たいして本は読めないけれど、読んでいないとすぐ鬱で底に落ちてしまう
そんなどうしようもない人間が日々をやり過ごすための読書の日記、18回目です。
※ 「機動戦士ガンダムGQuuuuuuX」のネタバレを一部に含みます。

前回のあらすじ
himasogai.hateblo.jp
1/28
7時前に一度目覚めていたのに寝てしまい、起きられなかった。いつも無意識で二度寝してるから起きるときめちゃくちゃ眠いのではないか。
どちらにせよ睡眠の質か量が足りないんだろうけどさ。
駅まで原付に乗っているとき、「これは好きだ!」というメロディが頭に流れてきて、駅についてからGarageBandにメモしようとしたが、再現できず。霧散してしまった。悔しい!
今日からは畑中章宏『感情の民俗学』を読み始める。自分は感情が薄いんじゃないか?と思うことがよくあるので、何かしらのヒントになるのではないかと。
感情と民俗学の接点がいまいち分からないので楽しみ。
泣いたり、笑ったり、怒ったりすることが、私たちの主体的な意思によってなされているわけではない。私たちを取りまく時代や環境、私たちが生きる民俗によって制約を受け、また時代や環境に向けて感情を表しているとは考えられないでしょうか
(畑中章宏『感情の民俗学』イースト・プレス P13)
この本のメインテーマだ。感情を我々の外側にあるものとして考える。
痛いとか涙が出るとか根本的な部分の感情、というか情動は内側にある気がする。でももう少し高次?複雑な感情はかなり外側にありそう。人との交流を遮断したら感情は〜とかの話にもなってくるのかな。
次の章では西洋と東洋を対比しながら、感情のありかを「心」と捉えるか「からだ」と捉えるかという話が書かれている。英語の慣用句では“black-hearted”だけど日本だと「腹黒い」みたいな違いが面白い。
全体が3部構成になっていて、その第1部「感情はどこから来るのか?」を読み終わる。安田登、平野啓一郎、宮本常一、柳田國男をふんだんに引用している。
前半は一般的な感情の捉え方に異議を唱えるパート(平野さんが出てくるのは「分人」を援用するため)、後半では民俗学における感情の扱われ方をざっと見た感じか。
1/29
10時半に起きて朝食を食べ、3時間ぼーっとしてからお昼を食べる。
休日に本が読めないのはやはり通勤時間がないからではないか、ということで、本を読むためだけに電車に乗る。鈍行で30分ぐらい『感情の民俗学』を読む。駅で降りて、5分ぐらい駅前をぶらぶらした。恐ろしく何もない駅前。特にやることもないので、反対方向の急行に乗る。急行だとあっという間だった。
すぐに折り返してきたのは映画を観るため。先日の読書会でも盛り上がっていた「機動戦士ガンダムGQuuuuuuX」を観る。水曜日は700円安いというのをもっと活用していくべきだったのだ。
ガンダムは以前友人に勧められて「逆シャア」だけ観たことがあるがほぼ初見。世界線が色々あってややこしいということだけしか知らない。それでも分かる!とのことだったので安心して観た。
物語は宇宙世紀79年、地球連邦軍とジオン軍が戦争しているという場面から始まる……あれ、思ってたよりめっちゃガンダムだ。「赤い彗星」と呼ばれるシャア少佐が連邦軍の基地を急襲しガンダムを奪取して、連邦軍のソロモン落としを阻止せんとしてなんだかんだあって〜〜。アムロはどうなったの??
冒頭3〜40分ぐらいがそんな感じなので、もうこのまま行くのかな、と思いかけたあたりで舞台はサイド6に。急に現代日本みたいな電車とか改札とかが出てきて、音楽もキラキラ透明ドラムンビートになって、キャラデザもガラッと現代風に。何が起こった???
