別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

読書日記一年分予定(25/52)

半年ほど続けていると、自分にとっての「読書が進むのに最適な条件」というのが朧げながら見えてくるような気がする。

  1. 孤独であること
  2. 自分の空虚さに耐え難くなっていること
  3. 人との関わりでそれらを満たすことができないでいること

なんとも虚しい条件ではあるが、事実こういう時にうまく噛み合えば、ただひたすら本を読むだけの波に乗ることができる。
そして今がちょうどそういう時期なのだろう。読書が中心にある1週間だった。


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3/18

7時間は寝たはずなので、昨日より眠気はマシになっていた。寒い朝だった。

引き続き『女のいない男たち』を読んでいく。できれば今日読了したい。
「イエスタデイ」もビートルズの曲名だが、こちらは直接的にビートルズの話題が出てくる話だ。
「僕」の回想から始まるこの物語には、イエスタデイにおかしな歌詞をつけて歌う木樽という男が登場する。生まれも育ちも東京なのに完璧な大阪弁(しかも、かなりディープな地域のしゃべり方)をマスターしている。早稲田を目指して二浪中だが勉強している気配が全くない。そんなクセの強さゆえなのか幼馴染の女性とうまく行っておらず、なぜか「僕」と彼女を付き合わせようとする。

「独立器官」は究極の恋煩いの話。渡会という美容整形医の恋とその終焉について、作家である「僕」が記したという内容。器用に複数の女性と適度な関係を持っていた渡会医師だったが、一人の女性に本気の恋をしてしまう。その恋があまりにも本気だったゆえ、最終的に彼女から裏切られたことに途方もないショックを受けて餓死してしまう……という、寓話っぽい話だった。

駅のホームへと向かう階段で、肩をめっちゃ怒らせながら降りてくる人とすれ違った。見た瞬間に「肩怒らせてんな」って出てくるレベル。あんな銭形みたいに歩く人もいるもんなんだなあ。

シェエラザード」は、今までと少し違った角度の話。なんらかの事情で「ハウス」に住まわされ、外に出られない羽鳥のもとに「世話係」として訪れている30代の主婦。彼女は毎回情事の後に話を語って聞かせるので、羽鳥は心の中で「シェエラザード」(千一夜物語の語り手)と呼んでいる。
シェエラザードは高校生の頃、片思いしていた男の子の家に数度忍び込んだことがあり、そんな話を臨場感もって羽鳥に聞かせるのである(もちろん真偽はわからないが)。どういうことなんだ……。

やつめうなぎは、とてもやつめうなぎ的なことを考えるのよ。やつめうなぎ的な主題を、やつめうなぎ的な文脈で。
村上春樹『女のいない男たち』 文春文庫, P190)

村上春樹作品に出てくる女性は大概謎が多いが、特に謎深きシェエラザードだった。


夕食中、少しだけドジャースカブス戦を見る。1対3でドジャースが勝っている。大谷は安打を一本打ったようだった。CMもあまりに大谷ばかりで、この人めちゃくちゃお肌綺麗だなと思った。


「木野」はここまで読んできた中で最も形容し難い話だった。主人公・木野は妻と職場の同僚が不倫しているのを目撃してしまい、そのまま家を出て、青山の叔母の土地を借りてバーを始める(「ドライブ・マイ・カー」に登場したあのバーである。繋がった!)。バーにはときおり神田という男が訪れ、カウンターの隅っこに縮こまって本を読んでいた。
普段は二人連れで来店していたカップルの女性と体を重ねた夜から、いつも店に入って来ていた灰色の猫の姿を見かけなくなり、代わりに今まで見かけることのなかった蛇たちが店の周囲をうろつき始める。何かしら不穏な空気を感じ始めていた木野のもとに神田がやってきて、しばらく店を閉めて遠くへ旅に出るように告げるのだった。

不倫、離婚、バー、ジャズ、猫、蛇、雨、移動……。これも色々な要素が盛り込まれている作品だ。最後の場面も隠喩に満ちている。読解力が試されている。

おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の痛みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった
(P271)

木野は妻の不倫で傷ついた自分の心に対して、しっかりと向き合っていなかった。そんな「両義的」な態度が、何かしら良くないものを呼び込んでしまった、ということなのかなと思う。

