とある戯曲を書き写したためにその文体がまだちょっと抜けないでいる冬の終わり。
22回目の日記更新となりました。

2/25
連休1日目。休みたいので10時まで寝たら逆に疲れた。ちょうどいいところで起きられるようになりたい。とりあえず二週間ぶりぐらいのラジオ体操第一だけして、自律神経を整えんと試みる。
髪が乾きにくくなってきたので、散髪へ行く。もともと通っていたイオンの千円カットが閉まってしまったので、ここ3回ぐらいは別の千円カットへ通っている。陰キャ(って言い方はあんまり好きではないが)の例に漏れず身だしなみに全くコストをかけないので、髪も整えないし眉も放置している。だから理髪のタイミングだけが最低限の身だしなみを獲得できる機会である。ちなみに普通の人が衣服や美容にかけるコストは本に全振りされている。非正規パート薄給なので当然そうなる。
この千円カット、平日は大体店長とおばちゃん2人で回している感じなのだが、国道沿いで割と客が来る。初めて行った時はだいぶ暇してしまったので、今は必ず本を持っていっている。
ということで文學界の続きをここで読む。町屋良平さんによる批評。なかなか遅々としてページを捲る手が進まない……。鹿島田真希のBL寄りの作品『ピカルディーの三度』におけるマジトーンの下ネタについて。うーん、つまり恋愛が文体にどう影響するか、的な話? だろうか。ここもいまいち掴めた気がしない。
帰りに一週間ぶりのBOOK OFFへ寄ったら『TIMELESS』『鳥肌が』『第七官界彷徨』などが均一コーナーにあって買ってしまう。今机の上にある今月買った本を数えたら34冊ぐらいあって、多分これ以外にも5冊ぐらい買ってる気がするので40行ってる可能性があるんだけど、自分の読書ペースだとこれ読んだとして8ヶ月はかかるよね。今月は色々な寂しさとか悩みとかが重なっちゃって、それを本を集めることにぶつけてしまっている。
ただ「本をお得に買う」ことにかけては割と得意だと思っているので、出費に対する内容の充実度は高めだと思う。でも積んでたら意味ないんだけどね。
3時に遅めのお昼を食べ、シーツを洗い、部屋を片付ける。来月どうせまた古本市に行っちゃって本が増える気がするので、置き場所をなんとかしておく。たぶん本を買うことで安心を得ようとしてるんだろうなぁ。
洗濯の待ち時間の間に20分ほど散歩。これもすごい久しぶりだった。田んぼの枯れ草の上にめっちゃスズメがいて、なんか生えてきたみたいだった。今日から急に暖かくなったのでつくしでも芽生えてこないかなと思ったけど、流石にまだなんの気配もなかった。
連休なので調子に乗って9%のチューハイを飲む。酔うとためらいが減る代わりに実行力が上がって、片付けなどがホイホイ進む。酔ってない時にもこれぐらいすぐ動けたらいいのに……。
2/26
起きる、体操、散歩。一年前まではやれていたルーチンをようやく1セットできた朝。
午前中はAさんの「対談」へ行く。イベントのこととか仕事のこととか色々話すのだけれど、結局毎回わたしの自己否定の話になっていく。
「周りの人がどこまでもすごく見えてしまって、自分の価値のなさが辛い」と話すと「褒められてると思うけど、気付いていない?」と、Aさん。気付いてない、というかちゃんと受け止められてないのだろうな〜。自分なぞを本気で認めてくれる人がいるはずないみたいな先入観で、逆に相手のことをちゃんと見れていないことが多い。
その根元にあるであろう不安をどうしていけば良いだろう、とわたし。「心の底に“怖さ”を抱えていると、誰かの言動を否定的な意味に捉えてしまうよね」というようなことをAさんは言ってくれて、たぶん同じようなことは何度も言ってくれているはずなのに、今の自分にはすごく刺さった。ちょっと泣きそうだった。
午後は“部室”へ行って作業。数年分溜まっていた展示フライヤーなどを整理してファイリングする。デザインの参考的な意味合いで貯めているものなので、どのチラシとどのチラシを一緒の面に入れるかとか、ここは日本画ゾーンでここは写真展ゾーン、などこだわりながら入れていく。慣れてくると直感的に選んでいくことができて楽しい。
2時間ぐらいかけて終わったので、文學界の続きを読む。
「上手さ」を知るために読むのではなく、作家それぞれがどのようにそこに居るかということの、あまりにも多様なありかたを知ってひるがえり自分の可能性を閉じ込めず、事後的に自分を肯定することができ世界を肯定するということであり、ありのままを肯定するということとはまったく異なる肯定ができるようになる。