そこからの展開がもう速い速い。違法データをインストールして武器が使えるようになったモビルスーツに乗ってクランバトルに出ることになって主人公マチュのニュータイプ能力が覚醒してなんだかんだ。お、おう……。
え、そこで終わるの…?という感じだったのだが、どうやら劇場版はアニメのお膳立て的な作品らしい。マチュたちの冒険はこれからだ!(どう足掻いても戦争に巻き込まれていくんだろうな)
確かにガンダムを知らなくても楽しめる作品だったけれど、知ってたらもっと楽しめるだろうなあと思った(特に前半)。
現代日本サイバーパンク的アクション+ガールミーツガール&ボーイの怒涛の詰め込みは令和アニメだなぁって感じがしました。
1/30
頭がじんじんする朝だった。起きたら喉もからっからになってるし、口呼吸してるかもしれない。
閉店する古本屋の廃棄本写真に対して「貴重な本があるかも」「譲ってくれませんか?」というリプがついているのを見てモヤモヤする。本業の方々がそんな貴重な本を見落としてるわきゃねーでしょうが。そしてなにより閉店前に行ってあげてよ!おそいよ!!
『感情の民俗学』、行きと帰りで読み終えたものの、なんかいまいち理解できた気がしない。
感情とは〇〇である、というような明確な答えが記されているわけではなく、たくさんの事例を引用・要約して取り上げていた。その要約の部分がすんなり納得できなかったのかもしれない。
昔はそんな感情もあったんだ!という楽しみ方をすればよかったのかな…。
尾鷲の「鼻かけ恵比寿初笑い神事」など身近な話が出てきたのは面白かった。「ぴえん超えてぱおん」、そんなんあったな〜〜という感じ。
1/31
アビーロードB面を聴きながら通勤。You Never Give Your Moneyの“One sweet dream,”ってあたりのグルーヴが最高。
She Came In Through Bathroom Windowのリンゴのドラム。流れるような16部からのヘビーなオカズで詰まったり走ったりしたない安定感がすごい。
『文學界1月号』から吉本ばなな「ヨシモトオノ」を読む。常世と別の世が時々交わる遠野物語的な世界観をベースに、現代の人々を描く連作。今までに読んだ文學界でいちばんほっこりする巻頭作品だった。
続いて市川沙央『女の子の背骨』。最近市川さんめっちゃ読む気がする。よく見たら右上に小さく“Tied to the 90s”とある。シリーズものだろうか。90年代に縛られている。
帰りの電車で座った瞬間、「あ、もう自分はあまり生きていないかもな」という感じを覚えた。
生きるために必要なエネルギーをほとんど燃やし尽くしてしまって、今はかろうじてその残滓で生存しているのではないか。あるいは「私」という運動(私という物体を構成しようとするなんらかの働き?)はほぼ終わりかけていて、慣性でまだ少し動いている、という感じか。そこまでいうとちょっと中二病っぽいか?
自分から死ににいくということはそれはそれでものすごくエネルギーがいる。そのエネルギーでさえもう捻り出せない。よほどショックでもない限り。
ただ、もし目の前にきっかけが転がってきたら、拾ってしまいそうではある。「逃げないと死ぬ」みたいな状況とかね。「いいや」ってなる、たぶん。
2/1
たぶんほぼ寝てない。
いろいろな後悔とか、寝つけないだるさとか、来るべきいろいろなことについて考えていた。
電車に乗ったらスーツケースがいっぱいあって、受験生かな〜と思った。泊まりがけで試験を受けにいくって、大変すぎるな。でもちょっと楽しかったりもするのかな。友達とかと一緒に。
