのかな?
ほのぼのとした自然系随筆かと思いきや最後の最後で不思議体験に突入してて、これが鏡花か……!と思った。
10/23
知人が毎月やっている対談イベントに行った。「本を読んでいると(良くも悪くも)自分のことを考えなくなるので、気持ちは落ち込みにくくなっている」と言うような話をした。
そのあとは運転手(闇バイトではなく、家族の)をしたり、期日前投票に行ったり、一箱古本市に出す本にスリップをペタペタ貼っていたら夜になった。相変わらず休日は本が読めない。
ここから読めるモードに持っていくのも大変なので、久々に歌集を手に取る。岡本真帆『あかるい花束』。Xのアカウントは「まほぴ」さんになってて、どことなく親しみやすい印象もある方だと思っているけれど、歌集からもそんな感じが伝わってきてほっこりした。初夏と紫陽花のイメージが印象的だ。
いくつか気になったものを。
わたしもう、夏の合図を待っている 冬至の長い夜からずっと
タンバリンって名前をつけたそのとたん、たん、しゃん、たん、と子犬が跳ねる
手放せばそのぶん手のひらはひらく いってきますと言って手を振る
あったか〜い つめた〜い(しあわせになりたい)開けたらぬるいコーンポタージュ
強がって得る強さよりしなやかでいたいなトランポリンのらんとりん
夏が待ち遠しのはすごいわかる。ついこないだも、「あれ? 今年ってもう夏終わったけ? セミ聞いたっけ?」と思ったりしたので。ボケてるんじゃないと思いたい。
あとは言葉遊び的な要素がある歌が割と好きなんだよな。タンバリンとかトランポリンとか、絶妙にとぼけた可愛さのある言葉を持ってくるセンスが好き。
文學界9月号の短歌特集でも圧倒されたけれど、歌人の言葉選びに対する感覚の鋭利さはすごい。「手が空く」じゃなくて「手のひらがひらく」だし、(しあわせになりたい)も(幸せになりたい)だと急に重すぎる感じがある。三十一文字にどこまで集中すればこのバランス感覚が養えるのだろう。
10/24
今日の通勤でようやく『古都』を読了。秋から冬にかけての辺りを一気に読んだ。
山本健吉が解説で書いているが、やはりこれは京都の四季や祭りを書きたいという思いがあって、そこにすれ違った双子というキャラクターがあてがわれている感じがある。千重子や苗子の美しさは、確かに自然のそれに似ている。
四季それぞれに印象的な場面が散りばめられていた。春は平安神宮の桜。夏は北山杉の森に降る雨。秋は南禅寺の白荻。冬は二人の眠る屋根に降る淡雪。これから先、京都でこのような景色を目にすることがあったら絶対にこの小説のことが思い浮かんでくるだろうなあ、と思う。
10/25
駐輪場から駅に向かう途中、ホームにずっと停まっている電車が見えた時点で嫌な予感はしていた。案の定事故遅延で、80分前に発車しているはずの急行がずっと停まっているのだった。幸いにも10分ほど待ったのちに動き出したが、車内は当然混雑している。急に信号で止まったり動いたりする。事故の起きやすい駅はだいたい決まっているので、重点的にホームドアを設置してほしい。
なんとか確保したスペースで文庫を取り出す。今日持ってきたのは松田青子『おばちゃんたちのいるところ』。松田さん、最近よく名前はお見かけするけれど読むのは初めてだ。
落語や歌舞伎をモチーフにした短編集で、たぶん元ネタを知ってた方が楽しめるやつだった。出てくる幽霊やおばちゃんたちは、社会からすこしずれた場所にいるからこそ悩める人々を助けることができる。落語自体にも元々そういう効能があるのだろう。ただ、はらだ有彩さんが解説で書いているように、昔話のサゲは今の時代にはそぐわないものもある。だからこそ、こういった形での語り直しは時代の要請なのかもしれない。
10/26
