別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

読書日記一年分予定(5/52)

10月から始まった読書日記の続き。一ヶ月続けることはできた。これからどうなるやら。

10/29

朝のニュースの天気予報図を見たら、ぐいーっと逆「つ」の字を描いて本州に向かう台風が登場していた。さすがに本州上陸時には温帯低気圧になっているようだが、それにしても何で今年はこうも一箱古本市を狙ったように天気が崩れるのか。

朝の電車で三宅香帆『それを読むたび思い出す』を読む。文チャレで登場するたび「今をときめく書評家」という称号を勝手に進呈している三宅さん、やはりなんといっても文章が読みやすい。世代的に近いこともあって、書いてある内容もめっちゃ分かる。
「高知での高校生時代、ブックオフに救われていた」というような話もあって、何かと批判の対象になりがちな新古書店を堂々と書いてくれるのは嬉しい。チェーン店以前を知る人にとったら「古き良きものを淘汰する存在」かもしれないが、チェーン店で育ってきた世代にとっては、あって当たり前の場所なんだよな。

Xでとある個人書店の方の投稿が物議を醸していた。気になっていたお店なのだが、経緯を辿ると「まあそれはやらない方がいいよな」ということなので仕方がない。こういう件を見るたびに「行き過ぎた内輪ノリ」の危なさを思い知らされる。ダメなことの判断が鈍ってしまうところまでいくとまずい。気を付けなければ。


10/30

休み。午前中はダメおしのブックオフに行って、一箱古本市の在庫を可能な限り拡充せんと試みる。この店舗は月に2回ぐらいいくとちょうど良い本が手に入る気がする。
午後は小銭の準備やスリップ作り、持ち運びで汚したくない本にカバーをかけるなどする。

夜、年末にニネンノハコで開催する文芸フリマ「大門文芸市」についての相談をする。ZINEを出そうという企画がようやく動き始めて、テンプレートを作り、参加者を募る。文フリ京都でも出す予定なので、クオリティの良いものができればいいなあと思う。

今月の頭に配信されていた本屋B&Bでの対談動画“くどうれいん×古賀及子 「生活にとって日記とはなにか」 『日記の練習』(NHK出版)刊行記念”がもうすぐ期限切れになるので慌てて全部観た。「日記本ブームって言うけど日記にも色々あって(見せるor見せない、エッセイ的な日記orシンプルに日記……など)どれが流行ってるの?」とか、「日記を読み返すか読み返さないか」とか「やればやるほど意味わからない凄みが出てくる」とか、面白い話だらけだったので申し込んどいて正解だった。
特にくどうさんの仰っていた、他人に共感されすぎたくないから最後はちょっと茶化す、というような話はなるほどな〜と思った。独特の余韻はそういうところから生まれていたのか。

せっかく日記のことを色々考えたので、本のさんぽみちにて購入した蟹の親子『増補版 にき 日記ブームとはなんなのか』を読む。
コロナ以降の日記ブームと「自主制作の日記本ブーム」は重なっているけれど少し違って、後者には商品化とか出版業界の事情とかいろいろな話が絡んでいるのではないか、というような部分にも軽く触れていた。

三者の日記観に触れたところで、自分が今書いているこれはどういうものなんだろうと考える。日記というより読書感想文な気はする。けれど申し訳程度に出来事も綴っている。あとから読み返す可能性はかなり低い。むしろ書きながら、その時々の思考を手放していっているような感覚がある。

tsukihi.stores.jp


10/31

15分ぐらい早く起きられたので体操をして少し歩く余裕があった。朝に少しでも身体を慣らしておくと、一日のしんどさが少しマシになるような気がする。

『それを読むたび思い出す』を朝の電車で読了。三宅さん自身の思い出エピソードを中心に、その頃読んでいた本とか記憶に残った文章などがちょいちょい挟まれている。
村上春樹の『約束された場所で』と山本直樹の『Red』から言葉の危うさについて考えた一編に、色々考えさせられる。

