たいして本は読めないけれど、読んでいないとすぐ鬱で底に落ちてしまう
そんなどうしようもない人間が日々をやり過ごすための読書の日記、19回目です。

2/4
謎の渋滞で遅刻しそうになった。勘弁してほしい。裏道を通りまくって間に合わせた。
『文學界1月号』から横尾忠則「Y字路の発見」を読む。「芸術は発見の産物である」(P157)。つまりその人自身の身体性を通して発見されたものこそが芸術である、という話。みんながやってるからとか流行ってるからでやるのは説得力がない、と厳しめのことが書かれていた。ぐう。
しかしやはりこの世代の芸術家の言葉というのには計り知れない説得力があるなぁ。
2/5
午前中はなんかダメだったけど、午後は映画館へ『どうすればよかったか?』を観に行けた。この感じだと年間10本も達成できるのではないか(平均1.5本)。
ドキュメンタリー自体スクリーンで見るの初めてだったかもしれない。BGMが無い作品なので、今まで見た中で一番静かだった。
平日日中なのに意外と人がいて、30席ぐらいは埋まっていた。注目度が高いのか、公開後初めてのサンクスデーだからか。
統合失調症の姉を軟禁した家族を30年にわたって撮り続けた執念の作品。というかモノローグで語られるところによると、家族にカメラを向け始めた当初はホームビデオや練習のつもりだったのかもしれない。昔の映像からは家族の団らん的な雰囲気も感じられる。
両親に対する糾弾が強くなってきたのは、撮影開始からたぶん4、5年後だった。姉に対しての態度を変えようとせず、玄関に厳重な鍵を設置したのを見たあたりから、監督自身と両親との対話のシーンが増え始める。その頃からドキュメントとしてまとめようとされていたのかなと思う。
この作品がものすごく重みを帯びているのは、治療が開始されなかった二十数年の間も姉は生きていたという事実だったり、投薬が開始されてから亡くなられるまでの時間がほんとうに僅かだったこと、そして本心を確認できないままに亡くなってしまった母親など、監督自身の「どうすればよかったか?」が詰まっているからだ。
映画が公開された今、全てが終わってしまった後だということもあり、簡単に「あれはおかしい」とか「こうすればよかったのに」なんて言えない気持ちになる。だからもうタイトルに全てが集約されているのだ。
ずっと片隅に残る作品だろうなと思う。
夜は知人と一対一で戯曲を読む。舞台経験者の彼とやると自分の大根ぶりが浮き上がって聞くに耐えないので、逆に一対一で良かったか……。なんだろうなー、根本的に感情を表現できないんだろうかなー。
2/6
今朝は珍しく眠気が弱めだったんだけど、あまりに寒いのでなかなか布団から出られず。一応ファンヒーターをタイマーしているのだが、タイマーで付けるとなんか防止のためか割とすぐ消えちゃうんだよな。だから起きる頃にはまた寒くなっててダメ。
電車で『文學界』。そういえば連載してたなあという筒井康隆「自伝」を読む。ようやく作家デビューのあたりの話になってきて興味深い。兄弟で作った同人誌「NULL」が好評で江戸川乱歩と会ったとか……乱歩! 星新一・小松左京・眉村卓などなど知ってる名前が色々出てくるけれど、これがもう60年も前のことという事実が恐ろしい。
というか筒井さんになんとなく親近感があるのは間違いなく「時かけ」や「パプリカ」の映画を見ているからで、実際のところ筒井作品の代表作的なものはもう40年近く前に出揃っているのだ。
後悔しないよう、早いうちに読まなきゃな。(せめて「残像」と「ラゴス」だけでも……)
モンゴメリ生誕150年ということで、『赤毛のアン』全訳を出された松本侑子さんによるモンゴメリ論が載っている。児童文学じゃないんだ、というか全8巻もあるんだ。
書かれている主な内容は、モンゴメリにみるキリスト教とケルトの融合について。世界史を全然知らないので、ゲルマン民族に追いやられたケルト人がスコットランド→アイルランド→ブルターニュと移動していう歴史にほえ〜と思った。ケルト十字(十字架と輪っかが合体したやつ)の輪っかは、太陽信仰と循環する魂の象徴なんだって。そういう世界観なんだ、ケルト。音楽だけ好きで文化のこと全然知らないの、ダメだなやっぱ。
とある賞作品で中1の書いたという小説を読んで、青春に灼かれそうになった。てか普通に上手すぎる。
『現代民俗学入門』をパラパラ読んでたら、生まれた子どもを道に一度捨てて即別の人に拾ってもらう風習のことが載ってて、最近なんかXで見たなと思った。
2/7
指先がめちゃくちゃ冷える。特に本を開いて持つ左手の、表紙に軽く触れる薬指から小指。丸めて温めようにも本を開いていると無理だから、冷気にあたってキンキンになる。
『文學界』のつづきは小川公代「“生”を祝福する——シルヴィア・プラス論」。やっぱなんか一月号、ヘヴィだな。エッセイとかも含めて割と専門的だ。
ウルフも読まなきゃなぁ。
帰り道、原付に乗ってたら雪降ってきてすごい寒かった。
2/8
年に一度あるかないかの積雪の日。なんとか駅まで出て、三分遅れてきた電車に乗った。
窓側の席に座って景色を見ていると、北へ行くほど白さが増していって大変ダァと思った。ある地点を過ぎたあたりから急に寒くなって、雪も深まっていった。
職場付近は5センチ以上は積もっていて、数年ぶりにあの雪を踏み締める感覚を味わえた。ざくざく。ところどろこ踏み固められた場所が凍ってツルンツルン。危ない。
ちょっと早めに着いたのでちょっとお散歩。深いところは10センチ近く積もっていた。雪に囲まれているとめっちゃ寒いんだけど、その代わり静かになるので良い。