布団の上でダラダラしていたら、明日の一箱古本市が雨天中止という連絡が来た。薄々そうなりそうとは思っていたが、張り切って準備していただけにがっかりも大きい。翌週には熊野古道一箱古本市があって、こちらはほぼ間違いなく開催されるので、準備が全く無意味になってしまうことはない。それでも不完全燃焼感はあるため、春の古本市が中止になった時と同様、ニネンノハコでプチ箱市をやることにした。前回は自分が勝手に本を売ってただけだったが、何人かはお知り合いも来てくれたので。
準備設営が大変なのでワイン箱一箱分だけということにする。
今日もあまり読めなさそうな感じなのと、夕方からの観劇に向けてなるべく頭を空っぽにしたいので、アンドレ・ケルテスの写真集『ON READING』を開く。50年近くにわたって撮り続けられた「読む人」のスナップたちである。
この人は画角の中にちょこんと人を入れ込むのがまあうまい。しかもただ単に引きで撮っているだけじゃなくって、読む人以外にもひとつ二つ別の要素が点在していて、一枚の中で「読む人の世界」と「周りの世界」という二つの空間が同居している。解説で高橋周平さんが「他人の人生に橋を渡すような優しさ」と書いているのは、そういうところなのではないかと思う。読書は孤独な営みのようであるけれど、それでもこの世界の中で、読む人が眼差されているということ。
夜、マームとジプシーの「equal」を観る。知人以外の劇を生で見るのは初めてだった。
作者・藤田貴大さんの地元、北海道伊達市が舞台。20年ぶりに地元に戻ってきた青年・シンタロウと地元で暮らし続けた幼馴染たちをめぐる物語。
マームとジプシーは「cocoon」を映像で見たことがあったが、やっぱり激しい動きと同じ場面を何度も何度も繰り返すのが特徴的だ。リフレインによって時系列はどんどんカオスになっていくので、前半は正直ストーリーが全く掴めないのだが、合間に挟まれるモノローグでだんだんと骨格が浮かんでゆく。
幼馴染のうちの一人であるアヤだけが回想以外の場面からは浮いていて、その不在が明らかになっていく構成がテクニカルだった。
タイトルの「equal」の意味を表すこんなセリフが、後半に出てくる。
「過去と同じ未来は、線で、equalで結ばれてはいけない」
この直前に「interlude:1945」という幕が挟まれていて、そこで描かれるのは1945年の伊達、室蘭を襲った空襲や強制連行された人々の虐殺である。鉄工所に対する爆撃、列車の中に籠った人々への機銃掃射といった「証言」が語られ、背景のスクリーンに映った現地の映像の前では、天井から吊るされた電球たちが閃光弾のようにチカチカと明滅する。
戦争から再び現代へと戻る転換の場面にて、アヤが語るのが先ほどのセリフである。
1945年という悲惨な過去と、2024年の現代が、equalではならない。というのがこの演劇の大きなメッセージだった。
個人的には、アヤには生きていてほしかった。不在である違和感が大きくなってきたあたりで、アヤはおそらく自殺してしまったのではないか、ということが仄めかされる。世界の中にうまく居場所を見つけられず、土地の悲しい記憶と世界の現実を自分の中に抱え込んで、耐えられなくなったのではないかと思う……のだけれど、そうやってある人物の死を意味づけてしまうこともまた残酷なのではないか。本当にその死がなくては物語は成立しなかったのか、というところについては考える。
10/27
起きたら普通に晴れていた。さすがに今から「やっぱり一箱古本市やります!」とはならないだろうけれど、主催側も悔しいだろうなあ。最近の天気予報はあまり当てにならない。
河崎に出す予定だったものをワイン一箱に厳選して、ニネンノハコで販売してみる。午前中は誰も来なくて暇だったけれど、昼過ぎにお知り合いが来てくれた。年末に開催するZINEフリマ、「大門文芸市」についての相談などをした。
プチ一箱市は14時ぐらいにお開きにして、ブックオフに寄ったりしつつ伊勢へと向かう。古本屋ぽらん現店主夫妻が参加するバンド「良い土」の出るライブが宇治山田のPousse Barであるのだった。