『女の子の背骨』読了。主人公は側弯症を患っている女子小学生…というとハンチバックとの共通点に著者の姿がよぎるが、今作では主人公の姉が重度の障害をもち入院している。
そんな姉を日本に置いたまま、主人公と両親、叔父叔母の家族はグアムのコンドミニアムに滞在している。つまり姉自身は回想や話題の上にしか出てこない人物で、「距離を置いている」と読むこともできるかもしれない。
物語の中心にあるのは主人公と家族との関係性で、早熟でやや捻くれた見方をしがちな主人公と、怒りっぽいが富裕層的なのんびりした感性も持っている大人たちのズレみたいな部分が浮かび上がってくる感じだった。
市川さんの作品に対して甘い読みの感想をああこう言うのは結構勇気がいるので雑なことは書けないが、今作も「簡単に分かってくれるな」という空気をひしひし感じた。
主人公の名前が日本人らしくない「ガゼル」だったり、フジの番組「おもいっきり探偵団 覇悪怒組」に登場する怪人・摩天郞の姿がところどころに出てきたり、土産に買うのがインディアンの羽飾りだったり、そのひとつ一つがめちゃくちゃ暗喩なのだろうなと思う。
全然分からないけど……。
混乱したままの頭でページを捲ると、「追悼 谷川俊太郎」として俵万智・最果タヒ・久谷雉・高橋睦郎の四名が追悼文を寄せている。ここは非常に読みやすい。
最果さんの「詩人として存在すること」。世界が(映像としての)「谷川俊太郎が読む姿」を求めているのは不思議だとしつつ、
詩が言葉でしようとしていること、それはあきらめないこと、言葉の強すぎる力に
心や世界や宇宙に静かにある「弱すぎる力」が拾いきれないことを「しょうがない」と思わないこと。そのくりかえしだから、人は詩を求め、読まなくても、詩がこの世界にあること、そうして詩人がこの世界にいることを確かめたがり、安心をするのだろう
(『文學界2025年1月号』P61)
あまりに名文だ。二十億光年の孤独を踏まえてるところも粋だし、谷川俊太郎という詩人のあり方——詩を、言葉を疑うこと——がそのようであったからこそ、世界が谷川俊太郎を求めたのだ、と。
「なぜか分からないけど詩っていいんだよね」という気持ちになる理由がここに全て書かれている。気がする。
久谷さんの『「詩人のふり」をした者について』にはちょっと気になる話が。とある雑誌の谷川俊太郎特集に寄稿した際、寄稿者たちがみんな「素直」に書いている、と編集者から聞いたそう。絶対ユリイカやん。「谷川俊太郎はすごい、なぜならば〜」みたいな評論が多かったもんなぁ。
続いてお待ちかね、國分功一郎×若林正恭の対談「やっとみんな疲れてきた」。文芸誌を一年間読んでみるチャレンジは昨年12月号で終わっていたのだが、正直このために買った!
文チャレ期間中にどこかで読めると思ってたんだもん。なのに昨年はなかった…。それが年始に来るとは。買わせ続けるための陰謀かー!?
絶賛子育て中の若林さんと、子育て経験者の國分先生。いきなり絵本の話で盛り上がっていてほっこりする。
子どもは目的なく遊んでいる、という話の流れで國分先生「僕が目的・手段に対立させているのは、楽しむことです」(P72)ここは暇倫から一貫されている立場。
そこから依存症と金融資本主義の共通点という話が出てきて、若林さんがタイトル回収。
最近、勝とうとするような自己啓発本が売れなくなってきたと感じていて、やっとみんな疲れてきたのかなとも思ってるんです
(P74)
あー、それは、確かに、そんな気が、する?
最近は自己啓発的なものを見るとそれこそ合目的みたいな価値観に「う゛っ」となってしまうのでほぼスルーしている。だから今のブームとか全然分からないんだけど、バチバチに勝とうとするみたいのは確かに減ってるかも?
