別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

読書日記一年分予定(6/52)

10月からやってる読書日記の続き。今週はなんだかあまり読めず、読書以外の話が多め。
ある程度の読めるペースは保っていたい。


前回
himasogai.hateblo.jp


11/5

先月読んだ『10代からの文章レッスン』の件で、読者の誤読に対して著者の頭木さんが訂正をされていた。ちょうど日記に書いた「言語隠蔽」に関するところである。
誤読は、「事件の犯人を目撃した人に、犯人がどういう顔をしていたか言葉で説明してもらい、その後で複数の顔写真の中から犯人の顔を選んでもらう。すると、言葉で説明しなかった場合に比べて、正しく犯人を選び出せる確率が格段に下がる」(『10代からの文章レッスン』p75より)という箇所で発生していた。この事例で言わんとしているのは「説明した部分の記憶だけが鮮明になり、それ以外の情報が抜け落ちてしまう」という言語化のデメリットである。しかしある読者はここを「メモを取ると、ミステリーで犯人を当てる時の正答率が下がる」から「文章にすると判断力が下がる」と読んだらしい。
まさにこれ自体がまとめることの危うさの事例のようだが、そもそもまとめる以前に文章を読めていないという問題がある。「ミステリー」も「メモを取る」も一言も出てきていない。
ただ、最後の「文章にすると判断力が下がる」という結論は、なんだか合っているような気がしてしまう。もちろん実際のところ原文が言いたいのは「安易な言語化」の危うさであり、だからメモを取るなというのは極端な解釈だ。つまり、結論は多少近いところにあるかもしれないが、そこに至るまでの議論が誤っているので、これはやはり誤読だ。

なぜこのような読み違いが発生してしまうのか。おそらくこの読者は日頃からメモを取ることについてたくさん考えている人なのだろう。その人が書いているのもほとんど自分のことで、自分が言いたいことのために誤読した内容を引用している形になっている。


誤読について長々と書いてしまったけれど、この件については自分自身もだいぶ身につまされるところがある。
人様の文章を読んで何かを書く以上、なるべく誤読や誤解は気を付けなければならない。たとえ個人的な日記や感想文で、たいした発信力がないとしてもだ。(ある本のある記述に関して検索すると自分の文章しか出てこない……ということも稀にあるし)
まず記憶で適当なことを書かない。引用できるところはなるだけ引用する。自分の言いたいことに牽強付会するためにこじつけない。「これってあれに似てるよね」とか安易に言わない。
ただ、今回の件のような論考的な文書と違って、小説や詩歌に関しては明確な正解があるわけではない。自分もめちゃくちゃ誤読しまくってる気がする。正直ここはすごく難しい(だからXに小説の感想を書いたりするの、けっこう勇気がいる……)。
その辺が不安なので、たまにAmazonとかブクログのレビューを読んでから感想をまとめたりする。それはそれで他人の思考の横取りのようでもあり、躊躇いはあるが。
だからこそ、読書会に参加したり、書評を読んだりして、なるべくいろんな人のいろんな読みに触れる必要があるのだと思う。自分の読みだけが正解でないと肝に銘じておくために。
そういうことを考えさせられました。


文學界より、篠原勝之『いきたあり奈良』を読む。恥ずかしながら篠原さんを初めて知ったのだが、内容と経歴を見るにどうやら私小説的な作品のようだ。
「オレ」は甲斐駒ヶ岳の山林地にある作業所で鉄鋼作品を作り続けていたが、あるとき脳卒中や心房細動を患い、「カカア」の実家がある奈良へと転居することになる。奈良に移ってからは鉄ではなく「土」に向き合い始め、農村に〈泥禿庵〉を構えて日々を暮らしてゆく。
物語としての起伏は大きくないものの、フィンランドでのラルス・ヤンソンとの出会いや泥禿庵からツバメたちが巣立ってゆく様子など、自然や出会いの描写が美しい。一人称「オレ」でハードボイルドな感じかと思いきや、めちゃくちゃほっこりなのである。
何よりこの文章の瑞々しさ。御歳82にしてここまでパリッとした文章を書けるのはすごい。かっこいい。まだまだ作り続けて、書き続けて欲しい。



11/6

最近出かけてばかりで完全に放置していた部屋を掃除する。布団を干してシーツをコインランドリーに放り込む。至るところに発生している本の山を崩しながら、隅々の埃を掃除機で吸ってゆく。ストレッチや体操をできるぐらいのスペースを確保する。
とりあえず大切なものの埃は祓えたかな、ぐらいの状態まで回復したが、結局本の山はどこにも持ってゆけず。そもそも本棚にもう空間がない。CDとかごちゃごちゃしたものまで放り込んでいるのが悪いんだけれど、それまで片付けようとなるともはや大掃除である。とりあえず机の上に再びタワーを作っておく。もうしばらく本は買わないという誓い(フラグ)を立てながら。