(『文學界 2025年2月号』P172)
町屋さんが理想とする文学は「その人が書けるものをその人が書」いたものであり、そのためには他の人がどのようにその人自身の作品を書いているかを知る必要がある、という話。自分は他人の文章を見て憧れたりして、でもこんな感じで書けないわ……と落ち込むことも多いのだけれど、それはそもそも(文学としては)間違っているということになるんだな、と思った。
2/27
めちゃくちゃに眠い。体操だけする。少し覚める。
連休明けって仕事行きたくないよな〜と思いながら電車に乗る。寒さが和らいだだけ少しはマシか。
文學界の続きは「リレーエッセイ 身体を記す」。このシリーズも12回目で一年間読み続けていることになる。今回は砂川文次「じ論」ということで、痔の話。
砂川さんは元自衛官なので過酷な訓練や演習をしていたわけだが、痔を抱えながら野を駆け巡る苦労はいかばかりか。読む分には面白いけど…。
しかし、ただのおもろい体験話で終わらず最終的に、国家や軍隊の喧伝する理想の男らしさ的な「ナラティヴ」に対抗できるのは「おしり」や「うんち」といったおもしろくて柔らかい何かだ、と結んでいくのはさすが。
渡辺祐真「世界文学の大冒険」はようやく本編に入ったからか気持ちテンション高め。
文字の誕生によって「時間」を意識することが可能になり、それに付随して「心」が生まれたという話が紹介され、
時間や心が生まれようとしてきる時代の文学なんて、最高にワクワクしないだろうか⁈ さあ、一緒に文学の大冒険に出かけよう
(P195)
そんなノリだったっけ?
今回は「イナンナの冥界下り」「洪水伝説」「ギルガメッシュとアッガ」の3つを中心に取り上げている。シュメールと古代メソポタミアの物語である。
冥界下りというとイザナギが黄泉の国へ降る神話が思い浮かぶが、どこの世界にも「神が死の世界へ行く」物語っていうのはあるものなのだろうか。どういう発想でこういう類型が生まれるのだろうなあ。気になる。
「洪水伝説」は書かれているとおりノアの方舟っぽいけれど、時代的にはシュメールの方が先か。洪水は前時代の歴史を一度否定するために用いられたのではないかという考察が興味深い。めちゃくちゃ選民だもんな。
「ギルガメッシュ」は名前だけなんとなく聞いたことがある程度。「ギルガメッシュ叙事詩」として現在にも伝わるのはアッカド期にまとめられたもので、シュメールの時代に生まれていたが収録されなかったものもあるのだどか。具体的にいうと省かれたのは「ギルガメッシュの死」と「ギルガメッシュとアッガ」で、どちらも英雄譚的なものからは少しズレているから省かれなのではないかと。でも現代からすれば、人間らしさみたいなのが垣間見える物語の方が面白かったりするんじゃないだろうか。
2/28
めちゃくちゃ眠くて体操もできず。ダメだこりゃ。
藤野可織「でももうあたしはいかなくちゃ」from文學界を読む。雨夜のバスの話と、鳥の剥製の帽子の話と、美術作家の谷沢紗和子さんとのユニット「青木きらら」の展示についての話。毎回なんとも言えない余韻が残るエッセイで好き。
頭木弘樹「痛いところから見えるもの」は痛みを伝えることの難しさについての続き。今回は「痛みを伝える余裕がない」「痛みを思い出せない」という要因が挙げられている。後者は心の痛み的なものにも共通するところが大きいのですごいわかる。喉元過ぎればってやつで、後から思い出そうとしてもうまく表現できないのが本当に困る。
夜はニネンノハコで久々に会う人と会い、お菓子を食べながら少しお話しした。図書館の予約本を2冊借り、現在5冊詰んでる。やばいやばい、また未読返却しそう。
明らかに今週は「読めない波」が来ている気がする。
3/1
ついに3月に入ってしまった。この日記も5ヶ月目である。よく続いてるなぁ。数日読めてない日もあったけれど。
今日も今日とて眠いので、行きの電車では読まず、Frost*のMilliontownを聴いていた。一曲で通勤がほぼ終わってしまう曲だが、全ての要素が気持ち良すぎて全然長さを感じない。
music.apple.com仕事の合間に牟田都子『校正・校閲11の現場』を読む。文學界は全然進まなくなってしまったので少しお休み。