「言葉は、意外とすぐに、極端になる」
(P163「躊躇する途中」より)

机上の空論というように、言葉を使えば簡単に極端な物事を考えることができる。けれども実際の世界はそんな単純じゃなくて、むしろ言葉にできないような曖昧さの方が大切だったりする。
この話を読んでいて、昨日観た日記対談でくどうさんが仰っていた「人々を文章で率いたくない」という話を思い出した。これは言葉の危うさを知っているからこそ出てきた発言だったのだろうなあ。さすが言葉を扱い続けてきたプロだ。


日中は、この日記の一ヶ月分の校正をした。週末の熊野古道一箱古本市までに印刷して冊子にして持っていきたい。読み返してみると我ながら読みにくい文章だなあと思う。「めちゃくちゃ」とかめちゃくちゃ使ってるし。語彙力。でも序盤より少しは読みやすくなってきているんじゃないかな。気のせい?
一応「一年間」という目標を掲げているものの、その後もなんとなく続けていけたらいいな〜と思っている。そのためには緻密な構成とか読みやすい文章とかはとりあえず脇に置いといて、まずは物量を書きたい。古賀さんもこう仰っていた。「ぼんやり書いてみたり、バッキバキに目血走らせて書いてみたり、媚びてみたり、卑下してみたり、色々やっているうちに、試して試してだんだん仕上がっていく」と。だからやっぱりこの日記は続けていって、誰かに読んでもらいたい。書評とか大そうなものじゃ全然なくて、めちゃくちゃにめちゃくちゃだけど。

帰りの電車ではチママンダ・ンゴズィ・アディーチェ『なにかが首のまわりに』を読み始める。最初の方で書いたように、この一年は世界文学にも挑戦したい。てなわけで初のアフリカ文学である。
作者のことは全然知らないのだけれど、『男も女もみんなフェミニストじゃなきゃ』という著作は聞き覚えがあった。ナイジェリア出身の作家だったのか。

最初の4篇ぐらいを読んだけれど、うち3篇に暴動とか内乱が出てくる。そもそもの「日常」のレベルの違いがずっしりくる。『悪童日記』をちょっと思い出したりする。


11/1

友人からのLINEで音楽配信アプリ「Nintendo Music」のリリースを知る。今のところ22タイトルのゲームミュージックが聴けるようだ。……20年待ったよ! 任天堂ビートルズで育った私にとって、これはもう待ちに待ったサービスだった。
任天堂のサントラって一昔前はクラブニンテンドーの特典の非売品だったりして、子どもにはなかなか手が出せない存在だったのだ。64とかになってくるとプレミア付いてて大人でも気軽に買えない。それが!スマホで!聴ける!! 神。

通勤時間は引き続き『なにかが首のまわりに』を読む。短編集なので読みやすそうに思えるが、改行少なめでびっしり書かれているので意外と時間がかかる。
著者自身がナイジェリア生まれで渡米したという経験がベースにあるからか、アメリカに住むナイジェリア人や、ヴィザを取ろうとしてさまざまな困難にあう女性たちを主人公に据えた物語が多い。

「アフリカを過度に好きな白人とアフリカを全然好きじゃない白人はおなじ——腰は低いが人を見下す態度をとるからだ」(『なにかが首のまわりに』P169)
「有色の女性、黒人男性、白人女性、そして最後に白人男性、の順序でファンになって応援している」(同P171)

こういった部分は著者自身の体験に大きく根ざしているのだろう。
日本の田舎でのほほんと暮らしていると人種差別なんて存在しないかのように生きられてしまうが、それはもう本当になにも見えていないだけなんだなと思う。先日もSNSで「日本は日焼けとかで肌の色も結構幅広いから、差別意識がない」みたいな投稿を見かけたが、そういうことでもないよなぁ。それで良しとして「ないこと」にしてしまうのは違うんじゃないか。(外国人排除的な雰囲気は結構あると思うし)


