別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

読書日記一年分予定(8/52)

そろそろ3ヶ月目になる日記の続き。
ひたすら谷川俊太郎の詩とその評論に向き合い続けた週。


前回
himasogai.hateblo.jp

11/19

タイムランに嘆きが流れてきて、辿っていくと谷川俊太郎の訃報にたどり着いた。92歳、老衰にて死去。これはもう大往生でしょう。
1931年生まれ。満州事変の年だ。三島由紀夫とか安部公房とか寺山修司とかとほぼ同じ世代、というとめちゃくちゃ昔の人みたいなイメージを持ってしまうが、もちろんそんなことはなく、2024年に至るまでバリバリ第一線で活躍されていた。だから、めちゃくちゃ「今の人」って感じなんだよな。ずっと今であり続けてきた人。
そういうイメージがあるのは、下の世代の人たちとも積極的にコラボしてきたからかもしれない。自分が読むなり買うなりしたあたりでは木下龍也、川内倫子ブレイディみかこ(共著)、DECO*27(対談)などなど、分野もバラバラないろんな人たちと関わられている。年齢差もジャンルの壁も超えてこれだけ色々な人と向き合えるというのは、やっぱり谷川さん自身のセンスの良さがあるんだと思う。

いま手元にある谷川俊太郎を集めてみた。詩集は『自選 谷川俊太郎詩集』(岩波文庫)、『谷川俊太郎詩集』(ハルキ文庫)、『夜のミッキーマウス』(新潮文庫)。エッセイ『ひとり暮らし』(新潮文庫)、共著に『詩の誕生』(岩波文庫)、『これより先には入れません』(ナナロク社)、『いまここ』(touch press)。そしてユリイカ臨時増刊号の『92年目の谷川俊太郎』(青土社)。谷川さんの文章が載っている本だと探せばもっとあるかもしれない。もし「全集」を作ろうと思ったら、一体全何巻になるのだろうか……。

しかしだ、これだけ谷川俊太郎の本に囲まれているにもかかわらず、自分は今までにちゃんと谷川さんの詩と向き合ってきたことがあるだろうか? ただただ「谷川俊太郎の詩は良い」みたいなイメージだけで、なんとなく読んできたのではなかったか。
また遅すぎた。訃報に際して、というのは今頃全国の書店で急ピッチで準備されている追悼フェアみたいな、ある種の乗っかり消費みたいになってしまって申し訳なさすぎるのだが、それでもここでちゃんと向き合いたい。


岩波とハルキの詩集をパラパラとめくって何篇か読んだ。『日本語のカタログ』みたいな前衛的なものから『生きる』などシンプルで強いものまで、本当に手数が多い詩人だ。
『あなた』という詩が特に印象に残ったのだが、全体的に谷川さんの詩は「あなた」に向けて書かれているような気がする。自分の中で完結した何かを表現するのではなく、それを読むあなたとの間で何かが生まれるような詩。そこが親しみやすさの要因なのではないだろうか。


11/20

今月も知人が主催している対談会に行く。「対談」なので何を話してもいいのだが、自分の場合は毎度カウンセリングのような感じで自分を掘り下げる感じになることが多い。別に普段でもそういう話をすることもできるが、時間を決めて対価を払って対談をするというフォーマットがあることで、自分としても話しやすくてありがたい。
今回は「もう少し自分の持っているもの、思っていることについて考えてみよう」というような結論になった。

所要を済ませたあと、覚悟を決めて車検の見積もりに行った。壊れている部品があり、そこを交換しないと車検に通らないとのことで、お見積り15万円也。日頃からメンテしないツケがこういうところに回ってくるわけである。本当はもう車なんて無しで生きていけたらいいし、自分は車を持つに値する人間じゃないと思っているのだが、少なくともこの田舎に住み続ける以上、このコストは引き受けなければならない。世知辛いのじゃ。

2つの図書館に行き、3冊の本を返して、4冊の本を借りた。あれ??(予約の本を借りるだけのつもりが、良さげな本を見つけて借りてしまうやつ)

で、いつもの休日のパターンで、夜になってからようやく腰を落ち着けて本を読む。3月に買ってずっと放置していた『ユリイカ臨時増刊号 〈総特集〉92年目の谷川俊太郎』を読み始める。いちおう文チャレ継続中の年内には読もうと思っていたのだが、改めて見ると460ページもある。紙質も良くて、ずっしりしている。これは年内に読み終われるかなぁ?