彼らはいくつもの違うやり方を持っている。求めは様々なかたちを取ることができる。暗い根は地中の至る処にその先端を伸ばすことができる。それは我慢強く時間をかけ、弱い部分を探り、堅固な岩をさえ砕くことができる
(P272)

終盤、ホテルで布団にうずくまる木野のドアを誰かがノックし続けている。それはおそらく絶望のようなものなのだろう。ノックに応えて扉を開けてしまったら。その向こうをのぞいてしまったら、おそらく心が壊れてしまう。だから、過去の記憶、人々の温もりに縋りながら、ただひたすら夜が明けるのを、雨が止むのを待ち続けるしかない。

……不倫された上にこんな辛い思いをしなきゃならない木野、大変だなあと思うけれど、でも全て本人の心の中の問題なのだから、耐えるしかないのかな。木野。


最後の表題作「女のいない男たち」は書き下ろし。「僕」のもとに深夜1時にかかってきた電話で、「元恋人の夫」から彼女が自死したと伝えられる。「僕」は失ってしまった彼女のことを思い、女のいない男たちのことを思う。
前書きにも書いてあったように、確かに筆が乗って勢いで書いてる感じはする。これでもかと並べ立てられるエレベーター・ミュージックと大仰な比喩にはニッコリしてしまう。それでも最後はしんみりと終わっていく話だった。話というか、これ自体があとがきなのかもしれないなと思う。


3/19

休日にしては早く起きられたので、『竹内浩三全集1 骨のうたう』を読む。伊勢河崎出身の詩人。映画を志して上京するが、23歳で戦死。「戦死やあはれ」と詩に書いているように、明らかに反戦の思想を持っている一方で、自分は弱いので戦場に行ったら忠義を尽くしてしまうだろう……みたいなことも書いていて、すごく正直な人物だったのだなあと思った。

冷たい小雨がぱらついているお天気の中、月一の対談会へ行く。前回話したことに対するお返事の手紙を書いてきてもらっていて、そういえばそんな話をしていたなぁ〜と思い出すのだった。
まずは最近の近況から。周りの人たちが忙しくて構ってくれないので、自分の創作意欲も落ちている。でもそうやって周りに左右されまくる創作意欲ってなんなんだ……って悶々としている、という話をした。
一方で創作欲が落ちる代わりに(やることがないので)比較的読書が捗っており、そのおかげで気分の波が穏やかになって凪いでいる、とも話す。
穏やかな日々の中にも楽しみはあって、そういうものを見つけていけるといいね、という
ような話をしていただいた。PERFECT DAYSみたいだなと思った。

午後は“部室”に籠り、溜め込んだ作業を片付けていく。まずまっさらなままだった今年の手帳に二ヶ月分の予定を書き込み、最低なダブルブッキングをやらかさないようにする。そして言い出しっぺのくせに全然手をつけていなかった文章を捻り出す作業にかかる。こういうのは考えたところでさほど良いものにならないので、もう勢いに任せて書き殴ってしまおう。


寝る前に尾崎翠第七官界彷徨』を読み始める。都で三人暮らししている兄弟と従兄弟のもとに妹が炊事係として上京してくる。長男の一郎は心理医で分裂病を専門としており、他人の行動をいちいち分裂心理で説明したがる。次男の二郎は堆肥の研究をしている学生で、自室で大根と苔にこよりを与えて培養を試みている。従兄弟の三五郎は音楽学校を浪人しており、調律の狂ったピアノで練習する。そんな自由気ままな男たちを眺めつつ、主人公の町子は「人間の第七官にひびくような詩」を書こうと意気込んでいる。

一郎と二郎のかけあいがどことなくコミカルで面白い。


3/20

春分ということで気分も一新しようと『文學界2025年3月号』を読み始める。
絲山秋子「神と古代人 ⑴チカラベの子孫」は、これ、黒蟹県シリーズだ! 単行本読んどけばよかった〜と思いつつ読む。仲間うちの忘年会に神がついて行き、参加者の兄妹から家系の話を聞く回だった。絶妙に浮いてるようで馴染んでる神だ。