ビルの薄暗い階段を上がって3階の扉を開けると、もくもく立ち上がるタバコの煙が赤や青のライトに照らされていて、「これがライブハウス……!」という緊張感と場違い感に襲われたりする。知人とぽらんさんがいてくれたおかげでなんとかとどまることができたが、一人で乗り込むのはかなりレベルが高い。ほとんど常連さんっぽいし。
昨日の舞台の話などをしつつ開演を待っていると、次々と人が入ってくる。もともとぽらんさん目当てなのでステージ真ん前のかぶり付きポジションに陣取っていたが、それでもぎゅうぎゅうになってつま先がステージに接するぐらいの場所に押し込まれていった。下手するとギターのネックが頭にぶち当たりそうで怖い。トイレの導線の邪魔にもなってしまう。慣れない場所でのポジション取り、難しすぎる。
「良い土」は土着フォークロック的な感じで、ローカルな土地を主題にした曲たちがユニークなバンドだった。心地よいアコギのカッティングと滑らかなベースラインの上にクラプトンみたいなキレッキレのギターが乗って、ピアニカが懐かしさやエスニックさを掻き立てている。
メイン出演のバンド「South Bound」はがっつりブルースで、全て洋楽だった。こういう渋カッコいいおじさんになれたらいいよなあ、と思えるようなバンドだ。
そんな感じで色々やっていたので、読書タイムは寝る前の数分だけだった。ブックオフで見つけてきた猫のアンソロジー、その名も『にゃんそろじー』を読む。しょこたん編なのだが、幸田文に島木健作、内田百閒から町田康や保坂和志まで、なかなか通なセレクト。最近読んでいるところとも被っている。
タイトルで気になった吉行理恵「空とトンガ」を読む。猫でトンガっていうとトンガ坂文庫さんを連想してしまうが、こちらのトンガは猫の名前でトンガ王国から取ったらしい。そりゃまあ大体のトンガは日本語ではないだろうな。
10/28
一箱の翌日は休みを入れるということにしているので、一箱は無かったものの休みだった。日ごろ「休みがない」とか言いつつ結局自分が出すシフト次第なので、やろうと思えばこうして三連休も取れるのだ。(ただし、ほぼワンオペのためあまり休むと仕事に支障が出過ぎてしまうし、次の出勤日が大変になる)
せっかくなので午前中は昨日から始まっていた亀山トリエンナーレに行く。少しばかり会ったことのある写真家さんが今年は元こんにゃく屋さんで展示していて、商品を入れる運搬用コンテナを額として写真を展示していたのが可愛くてよかった。加藤家屋敷跡のインスタレーションや立体作品は今年も見応えがあった。一通り街道沿いを巡ってお昼過ぎになっていたので少し迷ったが、せっかくなので関宿会場にも行く。こちらはメディア系のインスタレーションが多く、自分的にはなかなか楽しめた。来てよかった。
帰ってからは翌週の「熊野古道一箱古本市」に向けての準備を進める。本当は読んでから売りたかったけれど、少しでも部屋を広くしたいので未読のものもたくさん売りに出す決心をする。
夜、近所の温泉へ行った。最近ずっと修理工事中で閉まっていたので、久々の広い湯船は気持ちいい。もうちょっとお湯が熱くて水風呂が冷たいと良いんだけど、300円である以上これ以上文句は言えない。お湯に浸かりながら、そういえば熊野も温泉あるし、一箱帰りに寄っても良いなあ、と思った。
寝る前に『九鬼周造随筆集』をパラパラめくっていると、「自分の苗字」という一編に尾鷲市九鬼町のことが書かれていた。トンガ坂文庫さんがお店を構える港町だ。
クキとはもともと岫(山の洞)のことだったが、海賊が住んでいたことから鬼になったのだと。周囲にも三木里(これも三鬼里だという)や鬼ヶ城と「鬼」の付く土地が多い。これらはどれも盗人が住んだ土地だという。
尾鷲の海岸線は今では静かな港町だが、歴史的にはなかなか荒々しい土地だったのだなあ。