ディエゴ・マルティーナ「『二十億光年の孤独』——孤独の旅の軌跡」を読んで、ああそうか、孤独なのか、とめちゃくちゃ今更なことに気付いた。谷川さんの詩にはあなたがいる、みたいなことを昨日書いたが、デビュー当時は孤独だったのだ。
この評論では『二十億光年の孤独』を、青年期の谷川が不安と悩みを鎮められるようになるまでの道のりと読んでいるが、二十歳そこらでここまで悟ってるのはやっぱりすごい。
俄然ちゃんと読み通したくなる。


11/21

車検に重なり通勤定期の更新が来てしまった。バイト一月の収入が余裕で飛んでしまう額にくらくらする。(給与は交通費含なので差し引いて収入を考えるべきなのだが、アホなので何も考えずに使ってしまう)
しばらく本買うのをやめよう(やめない)。

朝は眠すぎて何も読めなかったので、帰りの電車でユリイカを読む。増刊号な上にいい紙使ってるので重い。片手で吊り革を持ちながらもう片方の手で開いているとプルプルする。持ち運んで読む本じゃねぇわ。
フォークシンガー小室等さんの文章で『生きる』の別バージョンとして『いま生きているということ』という曲のために書かれた詩があることを知る。「いまナイフはきらめくということ」など、『生きる』よりもやや尖ったセンテンスも含まれている。
他にもクラムボン原田郁子さんの文章では『いまここ』の展開が書かれている。自分は川内倫子さんとの写真詩集で知ったのだが、もともとは原田さんのお願いで生まれた詩だったようだ。配信されている楽曲としての「いまここ」を聞いてみる。途中に谷川さんご本人の朗読ゾーンがあるのだが、んぱぱんぱぱのところをそんな繋げて読むのか、というのが意外だった。朗読で聞くと印象が違って面白い。

ユリイカは「詩と批評」の雑誌なので、当然谷川俊太郎に対して批判的検討がなされた文章も載っている。柴田聡子さんはある時期から谷川俊太郎の詩を素直に読めなかったという。谷川さんの詩にある「ぼく(男性)」が「きみ(女性)」を指すような構図だとか、「子供らしさ」が覆い隠してしまう大人の傲慢さとか。
もちろんこれは柴田さんが受け取った谷川作品の印象で、自分はその批判の妥当性を判断できるほど谷川作品を読めていない。
でも、「谷川俊太郎すごい!!」だけで終わらずに「これってちょっとどうなの?」という部分も持っていられるほうが、よっぽど作品と深く向き合っているような気もする。
自分はすぐに「すげえ!」になりがちなので、反省。




11/22

7時代のNHK全国ニュースでのアナウンサーのやり取り。

A「私の世代だと黒猫といえばタンゴなんですよ」
B「はい、ちょっと難しかったです」

朝からサラッと恐ろしいことをお茶の間に発信するんじゃあないよ。幅広い世代に刺さるやろがい。というかこないだNHKの歌番組の古い歌特集でも出てたやん。
そのうち「だんごと言えば三兄弟なんですよね」とか「山寺宏一と言えばおっはー」とかも通じなくなるじゃん。時代。


最近明らかに眠りが浅くなっていて、眠いしだるい。でも今朝の電車では座って寝ることができなかったので、ユリイカを読み進めた。
さすが〈総特集〉というだけあって、谷川俊太郎の合唱曲や校歌もそれぞれ論考が掲載されている。細馬宏通「校歌の宇宙」によると、谷川作の校歌には土地の山水や学校名がほとんど出てこないが、代わりに宇宙とか空はよく出てくるらしい。谷川さんが仕事として校歌を多数手掛けているのは1960年ごろらしく、まだまだ二十億光年的な方向性だったのかもしれない。(そして校歌での経験が転機となって、絵本や子ども向けの詩作が増えていった……と周東美材さんが書かれていた)
谷川俊太郎校歌、歌ってみたかった。

合唱曲に関しては森山至貴「扱いやすさの罠の前で」にて、単語が簡潔で、反復や入れ替えがしやすいので作曲家に人気なのでは、と分析されていた。

くどうれいん『日記の練習』の10月ぐらいから最後までだーーっと読む。すごい頻度で盛岡と東京を行き来しててすごい。
仕事量が増えるとともにネガティブな気持ちの日も増えているような気がして、作家とはかくも大変なものなのか……と、ちょっと怖い。


11/23

車で駅まで向かったら駅前通りが歩行者天国になっていて困った。もう少し大々的に告知して欲しい。
今日は荷物が多くなりそうだったので、気休めも兼ねて軽い文庫を持っていくことにした。乙一『箱庭図書館』を鞄から取り出し、まずは最後の短編「ホワイト・ステップ」を開く。先日、カフェでの演劇イベントで上演されていたらしい。自分はまだ演劇にもちょっといいお食事にもビビってしまって行けたことがないが、とりあえず原作を読んでみようと。

