別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

読書日記一年分予定(35/52)

寒暖差とか色々やられちゃって体も心もボロッボロになっているこの頃。全部投げ出して西へゆきたい日もあるけれど、読まないと余計にしんどくなるので本を読む。



今週読んだ本

  • 斎藤真理子『隣の国の人々と出会う』(創元社
  • ゆめの 『発達性ディスレクシアの私たちが読んで書く世界』
読んでる本

5/27

寒暖差が辛い。今日は4月並みらしい。一番快適なはずなのに、暑さに慣れてしまっていて寒く感じる。鼻炎もぴえん🥺

文學界より、新人賞の選評を読む。金原ひとみさんは推薦した作品にもそれ以外にも丁寧なコメントをされていて、勉強になる。
村田沙耶香さんの評は登場人物の人間としてのリアリティを重視されているように感じた。「信頼できる重み」という言葉が印象的。
中村文則さんは「さそり座の火星」について気になったところを指摘されていて、確かにそこが気になる(あえて説明を省いたのかもしれないが、だとすればなぜ?)よなと思う。まあ終盤の描写的にその可能性は低いのだろうけど。
選外になった作品について、「あなたは力があるのだから、もっと読者を揺さぶってほしい」と熱いエールを送られていて良き。
青山七恵さん。サラッと厳しいお言葉が続く。「必要な要素を集めて適所に並べ、システマティックに共感レールを組み立てる」…手慣れすぎてもいけないというこの難しさ。
なんとなく毎回意見が割れてるイメージのある阿部和重さんが第一に推した作品は今回も他と分かれていて、別の角度からの評価が読めるのは面白い。むしろ他の委員が一致しすぎていないか。

選評を読むと自分の読みのゲロ甘さが露呈してむず痒くなるんだけれど、今回も「親切な殺人」における光のイメージを全然捉えられていなかったことを思い知らされるなどした。あと毎回言ってるけど選外作も読みたい。


今月号にも筒井康隆の掌編が載っている。自伝、終わらないんじゃないか。ここ数年の作品数がとてつもないことになりそう。

小林エリカ「Yの一生 The Life of Y」は聞き書きをベースに書かれるある女性の一生。形式としては『女の子たち風船爆弾をつくる』からとある一人の人生を分離して抜き出したような感じだろうか。確かに生きていた一人の人物像が浮かび上がってくる。


TVer村田沙耶香出演回の「あの本、読みました?」を見る。以前文學界に収録されてた対談でも仰っていたが、「実験」として小説を書いているという。この水槽にこんなキャラクターを入れてみたらどうなるのか?という好奇心。それであの凄まじい物語に展開していくのは、やはり想像力がずば抜けているのだろう。
キャラクターを作る際に似顔絵を描くという村田さん。ピョコルンの三段階のイラストを公開されていた。初期は思ったより羊で、そこからアルパカになって、最後はなんかあずまんが大王に出てくるちよ父みたいな感じだった。ポケモンの進化みたい。
でもこれはやっぱり文章から読者が各々最大限にかわいい動物を想像して読むのがいいのだろうなと思う。その方が残酷で良い(?)
友情出演の西さんと朝井さんからめっちゃ健康心配されてた。……そんなに?




5/28

午前中は今月もやってきた対談イベント。いっぱいいっぱいになって部屋も職場もごちゃごちゃに、という話をした。頭のごちゃつきがすぐに身の回りに出てくるタイプ。

対談のおかげで片付けなきゃなーという気分になり、布団を干して部屋の半分ぐらい掃除機をかけた。本の山はどうしようもなかった。


寝る前にジャミル・ジャン・コチャイ『きみはメタルギアソリッドV:ファントムペインをプレイする』から表題作を読む。イスラム系作家によるマジックリアリズム短編集ということで、そのどちらもほとんどノータッチな自分にはなかなか冒険。しかしタイトルからも分かるようにめちゃくちゃ現代で同時代性なので(ゲーム自体はあまりやらないが、日常にゲームのある世界には親しみやすい)、読みやすい。海外文学は同時代のものから入るのが意外と良いのかもしれない。
物語は語り手が「きみ」に呼びかけるという形式で書かれている。「きみ」は発売したばかりのMGSVをさっそく手に入れ自室に篭ってプレイし始める。
オープンワールドの世界に降り立った「きみ」は、ストーリーの進行を無視して、アフガニスタンの大地を駆け巡る。やがてたどり着いたのは、一族がかつて住んでいた村。そしてそこには戦争で亡くなる前の叔父と、傷を負う前の若き日の父がいた。
「きみ」は、二人を麻酔銃で眠らせ、どこか安全なところまで運んでいこうとする……。

SF的な着想自体はそこまで珍しいものではないが、その背景にある著者自身の出自と歴史の事実と人々の痛みの記憶とが、物語にかなりの厚みをもたらしている。この読み応えは前に読んだチママンダ・ンゴズィ・アディーチェとも近しいものを感じる。どちらも二つの文化の中で揺れる越境作家である。



5/29

斎藤真理子『隣の国の人々と出会う』を読む。「あいだで考える」シリーズはとても良いシリーズなのだが、まだ2冊しか読めていない。
そうなんだよな、隣なんだよな。今更ながらそんなことに気付かされる。
韓国文学はまだほとんど読めていない。歴史や痛みのことをもっと知らなければならないと思う。