牟田さんが『文にあたる』を出されたあたりから校正が急速に注目されてきている感じがある。もちろんそれ以前も校正系エッセイなんかはあったと思うんだけど、牟田さんの功績はかなり大きいのではないか。そんな活動的な牟田さんが、一般文芸以外のジャンルの校正者にインタビューしたのがこの本。レシピや辞書からテレビのテロップや商品カタログなど、校正が入っていることをほとんど意識してなかった世界の話が見られて面白い。
ところで、講談社校閲部の取材写真に写っている原稿ってこれ、先日Xでプチバズってた「校閲ドリル」だよね? これはほんと一般発売して欲しい。写真には「問題78 お仕事もの」のページが写っていて、おそらく問題用に書き下ろされたマンガと思われるものまで載っている。作り込みがガチじゃん。
3/2
仕事の日には起きられないのに、出かける日には起きられるやつ。眠いけど。
朝の健康番組で「寝る時は左下の方が胃に優しい」というのをやっていて、いつもどっちか分からなくなるので助かる。最近はあまり食べてすぐ寝ることもないけど、しんどい時はやっちゃうからなぁ。
いつもの一本早い電車に乗って終電まで行き、JR新快速に乗り換えて隣の隣の県へ。駅ナカの古本市+ZINEのフリマにやってきた。昨年の第一回にはフリマに出てたけど、今年は気付いたら募集終わってた。夏に向けて「文チャレ」をまとめて一箱古本市や大阪文フリで出す予定なので、来年はまた参加するかもしれない。(最近作るモチベーションが行方不明気味だけど…)
今日が二日目ということで、なんとしても欲しい的な本はあまりなかったけれど、安ければ買おうと思っていたものがいくつかあり、七冊買う。確かに古本との出会いは一期一会だが、同時に古本は回り続けるものなので、自分が欲しいような部数が刷られたものだったらまたいつか出会える気もする。(だから無理して買わないというのも大事ではある)
電車に乗って隣県に戻り、一年ぶりの古本屋を訪ねる。前に来たときめっちゃ良い品揃えだったのでまた来たいと思っていたが、火水休みなのでなかなか来られなかった。ここでは文庫本を三冊買う。
バス停まで歩いたら目の前でバスが行ってしまったので、20分ぐらいZINEを読む。
バスと徒歩で30分ぐらいかけてこれまた久しぶりのブックオフへ来た。高架下にあるので電車の音がこわんごわん聞こえてくる。
街中なのでビジネスや実用書が多めなのだが、文庫もそれはそれでしっかりとある店舗だった。地元ではなぜかあまり売ってない池澤夏樹とか金原ひとみとかがあってついつい八冊ほど買ってしまう。さすがにこれ以上単行本は持てないし…。
ずっしりになったリュックとトートを抱えて駅まで戻り、いざ電車に乗ろうとすると結構並んでいて座れなさそうだったので一本見送る。まさかこの判断が裏目に出るとは思ってもいなかったが、次発に乗ったら三駅ぐらい進んだあたりで、事故の影響で止まってしまった。やることもないが本だけはたくさんあるので、読んでいく。
ZINE「今夜はここで栞を2」は2年前の大阪文フリで一巻目を買っていたので続けて購入した一冊。いろんな人がテーマに合う本を紹介する書評エッセイ系アンソロジーだ。今回は「ほろ苦い思い出の一冊」というテーマで、何故か京極夏彦にほろ苦さを持つ人が多かった。(見栄張って分厚い本を読んで…みたいな)
続けて、隙間で読み進めていた村田沙耶香『コンビニ人間』を最後まで読む。話題作らしいとは知っていたが、読もうと思ったのはとある古本屋店主が絶賛していたから。その後文芸誌で村田さんの作風がなんとなく分かった上でようやく手に取ったのが今だった。今の村田さんの作品を読んでると、設定や舞台はだいぶん普通に感じられる。でもそういう普遍的な舞台だからこそ際立ってくる世間の圧力みたいなもののグロテスクさが強いなぁと思った。
主人公の恵子は同じコンビニで18年間バイトしていて、現在36歳彼氏なし。その状況について周りからはめちゃくちゃ引かれたり口出しされているのだけれど、本人は共感性的なものがゼロで、周りがなぜそのように考えるのかがまったく分からないでいる(エピソードとして、死んでいる小鳥をなぜ食べてはいけないのかが分からないという場面が語られている)。
主人公がコンビニで働き続けているのは、全てがマニュアル化されているから。マニュアルに従っている限り、正常な「歯車」として世界の部品になっていることができる。
一方、中盤から登場する白羽という男性は35歳の男性。恵子のコンビニでバイトを始めるが、人を見下す態度や手抜きを繰り返し、挙句に客の女性に対するストーカー未遂で首になる。