で、さっそく午後にブックオフに寄ってしまったわけです。滅多に行かない北の方まで1時間半かけて来たのだから、まあ1、2冊いい本でも見繕っておくかなと。そしたらもうね、単行本がヤバかった。2000円で売っててもおかしくない本が220円で売ってた。そりゃ誰だって買うじゃん。で、2000円分買っていたというわけですね(笑) いや笑い事じゃねんだわ。
まあ、あと1ヶ月で文チャレも終わることだし。冬から本格的に積読消化月間をやっていくしかないです。(文芸誌に追われなくなったらなったで読書量が減りそうな気もするけど……)

あとは図書館に予約本を借りに行ったら先日のトークショーで知った文学通信の『開講!木彫り熊概論』を見つけちゃったりとかで、図書館本は現在5冊+予約3冊という状況。一生読みものには困らないね。


読書日記をつける以上、これは外しておけないだろうという阿久津隆『読書の日記』をパラパラと読んでみる。たぶん何ヶ月かかけてじっくり読む本だと思う。
短くて2〜300文字、長くて3000文字ぐらいはあるのかな。それが一年分で新書判にして1,100ページ。ちょっとした辞書だ。自分のこれはさすがに全部まとめて本や冊子にすることはないだろうが、一年間日記を続けるのはこんなにも迫力が出ることなんだ、というのはちょっと勇気になる。
あえて読書感想じゃなくて「日記」をつけることのメリットは、読んでいる最中の思考の流れを残しておけることだ。読書から受ける印象は、その時々の読み手のいる環境にも大きく影響を受ける。感想だけでは「どうしてあの時の自分はこんな読み方をしたんだろう?」というのが抜け落ちてしまう。読書日記はメタ感想文なのだ。

阿久津さんの日記は読み手に対する配慮がしっかりなされていると思う。じゃなきゃ他人の一年分の日記なんて読めないだろう。こうして公開していっている以上、自分もその辺はもうちょっと考えたいと思う。

numabooks.com


11/7

急にめっちゃ寒くなった。もうちょっとグラデーションでいってくれへんか。

文學界11月号より坂上秋成『泥の香り』を読む。めっちゃ純文学らしい作品だった。主人公は39歳の男性。大学で同じ映画サークルに入っていた女性・ナナキと六年ほど同棲しているが、あるときナナキから「もう二度とセックスしたくない」と言われたことにショックを受け、自身の肥満気味の体型や加齢臭を気にする生活を送っている。
ナナキが塾講師として堅実に働く一方、主人公はライターをしつつ、仕事より麻雀で稼ぎを得ている。ある日、雀荘で大学時代のサークルメンバー・竹井と出会う。竹井は不動産関係の会社を起業しており、肉体的にも若さを保っているように見える。
竹井との出会いで学生時代の思い出が蘇る一方で、竹井とナナキだけが会話し、自分だけ置いていかれるような状況に不快さを感じる。恵まれた家庭に生まれた竹井に対する嫉妬がかつてと同じように湧き上がってくるのだった。

という感じのあらすじで、読んでいてすごくハラハラする作品だった。主人公は常にナナキに対して「今の自分はナナキに不釣り合いなのではないか」という不安を抱えていて、それが主人公をどんどんダメな方に向かわせていく。竹井と高額で麻雀を打つことになる場面なんかもう「なんでや〜!!」と叫びたくなってしまった。そんなことして負けたら余計にナナキに迷惑やん。
最後の方でナナキが主人公に放つ言葉が、刺さる。

「あなたの身体のいろんな箇所に子どもの欠片が散らばってて、それがために飛び出て他人に刺さるんだ。あなたはそれに気付かない。」
(『文學界2024年11月号「泥の香り」』p153)

もともと主人公は多くのタスクをこなすことが苦手で、風呂を嫌って何年も湯船に浸からなかったり、時間やスケジュールに拘束されることがストレスで営業の仕事を辞めてライターになっている。その特性自体に対してはナナキもある程度理解を示している気がするのだが、何より主人公の幼稚さが問題なのだ。
竹井にもナナキにも欠点はあるが、ちゃんと自分と相手のことを見ているという感じがする。一方で主人公は色々と自己完結している。最後の最後でナナキから動画を見せられて、ようやく自分を客観視することになるのだ。