夜、ご飯を食べながらローカルニュースを見ていた。名古屋の交通事故や、飛騨高山の酒造での杉玉の掛け替えなど、近いようで遠いようなニュースたち。なぜかわからないけれどちょっと寂しくなる。

www.nintendo.com


11/2

台風が変化した温帯低気圧の影響で、全国的に猛烈な雨で始まった連休である。しかしなんと明日の一箱古本市は晴れ予報! 誰かもってる人がいるんだろうなぁ。
今日も通勤電車でアディーチェを開く。ようやく半分ぐらいまで読んだ。
「陳腐な言い方」に「クリシエ」というルビがついていて、そういえば最近も紋切り型のことをクリシェって表現している文章に出会ったのを思い出す。今度からはカッコつけてクリシェ、使っていこうか。

お昼過ぎから本格的に雨が降っていて暗かった。内勤なので全然屋外の様子がわからないのだけれど、車が水を跳ねゆく様子でかろうじて降っていることはわかる。
 一箱に向けて文芸市のチラシや名刺を印刷してカットしていく。今まで何度も何度も出店名を変えてしまったせいで無駄になってしまった名刺が数知れない。しばらくは「あんどん書房」で行こうとは思っているが、また人生や価値観のターニングポイントがあったらサクッと変えてしまうかもしれない。一貫性がなんぼのもんじゃい。

帰ってから明日の最終準備をする。什器は積んだ。フリペも用意した。終わった後に温泉へ行くためのお風呂セットもOK。これであとは寝坊さえしなければ……!
と言いつつ毎回何かしら忘れているので、あまり期待はしすぎないでおく。

『なにかが首のまわりに』を読了。あまりにもアフリカについて知らなすぎることがよくよくわかった。日本が80個入る広大な大地と54の国、数えきれないほどの民族が暮らす大陸を「アフリカ」の一言で括ってちゃダメだわ。

最後に収録されていた「がんこな歴史家」は19世紀のナイジェリアで、親族からの圧力と闘うために子どもを伝道学校にやった女性とその孫娘の話。植民地、宗教、アイデンティティなど複雑な問題が絡み合いつつも、最後グレイスが「アファメフナ」(わたしの名前が失われることはないだろう)という名を取り戻すところには歴史を超えた希望のようなものが感じられた。これは単なるナショナリズムや懐古主義ではないだろう。


11/3

謎の夢を見た。
 体育館で列に並んで座っている。授業である。三組合同のようだが、なぜかわたしは自分と違うクラスに混じって参加していた(本当のクラスは体育の授業ではない)。先生が「早く終わった人から帰っていいよ」と話している。いつもこういう授業をしてくれるからみんなに好かれているのだ。
 先生が今日の授業の内容を話し始める。今日はドラムロールをやりましょう。……いや体育違うんかい! という夢だった。苦手なものが自分の好きなものに変質している…というあたりに何らかの意味を読み取れそうな気がしないでもない。
 こんな夢を明晰に覚えているぐらいなので、とっても浅い睡眠だった。5時半起床。5時間寝たかどうか。津から余裕を持って尾鷲に行くならばこれぐらいの時間に起きてご飯を食べたりしなきゃいけない。次こそは絶対、前日までに全ての準備を終わらせると誓った。

青空の下、一箱古本市が始まった。参加予定だったものが二度中止になったので、今年初出店ということになる。風が少し強く吹くタイミングがあって、立てかけているものやスリップがびゅんびゅん飛んでいってしまう。外でやる以上ディスプレイの安定性は必要不可欠だなと思った。これも次回以降の反省。
会場の熊野古道センターは、ヒノキの良い香りがずっと漂っていた。