この静けさは、自分の内面と向き合うのにちょうど良い静けさだと思う。
しばらく歩いていると雪まみれになってしまった。
帰りの電車で『文學界』の続きを読む。星野智幸「書き手の存在理由」は、「LGBTQ+差別に反対する小説家の声明」について書かれた文章。
最近、特に件の大統領が再選してからSNSではトランス差別が加速している気がする。当事者間をさらに分断させるような言葉が溢れていて、怖い。印象だけであらゆることが断定されそうな感じ。星野さんが書かれているように、まさに言葉は毒にも薬にもなるんだなと思う。
全ての人がよりよくいられる世界ならいいのにね。
リレーエッセイ「身体を記す」は尾崎世界観「だから絶えず見られ続けるこの身体だ」。アーティストとして表現することは世間に晒され続けるということで、そこに合わせて自分を変化させなければならない違和感、みたいなところが書かれていた。尾崎作品のテーマとも関わってくるところかなあと思った。
藤野可織「でももうあたしはいかなくちゃ」、今回は映画や展示ではなく、過去の思い出について。自分も体育や部活で走るのマジで嫌いだったから共感する。
渡辺祐真「世界文学の大冒険」はついに具体的な作品の話に入り始めるパート。まずは人類最古の物語ということで、メソポタミアのギルガメッシュやイナンナ、古代エジプトの「シヌへの物語」、古代インド文学の「ヴェーダ」、中国殷・周王朝期の甲骨文から「詩経」、古代ギリシャのホメロス、メソアメリカ文明の神話「ポポル・ヴフ」などなど。
この辺の世界史を全然知らないから、情報的な部分は頭の中を文字が素通りしていってしまうんだけれど、次回からは各作品の内容詳細といことで楽しみ。
2/9
朝から喉がイガイガ。体調悪くなる前夜的なコンディションだった。
少しだけ掃除をして、『文學界』のつづき。頭木弘樹「痛いところから見えるもの」はようやく具体的な痛みの表現の話が始まる。
痛みの言語化は無理という前提を踏まえて、それでもなんとか言語化するにはどうすれば良いのか。そのためには「ありきたりな言葉をありきたりでなく組み合わせる」必要がある。例えば独自の比喩やオノマトペを使うこと。ここで様々な作家が用いた比喩が紹介されていて面白い。「釘がつまっているように」(石坂洋次郎)とか「すりばちで豆をこすりあげてるような」(林芙美子)とか。豆をこすりあげるはちょっと一瞬分からないけど、執拗な感じはする。
また、痛みの表現のカテゴリーという話が出てきて、例えば医師に症状を訴えるときは具体的な痛みを語るけれど、見舞いに来た人には「とてもつらいの」とか「涙が出てくる」というような表現をしがちという。すると心の苦しさは誰しも感じているから、「みんな大変」なんて返されがち。だから、痛みについて語るときは「身体で語る」ということを意識したほうがいい、と。なるほどなー。
午後は舞台『ドードーが落下する』を観劇。開演時間ごろに着くつもりで行ったら、近隣でやっていた展示に人が殺到しており駐車場がどこも満車状態に。離れたところに停めて歩いたら、着く頃にはもうホールの座席がほぼ埋まっていた。
観劇の感想は別に書いたので省略。
その足で知人開催のイベント「レトルトカレー選手権」へ向かう。16個ものレトルトカレーを食べ比べるという濃いイベントだったが、体調がよろしくなかったので中座して帰る。
夕食もカレーだった。もう当分いいかな……。
観劇の感想
himasogai.hateblo.jp
2/10
喉の痛みは少しやわらいだ気がするけれど、まだジャリっとした感じがする(オノマトペ)。しかし鼻水がひどい。今日はティッシュが離せなさそうだ。
自分の鼻炎はおそらく自律神経系の問題だと踏んでいて、午前中が重い。身体がちゃんと覚醒してくると治ってる感じがする。
『文學界』より江南亜美子『「わたし」はひとつのポータル』を読む。今回は井戸川射子論。
「しかし「物語」らしいものは一向に立ち上がらず、無数の細部と人の都度都度の認識のプロセスが、奇妙な句読点の運用によって引っ掛かりつながりながら書き連ねられていく」(P240) 井戸川作品の特徴がここまで端的に表せるとは!
面白いのは、井戸川作品の立ち位置を解説するのにキュビズムを持ってきているところ。伝統的な西欧絵画が「特権的なひとりの鑑賞者」(=ひとつの見方)に合わせて描かれるのに対し、キュビズムは見かけの再現から離れ、ものごとをより多元的に捉えようとする。井戸川さんが文章でやろうとしているのはまさにここで、「ひとつの決定的で統合的な像を読者に結ばせないため」の文体なのではないか、と読み解かれている。
確かに、井戸川作品の中ではあらゆる物事が等価というか、どれか一つの事実を描写しているという感じが薄い。
ただ、その文体に付いていくには集中力を結構要求される。ぼんやり読んでるとすぐに置いて行かれてしまう。一長一短ではありそう。
津野青嵐『「ファット」な身体』は再び祖母と作品作りのお話。映像作品にすることで完成の一瞬ではなくプロセスも楽しめたというのがいい話だなあと思った。そしてタテ広告に文藝春秋の『私の身体を生きる』が載ってるのはぜったい狙ってるでしょうこれは。
なんか今号は自社広告が多め。次には『K+ICO』の1P広告も載っている。コピーの「読み巧者が絶賛!」読み巧者て。初めて聞いたわ。
いつもならこの辺で終わりが見えてくるのだが、1月号は増量してるのでまだ1/3 残っている……やっぱ全読みは大変すぎるな、やめようかな。
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