古川真人「どうせ焼肉——九州男尊女卑考」はすごいタイムリーな作品だ。稔と大叔母の多津子の会話がしばらく続いた後、急に書き手が出てきてこのようなことを語り始める。コロナ禍にSNSを眺めていると、ちょくちょく九州の男尊女卑的価値観への憤りが流れてきた。九州出身者として、そのような主張に対して抱く感慨を言葉にしてみよう、と。
しばらく読んでいて思い出したのだが、これは昨年の文學界七月号に掲載されていた「風呂の順番」の登場人物たちではないか。つまりこれは「九州の男尊女卑」なるものを自作の登場人物たちで検証する壮大な実験ということなのか!?(物語の合間合間に書き手の考察が挟まれる上に、「吉川家サーガ」においては亡くなっているはずの人物も焼肉屋の場面に召喚される。まさに実験だ)


3/21

年度末だからというわけでもないかもしれないが、あちこちで車線規制があって駅まで行くのに時間を取られた。ギリギリ、ダメ絶対。
無性にアイリッシュな気分だったのでLúnasaを聴きながら電車に乗り、文學界の続きを読む。

The Minor Bee

The Minor Bee

  • ルナサ
  • ワールド
  • ¥153

古川さん後半は、なぜか九州のおじさんたちの声をホルモンが代弁し始め、一家が焼肉する描写と書き手vsホルモンのやり取りが交互に入ってきてなかなか混乱した。最後の最後で大叔母の多津子が「漢は喋りすぎないほうが良い」という見解を述べるのであったが、稔はそれを適度に受け流す。こういう形での世代交代というのがいちばん穏当でいいのだろうなぁと思う。もちろんそれが不可能すぎて大きな声を上げざるを得ない、という現状があるのだろうが。

山下澄人「まつがあらわれる気配ハない、」もまたクセの強い文体を用いた小説だ。いちおう視点人物と思われる「わたし」は50代であること以外ほぼ不明。その「わたし」が待っている「やつ」に関してはほぼ不明。謎の人物「先生」は性別も年齢も不詳(というかコロコロ変わってる?)。小屋の視点が混ざったりと移人称らしいのだがその境目も曖昧で、今これは誰の主観が書かれているのかが全然わかんない。途中謎にト書きが入って台本みたくもなる。うーん、わからん……。

芥川受賞エッセイが二篇。安堂ホセ「本と批判についての確認」は自身への批判についての考えを表明されている。批判に対して読んでから言えみたいな意見もあるけれど、必ずしもそうとは思わないという話だった。大人な対応だなぁ。

私は自分の本が、ただ本であるという理由だけで無条件に信仰されることを期待しません
(『文學界2025年3月号』 P73)

かっけーー!


3/22

黄砂か花粉かどちらもか。黄色く霞んだ田園地帯の中を行く。ヘルメットをかぶっていると目は守られるが、視覚的な「かゆさ」が鼻にきて辛い。空気がまずい。

今日も引き続き『文學界』を読む。芥川受賞エッセイ、鈴木結生「信仰と創作」。鈴木さんがゲーテにおいて裏テーマ的に描きたかったのは「普通のクリスチャン」だったという。
現代文学に登場する「信仰を持つもの」は排他的、カルト的に描かれることが多く、そこに不満を感じていたとのこと。たしかに、そういうイメージは持ちがちかもしれないと思った。
ジョン・バニヤントールキンといった作家が抱えた「信仰か創作か」という悩み(なぜなら、創作とは基本的に造物主の行為だから)についての話も興味深い。

特集は「いまを生きるための倫理」。文芸誌に載るような小説を読んでいるとずっと倫理を問われているような気もするけれど、改めてそれは何かと言われると難しそうだ。
まずは朝井リョウ×安堂ホセ「正しくない小説の居場所」から。朝井さんって勝手に純文学かと思っていたが、直木賞をとられているんだな。正直その辺の境界もよくわかんないけど……。
小説よりエッセイのほうがリアルだと思われがちだが、実は小説の方が本質的な部分はむき出しだったりする、という話になるほどなぁ〜と思った。エッセイは読者から事実と思われがちだからちょっと距離を置いてる、みたいな。書き手の目線だとそうなるんだ。


仕事の合間に竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』を読み始める。「はじめに」で書かれているのは、支援学級? に通う、発声がうまくできなかった女の子の話。演劇的な発声練習を取り入れて少しずつ改善してゆくのだけれど、そもそもなぜ声を出せないときがあるのか、というのが独自の観点から考察されている。