逆に多いのはなんだろ。休む系とか、「教養としての」系? 一見優しそうに見えるんだけど、「休め、学べ、そしてもっと働け!!」なので油断ならない。
『みんなで「疲れた、疲れた」って言い続けたらいい。「あー、疲れた」って』(P75)と國分先生。それな! みんなもっと疲れた言ってこ〜。
柴崎さんの『あらゆることは今起こる』の話も出てくる。こういうタイムリーさが雑誌とかを読む楽しさだなぁ。
國分先生の庭いじりの話から、“なんかやってる”という状態についての議論が広がりそうで広がってなかった。ここはもう少し読みたかったな。
「今は身近な人間数名で集まって、わいわいがやがやすることがなさ過ぎなんじゃないか」(P82)と國分先生。文チャレがまさにそんな感じだった! あの時間はやっばり必要だったのだ!(牽強付会ぎみに)
続いて村田沙耶香×チェ・ウニョン『小説家は物語を「作ら」ない』。最初にお二人の作品の海外での受け取られ方みたいな話をされてるが、代表作を未読でごめんなさいという気持ち…。
村田さんが小学生時代から書いていたという小説の話、あまりにも変わらなさすぎて面白い。小学生からその路線!? その後に出てくる小説を書く際の「実験室」のイメージも、あまりに村田さんすぎる。
一方のウニョンさんは登場人物と対話しながら物語を紡いでいくらしい。創作時の感覚というのは本人にしかなかなか分からないと思うのだけれど、色々な人の感覚を知るのは面白い。
委員長(VTuberのほう)の「カチカチ山」検証動画を見ていたら太宰版の話も出てきていて、そういえば読んだことないなと思って積読にあった森見編のアンソロジーを開く。太宰、やっぱ文章がうめぇ。
こういうパロディって下手にやるとただただ寒いので、読ませるためにはこのレベルの筆力が必要なんだな〜。
2/2
寝れば少しは回復するかと思って12時前まで寝たけれど、身体はしんどくなった。心はどうだろう。
ご飯を食べてからもずーっと動く気力が起きてこず、ベッドに横になっていた。かろうじて起き出したのは午後の予定があったからで、やや遅れながらも家を出た。もともと午前中にするはずだった買い物は夜に回すことにした。
『文學界』のつづきを読む。対談コーナーの最後は上田岳弘×安野貴博の「未来の政治と文学を捉えるために」。たかひろ対談だ。
上田さんはコンサルもやってて、安野さんは小説を書いてるというのを初めて知った。
寝る前に『PERFECT DAYS』を見る。田中泯と石川さゆりの使い所が豪華すぎるやろ。
淡々としつつも豊かな日常に満足をしながら、その一方でちょっと複雑な気持ちも持っているというところがリアル。「なんにも変わらないなんて……そんな馬鹿な話、ないですよ」という一言にすごく重いものが乗っている。
2/3
昨日で疲れが取れたかというとそういうこともなく、薄ぼんやりとしたものはずっと続いている気がする。最近は天候にも左右されがち。朝に太陽が出ていないと、心も体も落ち着かないような気がする。
『文學界』は最高に読みやすい「特集 文學界書店2025」へ。シリーズものらしく2025ってついてるけど、去年無かったよね?? 文チャレ期間中にあってほしかったよ…。
ジャンル色々な作家たちが3冊の本をオススメするというのが基本形。三省堂の飯間さんとか、パフェ評論家の斧屋さんとか、あまり文芸誌で見かけない方々が中心になっているので面白いラインナップだ。
しかしバラエティ豊かゆえに未邦訳の本とかマニアックなものも所々に入っており、朝比奈秋さんが紹介している『消化器内視鏡32巻10号』なんて業界誌はどこで読めんねんである。
今週末に観る予定の舞台『ドードーが落下する』の予習? いや復習? のために白水社から出ている脚本を読む。「微妙な空気」を演出するのがめちゃくちゃうまい。徹夜カラオケの午前3時ごろのダルい会話とか、バイト初日の自己紹介ですべって舐められまくる感じとか、会話で構成される戯曲だからこそ浮かび上がるこの感覚。笑いが全部「はは」と書かれているのも、この作品の乾いた感じを表しているな〜と思う。
ただでさえ飛べない鳥、ドードーが落下する。そんなタイトルの意味に色々と考えさせられるところがある。
なお今度の上演はかなりリニューアルされたバージョンらしく、そこがどう変化しているのかも見どころらしい。だからこそ予習しとけばより楽しめるってわけよ。
たぶん江南スタイルあたりは変わってくるんじゃないかな〜。APT.とかになってたり。ないか。

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