怖い小説だ。中年危機的な諸々も怖いのだが、(悪い意味で)子どものまま中年になってしまうことの恐ろしさを突きつけてくる。主人公にはそれを気付かせてくれる人たちがいるだけマシだけれど、気付けないまま行っちゃったらもう本当に救いようがない。
……どうすれば大人になれるかなあ。


お昼休憩中に書店へ行って、『文學界12月号』を買った。優しい抹茶色……。
文芸誌を一年間読んでみるチャレンジもこれがラスト1冊。あっという間だったなあ。


11/8

行きの電車では文學界の対談『保存されない時代を描く 長嶋有×千葉雅也』を読む。たぶん『僕たちの保存』刊行記念のやつ。最後の二話分は今年掲載されていたので読んだけれど、「保存」と「移動」がテーマだとは気付かなかった。
対談で繰り返し出てきているのが「シーケンシャル」というキーワード。現代では情報にアクセスする際に「ランダムアクセス」、つまり好きなところへ無駄な回り道をせずに辿り着けるのが当たり前になっているけれど、一方で連続性(シークエンス)や統一性が書かれることも大切なんじゃないの? みたいな話だと思う。
千葉さんが出されている例が分かりやすかったので引用しておく。

「色々な記録にランダムアクセスできるようになり、昔の発言が掘り返されて攻撃されたりもする。一人の人間にとっての、時間的な統一性の捉え方がかなり変化していると思います」
(『文學界 2024年11月号』p164)

文脈から切り離された情報だけで判断されてしまう、ということが最近はとても多くなっている。本当はそこに至るまでの過去があり、そこからの展開があるはずなのに。
そういうところまで考えを至らせられる体力をつけるためにも、やっぱり小説を読むって大切だと思う。
あとビートルズも曲単位じゃなくてちゃんとアルバムで聴こう。素晴らしいから。


帰りの電車では岡真里・小山哲・藤原辰史『中学生から知りたいパレスチナのこと』を読む。読もうと思えばいつでも読めたはずなのに、引き延ばしてしまっていた。

「どの言語の、どの国の文学であれ、どの国の歴史であれ、哲学であれ、人文学=ヒューマニティーズに関わるとは、その専門とする地域や言語をこえて、そういうことであると私は思います。中東世界、イスラーム世界の出来事だから、中東・イスラーム地域の研究者だけの問題だ、ヨーロッパの人文学研究者には関係ない、などということはありえません」
(『中学生から知りたいパレスチナのこと』 p37)

そうか、人文学って人間のことを考える学問なんだ、というのに今更気付かされた。今までずっと文系の難しそうな専門領域ぐらいのふわふわした理解だった。
自分はめちゃくちゃ視野が狭い人間なので、どうすれば色々な物事を繋げて考えられるようになるかをもっと知りたい。


11/9

疲れが溜まってきた週の終わりである。ここ数日喉も痛い。水曜日までは耳鼻科にもかかれないのでつらい。

文學界は次なる対談、『男の美学とチャーミングな情けなさ 横山剣×岸政彦』に進む。最近秋のプレイリストを流していたら「秋になっちゃった」が流れてきてCKBが気になっていた自分にとってはタイムリーだ。
岸さんが色々な曲に触れ、横山さんがエピソードを語っていく構成。独学で作曲を習得していったというエピソードに、「楽器やってないから」とか「理論知らないから」とか言い訳してる自分が情けない。

音楽系の対談はさっくり読めそうに思えるが、紹介された曲を聴いたりしていると意外と時間がかかるのだった。


11/10

2、3年前の本当にしんどかった時期、毎日のように県の図書館に通って本を読んでいた。そこで「死にたくなったら本を読んでやり過ごせばいい」と気付くことができたわけなので、大袈裟でなく命の恩人的スポットである。
今でも県内外の本の取り寄せのために月に2回ぐらいは通っているが、今日はそんな図書館で周年イベントが開催されていたので行ってきた。

マルシェやワークショップなど、さまざまなイベントを館内外でやっていて大変盛り上がっていたのだが、個人的に一つの目玉イベントが「古本市」。図書館のある建物のエントランスでやっていたのでコンパクトだったが、1時間ぐらいかけて端から端までじっくり見ていると、ロラン・バルトの『あかるい部屋』を発見。個人的に写真論の本を集めているのだが、この本はなかなか見当たらないか、あっても高くて(みすず書房の本は古本でも割と高い)見送っていた。それがついに1,000円で出ていたのだ。嘘やろ千円!?即買った。こういうことがあるから古本市に通うのはやめられないのだ。
他にも地元の郷土会の冊子が百円で売っていたので買ってみたりした。実家がある集落に関する江戸時代ぐらいの出来事が取り上げられていた。まさかこの辺りのことが書かれた冊子があるとは。