習慣化しているからだのこわばりを解きほぐし、からだ全体をのびのびと共鳴する一つの管楽器のようにととのえなければ充分なこえは出ません
(竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』ちくま文庫, P27)

からだが自然な状態にないと声は出ない、ということかな。野口体操の話とかも出てくるっぽいし、身体論としての「ことば」を考える本なのだろう。
自分も、初対面の人や仕事で関わる人に対して声が出しにくいということがある。それを単にコミュ障と片付けてしまうのではなく、身体感覚からアプローチしてみる、みたいな参考になれば良い。


夜、『第七官界彷徨』の続きを読む。

私はいくたびか頭をふりそして本はいつまでもおなじペエジを食卓のうえにさらしていた
尾崎翠第七官界彷徨河出文庫, P92)

こういう何気ない文章がいいなあと思う。
そして最後まで読了。
人物たちの独特な感情にはあまり乗れなかったのだけれど、全体的にふわっとした寂しさみたいなものをまとっていた気がする。最終的に「失恋」という線でそれぞれの寂しさが繋がっていくのだが(主人公の恋は本当に一瞬だったけど)、「第七官」というのもそういう寂しさとともにあるような感覚なのだろうか。

戦前からヘアアイロンという概念はあったんだなーと思った。


3/23

最近休みの日がなかなか天候に恵まれなかったところ、今日は暑すぎるほどの快晴だったので、洗濯と掃除をした。
午後は“部室”へ行き、ここでも掃除をする。

ホコリと黄砂にまみれ、腰も疲れたので、温泉へ行ったらまたまたまた臨時休業しており悲しみ。一体いつになったら入れるんだろう。入湯料上げてもらっていいから、設備をしっかり直して欲しい。

寝る前にようやく本を手にする。小山田浩子『工場』。町一個を抱え込むほど巨大な「工場」を、新たに働き始めた三人の視点から描く。
最初に出てくる牛山佳子が契約社員として働くのは「印刷課分室」の実務補佐チームで、仕事内容はひたすらシュレッダー。
つづいて登場する古笛は「環境整備課屋上緑化推進室」という一人だけの所属することになる。大学でコケの研究を続けていたところに求人が来て、半ば追い出される形で働き始めたのだった。部署の目的は屋上をコケで緑化すること。
最後の牛山(佳子の兄)はSEとして働いていた職場をクビになり、派遣会社に勤める恋人のつてで「資料課」に所属する。ここではひたすら校正の赤入れを行うことになる。(なぜか一度直したはずの資料が、よりミスが多くなって戻ってくるなどする)

なんというか、どれも絶妙に要らないというか、雇用を産む(あるいは「工場」に人を取り込んでいく)ために無理やり一つの仕事として独立させられているみたいな仕事である。どことなく不穏な気配も感じるが、果たして……。


3/24

起きたときはなんともなかったのだが、朝食後から急に喉の違和感が出始め、咳が止まらなくなった。念の為かぜ薬を飲む。熱はない。
やはり昨日ホコリを吸い過ぎたのが良くなかったのだろうか……。今日はなるべく大人しく過ごそうと思う。

通勤読書は『文學界』から。古田徹也×奈倉有里「言葉の遅さが希望になる」。政治、教育、翻訳などいろいろな分野での言葉についての対談。
略語や言い換えを使うほどその実態から離れて記号化されていく……みたいな話があって、オーウェルの言葉が引用されていた(たとえば村落が焼かれ、住人や家畜が追い立てられたり惨殺されることを「鎮圧」と片付けてしまう、など)。

自分自身では重要ではないと思っている部分とか、読み飛ばす部分でも、みんなで一つ一つゆっくり文章を検討していくと、その部分に対する面白い見方をする人が必ず出てくるんです。そこが、複数人で集まって一緒に何かを読むことの意味だと実感しています
(『文學界2025年3月号』P117)

と古田さん。
この日記を書いていても感じるけれど、気になるところ以外はめちゃくちゃ目が滑って読み飛ばしてしまったりしている。だから読書会やSNSで他人の感想に触れるって大切なんだよなぁと思う。


大澤真幸「AIと人間」は新連載。なかなかヘビーな批評だと思うので身構えて読み始める。
テクノロジーの発達に伴い、既存の倫理をどう適用していくかが問われている。しかしそもそも、その既存の倫理ってどうなのか? という根本を問う必要がある……といったところか。