世間から疎外される理由を理解できずとも合わせようとしている恵子。理由を分かりながら、そこから逃れようとしている白羽。対象的な二人はお互いの不都合を埋め合わせるように近づくのだが、最終的にその違いゆえに決別してしまう。
どちらの生き方が正しいとか間違っているとか言えないけれども、ただ世間はどちらに対してもとにかく厳しい。
皆、変なものには土足で踏み入って、その原因を解明する権利があると思っている。私にはそれが迷惑だったし、傲慢で鬱陶しかった
(村田沙耶香『コンビニ人間』文春文庫P61)
理解できない存在に対する恐怖こそが、彼らを理解可能な範疇に押し込もうとする強烈な圧力になっているのだ。世間、怖いな〜。
白羽の人間性は普通に無いなと思うけれど、立場的には白羽寄りな自分だと思う。共感性があるからこそ世間の価値観を内面化して、「迎合したい」と「迎合したくない」のジレンマで何もできなくなるタイプ。そりゃ隠れたくなるよね。
35歳フリーターもそう遠くない未来。ってかそこまで生きられっかな〜。
3/3
雨。寒暖差の時期は辛い。主に鼻炎が悪化する。気分も晴れない。
いい加減そろそろ読み終わりたい「文學界 2025年2月号」より、『「わたし」はひとつのポータル」を読む。井戸川射子論の続き。今回は芥川賞の『この世の喜びよ』を中心に据えて話が進んでいる。ほぼ覚えていないので、読みながらこんな話だったな〜とまさに「思い出させられる」。『この世の〜』も文体は独特だったと思うけれど、今の感じともまた違う。最近の作品はより先鋭化されてきてる気がする。
論じられているのは「主体と客体の距離」について。『この世の〜』の時点では文体というより「記憶」というテーマでその距離を描こうとしている、ということかな。
そして最後は「すばる」に掲載された「印象」という作品について。二者間の「好意」がすれ違ってゆく物語らしいが、その二者が「髪の長い方と髪の短い方」だったり「宝石拾いと真珠採り」だったり「小さな山と大きな山」だったりするのは実に井戸川さんだな〜と思った。単行本化したら読んでみたい。
金川晋吾「でもだからこそ日誌」は昨年発売の写真集『祈り/長崎』について。それまで長崎に縁のなかった金川さんは依頼で長崎を撮ることになり、「祈り」をテーマに撮影を始めたが、それは原爆を直接的に扱うことを諦めてしまったということでもある、と。
創作において何かを扱うということは、同時に何かを扱わないことでもある。特に「長崎」は必然的に原爆と切っても切り離せないので、語らないことに「罪悪感」を感じているという。
この距離感というか、本当に正解がないし難しいよなあと思う。
津野青嵐『「ファット』な身体』では精神看護の「保護膜モデル」というのが紹介されていて、なんとなく前回の東畑さんの連載とリンクしているような気がした。
津野さんは学生時代に白塗りや大きなドレスで街に繰り出されたりしていたらしいのだが、その理由について「行為の意味をはっきり言語化できていたら、そもそもやっていないだろう」(P247)と書かれている。理由がうまく言えずにやっちゃうこと、言語化できたらやらなくなるのかな?なるかもな?…と少し考えた。
遅々として進まぬ文學界は後60ページ。そろそろ読み終わらないと……困る。できれば明日中には。
最近更新の多い知人のブログを読むのが楽しい。今日は文体についての記事で、「人が読むこと前提の文章」を書いていることに疑問を持たれたという過去エピソードが書かれていた。
なんかそういうことで悩んだりしたことがあった気がするけれど(これは本当に本心なのか?みたいな、承認欲求なのではないか?みたいな)、今は逆に「公開している文章」としてこれでいいのか? と思っている。伝わりやすさとか全然考えずにほぼ思いついた順だし、読んでて面白くなるような工夫とかレトリックもない。
そういうことで悩むのは、最近あまりにも日記が「売り物」になりすぎていて、技巧や面白さに富んだものが良い、みたいな価値観に侵食されているからかもしれない。
そもそも自分は別に文筆家でも書評家でも文化人でもないのだから、別に読ませるものを書く必要がないのだけれど……。
もし自分に文体と言えるようなものがあるとしたら、不安ベースの文体、とでも言えるのかもしれない。
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