読みたいけれど積読量的にすぐには手に出せず、かと言って手元に置いておくスペースにも限りがある。積読が一定以上増えると絶対に避けられない悩みだ。本当は倉庫でも借りて置いておきたいのだけれど、倉庫に入れたら入れたで一生読まずに終わりそうでもある。
 だから一箱古本市で一度手放すというのは、一つの方法としてもっと広まってもいいんじゃないだろうか。どちらかというと読みたい本から売れていく、という傾向はある気がするけれど……。

本を売り、他の出店者さんや参加していた出版社さんから本を買ったり、キッチンカーに並んだりしていて意外とゆっくりしている時間がなかったが、隙間時間にようやく『文學界11月号』を読み始める。たぶん12月号出るまでの読了は無理だ。今月の文チャレ報告会は月末にしているのでまだ余裕はあるし、12月以降は発売日に追われるということも無くなるので少し気が楽になる。(出店中、「来年以降も続けるのですか?」と聞かれたが、さすがにそこまでの体力はないです……)

町田康『津井田殺し』は先々月ぐらいに載っていた謎の任侠ものっぽい作品の続き……と言っていいのかよくわからないが、中盤にドグラマグラっぽい狂ってる場面があって良かった。全体的には割とあっさりめだった。
津村記久子『ログアウトボーナス』はソシャゲ依存の女性がソシャゲ断ちを始めてからの生活が描かれた一作。タイトルが同じのゆっきゅんの曲とはたぶん関係ない。
ソシャゲ依存っていうと他の依存症と比べてどうしても軽く思えてしまう部分があったが(他のものより「意志」でやめられそうなイメージを持ってしまいがち)、実際に陥ると大変だ。お酒も薬物も向こうからやってこないが、ソシャゲは向こうからログインさせようとしてくるのだから……。
「50日ログアウトを続けられたら一輪挿しを一つ買う」という対処法がいいなあと思った。



11/4
一箱古本市の翌日は休みを取るようにしている。ここ三ヶ月ぐらいで一番何もしなかった。一日中ベッドの上にいたので、起き上がったとき膝や腰が痛かった。
夜になってようやくパジャマを脱いで入浴し、またパジャマを着た。

引き続き文學界から、遠野遥『関係』を読む。主人公は厚労省の一年目の職員である「私(想太)」。同じく一年目の緋奈乃と付き合っていて、同棲も考えているが、給料や物件がネックで実現には至っていない。「私」は比較的体力があるため仕事に耐えられているが、緋奈乃は長時間の残業に苦しんでいる。
そんな状況の二人は、「若手職員新規事業挑戦プロジェクト」なるものに参加させられることになり、なるべくこれ以上の負担を増やさずできることとして「自殺対策」に取り組むことにする。既存のものをなぞるのではなく新しい活動をしたいと計画したのが、自殺を助長していると考えられる著名人に、その活動を控えるようお願いするというものだった。
上司の許可を得た二人は初めに作家の斉藤友の元を訪ね、編集長も交えた四人で話し合うことになる……というストーリーだった。

設定的に面白いなと思ったのが、あえて作家側ではなく国の職員側から書かれているというところで、職員側から見た作家の面倒臭さ(同意書にサインすることは渋り、二人の関係について根掘り葉掘り聞いてくる)みたいな部分も書かれている。もちろん作家側からすると表現を国から規制されそうになるのは嫌だろう。

作品の中心になっているのはタイトル通り「関係」。主人公と緋奈乃との恋人関係を中心に、部下と上司とか、表現者と国とか色々な関係が登場する。全体が四章構成で「カップヌードルミュージアム」「職場」「緋奈乃の家」「作家の家」というそれぞれの場面での二人の関係性が描かれている。
作家とのやり取りの後で「私」がくたびれているのに対して、緋奈乃は「刺激的」だったと言う。主人公の方がより官僚っぽい感性、みたいな気がする。この微妙なズレを抱えたままやっていけるのか。あるいは関係性が破綻してしまうのか。微妙な緊張感を伴った終わり方が面白い。