連載タイトルの通り、問われるのはAI時代の倫理について。アルゴリズムによって提示される「おすすめ」を見て、我々は別に欲しいと思っていなかったものを、欲しかったのだと錯覚する。つまりAIによって与えられた「客観的な規定」が、主体を書き換えてしまう。
これは極端に言えば、スターリン時代の粛清と同じである。被告は身に覚えのない罪を着せられ否認するが、最終的にその罪を認め自白してしまう。(もちろんこれは裏で色々あるのだろうが…)
このような状態を著者は「客観的な主体化」と呼んでいる。

では、客観的な主体化の倫理的な問題はどこにあるのか。そこでは「その人の偶有性」が奪われている……(ここで一旦紙面から顔を上げ、天を仰ぎ見てスゥーーと息を吸い込む)

???
非常にややこしくなってきたので立ち止まって考えてみる。
冒頭で出てきた「COMPAS」(アメリカの裁判所が被告の累犯可能性の判断に用いるアルゴリズム)の例のように、主観よりもAIの判断した客観性のほうが優先される社会になっている。
そしてAIは過去の行動履歴などに基づいて客観的な人物像を作り上げて選択肢を提示(ナッジ)し、日常レベルでは私たちはそれを普通に受け入れてしまう。
このとき、私が「他の選択肢も選び得たかもしれない」というような可能性は否定されて、私はもともとそういう人物であったのだ、と規定事項になってしまう……

そういう感じであってる?


『ことばが劈かれるとき』も読んでいく。第一章「ことばとの出会い」では、中耳炎で失っていた聴力が回復する中で、試行錯誤しながらことばを獲得していく様子が綴られている。
終戦の際にやってきた世界が揺らぐような絶望と希望についての描写はかなり印象強い。ここはぜひ読んでみてほしい。

「他者」が私に現れたのはいつのことだったか[…]それは、くり返し寄せてくる波のように、いく度かの回帰があり、そのたびに、点が線に、線が面、そして立体へと動いてゆくようにはっきりしてきたことは確かである
(竹内敏晴『ことばが劈かれるとき』ちくま文庫, P72)

こころの回復の過程にも近いような気がする。いま現在の自分は、ちゃんと他者と分化されていると言えるだろうか。



文學界』へと戻り、戸谷洋志「生命・他者・倫理——あるいはミャクミャクくんと友達になることについて」は、ミャクミャクくんに取り込まれず友達になろうね!という話だった。
Society1.0から「狩猟社会」「農耕社会」「工業社会」「情報社会」ときて、その次に来たるものとしての「超スマート社会」。あらゆるものが最適化されるためには、人間はシステムに従わなければならない(たとえば長年の経験に基づくカン…とか言ってられないわけだ)。するとどうなるか。システムが絶対的なものになり、そこに組み込まれた人間はそのシステムの倫理を批判できなくなる。ここが批判の論点である。

で、件の万博はそんなSociety 5.0の壮大な実験場なのである。万博のかかげるテクノロジーへの疑問、生態系への脅威については同調しつつも「人間を幾重にもシステムに同調させようとする今回の万博が、そうした他者性や多様性を、真剣に主題化しているようには思えない」(P142)と戸谷さんは書かれている。

万博批判はSNSをぼんやり眺めていると飽きるぐらい流れてくるが、特によく見かけるのは「個人情報抜きすぎ」問題(次いで「食事高すぎ」問題か)。あれなんかまさにスマート社会(とマーケティング)の実験って感じだよなぁ。


長門祐介『「意見のカタログ」以上を求める人のための倫理(学)』はブックガイド。冒頭でヘーゲルの著書にある「阿呆の画廊」という言葉が引き合いに出され、ここで紹介されるのは単なる意見のカタログではなく、読者を思考の渦に巻き込むような形で記述されている本である、とのこと。意見コレクターに堕しがちな私には耳が痛い。。。この日記だって色んな人の本を読んで「ほーん」って理解したようなしてないようなことを、ちょこちょこ書きつけているだけなので、正直全く模範ではない。でも、とりあえず断定はせずに、完全に理解したなんて言わずに、迷いつつ書いていくことが強いて言えば自分なりの倫理的態度……になってたらいいなあと思う。

紹介されている本の中では橋本治『革命的半ズボン主義宣言』がタイトルに惹きつけられる。まずは読みやすそうなところから……。