めったに雪の降らない文善寺町が一面の銀世界になった日、決して交わることのなかった二人が出会い……。
……だからさ、こういうのに弱いんだって! 「並行世界の交わり」的なストーリーはたぶん色々あるけれど、この作品はものすごく王道を行きつつもやっぱりグッとくるところがあるなぁ、と思った。うん、そうだよね!そうするよね!!と、期待を裏切らないストーリー。なんか最近捻くれた(いい意味で)話ばかり読みすぎて、久々に食べたシンプルな味付けの味噌汁がとても美味かったみたいな気持ち(?)
主人公の青年がやたら森見登美彦チックなのは面白いが。


11/24

なんでこんなに時間がないのだろう。9時前に起きて、買い物を済ませたらお昼。ご飯を食べて、毛布を洗濯して、掃除機をかけていたら夕方。そこから図書館に本を返しに行ったりしていたら、もう夜だ。
車社会の地方では、こんな天気の良い秋の日曜日は大変道路が混雑する、というのももちろんある。実際、用事をしている時間より移動している時間の方が長いかもしれない。それにしても、なぜここまで休日はあっという間なのか。

ユリイカより『今更、谷川俊太郎 谷川作品をめぐるシンポジウム』を読む。昨年早稲田で開催された座談会らしい。これが読んでてめちゃくちゃ面白い。詩人の伊藤比呂美さん、四元康裕さん、マーサ・ナカムラさんと作家・高橋源一郎さん、評論家・尾崎真理子さんの5名によるトークである。

谷川俊太郎はあまり批判されてこなかったという話が出てきて、なぜならばあまりにも有名すぎて逆に匿名的になっちゃっているから、という分析にすごく納得した。谷川俊太郎という詩人はみんな知ってるけれど、あちらこちらにある谷川作品が谷川俊太郎の詩だと意識せずに通り過ぎてしまう。自分もまさにそんな感じで「なんとなく知ってる」と思ってここまで来てしまったのだった。
その流れで谷川俊太郎の詩はいわゆる「現代詩」ではないという話も出てきていて、現代詩ってシンプルに現代の詩ではなかったのか……! と思った。どうやら現代という「時代」に向き合って書かれた詩が現代詩、ということらしい、多分。で、谷川作品は時代とか超越して宇宙へ行っちゃうから現代詩ではない、と。
(でも話の流れを見てると単純に「複雑なのが現代詩」って感じになってるような気がしなくもない。『定義』は現代詩っぽいということだし)

あとは70年代まではホモソーシャルな部分があったけど佐野洋子との結婚あたりから変わっていったとか、1990年代半ばから2000年代まで十年ぐらい詩を書かない時期があったとか、谷川俊太郎は最初から谷川俊太郎な気がしていたけれど、知らないだけで色々な時期を経ているんだなあと分かって面白かった。

ここまで読んできて分かったのは、「鳥羽」という連作の詩が、谷川俊太郎を論じる上で欠かせない重要作ということだ。「何一つ書く事はない」から始まる詩人としての自己批判ということなのだけれど、連作だし詩画集なので実物を読んでみたい。

11/25

(まだあと3時間ぐらい寝てられるのにな)と思いながら起きた。3時間早く寝たらいいかというとそういうことでもなくて、朝に寝るのがいいんだよな。概日リズムの敗北だ。

修理してもらった原付に乗ったらスイスイ進む。風、切ってるわ。テンテテ テンテテ テンテンテッテ、と脳内でOb-La-Di, Ob-La-Da が流れ出す。逆に今までどれだけ限界状態で乗ってたんだよという話である。乗り物、定期メンテ、サボっちゃダメ。

今日も今日とて谷川ユリイカに取り組む。ようやく半分ぐらいまで読んだのだけれど、割とどの評論も似たような話をしている気がする(谷川作品には時間や歴史がないとか、谷川作品はマスメディアに接近しているとか)。同じ作品を評してるんだから多少は仕方ないとしても、なんかずっと同じことを読んでいる気がする。「鳥羽」もめっちゃ出てくるし。
こうなってくるのはやっぱり、谷川俊太郎を批評する難しさなのかもな〜と思う。

そんな本書の中でも異彩を放っているのが福永信『小説による「朝のリレー」』である。かの有名な「カムチャッカの若者が……」というあの詩を埋め込んだ小説ということで、詩の言葉の部分は太字になっている。壮大なあいうえお作文みたいな怪作だ。
正直ストーリーがあってないような、というか元の詩に負けちゃってる感じが否めなくもないが、でもこれを見てこのユリイカを買うことを決めたので、試みとしてはとても面白い。

しかしこのペースで読んでいたら間違いなく明後日の「文チャレ」には間に合わないよなあ。毎月ユリイカ読んでる人は凄すぎる。