で、午後はもう一つの目玉イベントである万城目学さんの講演に行ってきた。何人かのお知り合いに「行くんですよ〜」って言ったらみんな口を揃えて「速攻で満席になったやつ?」と言うので、運よく割と早めに申し込めていたらしい。Xに投稿してくれた方に感謝。
内容は割とざっくばらんに万城目さんが話す感じ。ローカルエピソードを程よく絡めて話してくれるあたり、講演会慣れしてらっしゃるな〜という感じがした。

地方エピソードの一つに、「兵庫問題」というのがあって面白かった。曰く、京都や奈良を舞台に作品を書いていると「近畿の他の県で、兵庫とか三重とか和歌山とか舞台に書いてくれませんか?」とお願いされることが多い。だが、そういう人は本当は「自分の地元」を求めていて、たとえば神戸市を舞台にしても、明石や豊岡の人は納得してくれない……という。
一方で京都は京都市内や四条河原町を出せばなんとなく全京都を代表してる感じになるし、奈良だったら鹿(以下略)。
先月号の文學界でもご当地小説に需要ありって話が出てきてたけど、こういう話を聞くとより実感できるなぁと思った。ちなみに万城目さんが言うには「そこで生まれ育った人が書けばいいんじゃない」とのこと。万城目さんの場合は、あくまで自分が関係していたり、深く知ることができた土地を舞台にしたいという感じらしい。

もう一つエピソードとして印象的だったのは、大学生で小説を志してから『鴨川ホルモー』でデビューするまでの十年間は、暗めの作品を書いていたという話。今の万城目さんのスタイルからは想像がつかないが、純文や私小説よりのものを書かれていたのだとか。
就職して、そして退職してからもずっと公募に送っていたけれど、橋にも棒にも掛からなかった。もうこれでダメなら諦めて大阪に帰って再就職しよう……と思い切ってスタイルを変えて書いたのが『鴨川ホルモー』だった、と。
もちろん「できることはやり尽くした」というところまでやり切ったからこそ書けた作品だったのだと思うが、こだわりを手放して思い切ることも必要なんだなあというエピソードでした。

あと個人的に嬉しかったのは事前アンケートで書いた質問に答えてくださったこと。万城目さんは最近「万筆舎」という一人出版社をされていて、文フリやBOOTHオンリーでの販売など新たな作品作りに取り組まれている。文フリ→商業という方は増えてきているが、その逆である程度キャリアがあるところからの自費出版というケースはレアだと思う。その辺の理由を聞いてみたかったのだった。
万城目さんからのお答えは、「本ができる過程を全然知らないことに作家として恥ずかしさを感じていたから」とのことだった。それまでは本のデザインなどに関しては編集者を通してやり取りしていたから、「もっとこうしたい」というのを気軽にお願いしていた。しかし自分で一からデザイナーさんやイラストレーターさんとやり取りしてみると、上がってきたラフに対して気軽に変更なんてお願いできない…! そうして編集者の心労を知ってからは、口出しは一切やめた、というようなお話もされていた。いい話だな〜。。


あとは「創作に息抜きはない ずっと考えてるしかない」というのが名言でした。肝に銘じます。


11/11

文學界は東畑開人『贅沢な悩み』へ。今回から第2部「生存篇」に入ったのだが、冒頭5ページぐらいずっと締切の話をしている。たぶん今回は導入だけを書きたかったけれどそれじゃ余ってしまうからページ稼いでるのでは?なんて勘繰ってしまうが。これはこれで逆に単行本化の際の直しが大変そうだけど…。
でも締切が怖すぎて今までに一度も破ったことがないというのはすごい。

第二部のはじめ、「生存」と「実存」が「心を可能にする仕事」と「心を自由にする仕事」と言い換えられた。こうやって言葉を言い換えて展開していくのは東畑さんの著書でよくあるけれど、毎度専門的な言葉をわかりやすく噛み砕くのが本当にうまい。めっちゃ理解できたような感じがしてしまう。実際の理解度はさておき。
こういう人の授業受けてみたかったな〜。


続いて福田和也追悼エッセイ二編も読む。評論とか論壇について全然知らないのでいつ頃の方なのかな〜と思ったら主な活動期間は平成だった。追悼エッセイにもトトロとか出てきて、割と最近だ!となった。この先どんどん平成に活躍された方の訃報を聞くことになるのだなあ、というのを実感。