マル・クル・ソリ。そして詩。
同じようだけれど違うもの、世界の見方。それはやっぱり実際にその言葉で考えて、文化の中に身を置かないと分からないのではないかと思う。


5/30

通勤電車はなんか人が多くて座れず。法則性とかがあるのか、よくわからない。
文學界』をまだ読んでいる。特集が「作家生活40年・山田詠美の声と言葉』ということだが、なんと私はエイミーをまだ未読!
色々な作家の語る山田詠美を通して作品の内容をぼんやり想像するしかない。町屋良平と村田沙耶香が二人揃って句読点に言及しているので、文章のリズムが独特なのだろうなぁと思う。

文フリで買った『発達性ディスレクシアの私たちが読んで書く世界』を読む。著者のゆめのさんは幼い頃から字を書くのが苦手で、人間関係などにも困ることが多かったという。あるとき発達障害の「ディスグラフィア」(文字を書くことが苦手な書字障害)の存在を知り、診断を受ける。その後、ご自身の経験を発信される中で専門機関の診断を受けることができ、そこで「ディスレクシア」であることも発覚したのだという。
興味深いのは、ゆめのさんは読書好きで、読めない自覚もなかったという。ではディスレクシアの「読めない」とは、一体どういうものなのか? そもそも人が文字を読むとはどういうことなのか? ……というのを、『プルーストイカ』なども参考にしつつ解説されている。
誰しもが同じものを同じように読んでいるわけではない、ということに改めて気付かされる。

「協調運動障害」という障害のことも初めて知った。指先を細かく使うとか、複数の動作が重なるような協調運動が苦手な特性らしい。そこまでではないけど、筆圧とか線とかバランスとか苦手なので、対処方法とかはなんらかの参考になるかもしれない。

booth.pm


5/31

MGSVの続きを読む。
「もういい!」は母であるランギーナが息子から説教をされている場面で始まる。自身のきょうだいや子どもたちが爆弾に吹き飛ばされたり川岸で撃ち殺されたりした中で唯一生き残った息子が今では自分に説教をしてくる。それだけでも十分に物悲しいが、ランギーナの人生には数え切れないほどの悲しみが蓄積していて、その積み重なったものが最終的に「もういい!」という言葉につながってしまうのだ。
「ハラヘリー・リッキー・ダディ」はカリフォルニア大学デービス校に通い、同じアパートで同居する学生たちが繰り広げるドタバタ劇。この学生的アホらしさとか恋の盲目さは森見作品的なユーモアも含んでいるのだけれど、もちろんそれだけではない。
軽いんだけど重くて、重いんだけど軽い、みたいなこのバランス感は、実際にこの世界を生きている人だからこそ書ける物語だと思う。(部外者が想像して書いても軽すぎるか重すぎるになってしまいそう)

夜は読書会に参加。今回はいつもより人数少なめで、一人一人がじっくり話してもオーバーしなかったのが良かった。読んでる途中のMSGVと文フリで買ってきた諸々を紹介。
最近調子がすこぶる悪いのは自分だけかなぁと思ったが、割と皆さんそれぞれに大変そうだったので、時期とか気候とか色々あるのかもしれない。



6/1

お昼まで寝ていた。自律神経が完全にやられていて、鼻水が止まらない。朝から百回ぐらい鼻をかみ、布団の上にちり紙がちり積もってゆく。
体調がすこぶるすぐれないなか、サンダルを買ったり仕事の備品を買ったりして夜は部室。本が読めない。。。


6/2

今朝も鼻ずぶずぶ。ポケットティッシュが秒で無くなっていく。
駅の近くの紫陽花がじんわりと色づいてきて、6月だな〜と思う。

行きの電車で文學界。ようやく山田詠美ゾーンを読み終わる。最後が山田作品の名言集で、文學界で初めて見る感じの構成だった(2年しか読んでないからわかんないけど)。


帰りの電車で文學界。電車に乗って席が埋まっていることをチェックして即取り出して読み始めたら、向かいに座っている人も何か本を取り出して読み始めたようだった。ちらっと見る。いやそれ、おま、それ絶対『文學界2025年5月号』やん〜〜!!
まさかの半径2mに同じ文學界を読んでいる人が存在するなんて。。たぶん向こうの人も気づいたっぽくて、何かちょっと気まずい感じになっていたかもしれない。
もし他の乗客がこの偶然に気づいて、「何? この雑誌、今流行ってんの??」みたいになってたらちょっとおもろい。流行れ電車で文學界。目指せ一両に読者5人(東京でも無理やろ)


そんな感じでちょっとテンション上がってたけど、寝不足と体調不良と心理的不調とで読解力が死んでいる中、後半のヘヴィーなゾーンに突入してしまったので全然文章が入ってこず、つらい。頑張って読む。

大澤真幸「AIと人間」は今回もテクノロジー怖ぇ〜な内容。

アルゴリズムは、いわばフェイスブックの膨大な数のユーザーを対象とした実験を繰り返しており、その結果として、憎悪や怒りを掻き立てるコンテンツは——慈悲や和解を説くコンテンツよりも——エンゲージメントを高める傾向があることを発見したのだ
(『文學界2025年5月号』P182)

というのはミャンマーロヒンギャ虐殺事件においてフェイスブックアルゴリズムがどのように動いたかを解説した部分。なんでXってこんな炎上ばっかり流れてくるんや!というのもこれまた人々の関心を惹きやすいからであって、アルゴリズムも悪いけど刺激的なものばかり求めるようになってしまった現代人もアレだなぁと思う。そんなに闘争したいならフロムゲーでもやればいいわけですよ。知らんけど。

しかしなぜ、こうまで人はフェイク情報に弱くなってしまったのか。その根本的原因として「信じる能力」の喪失ではないかと指摘されている。

フェイク情報や陰謀論の蔓延を規定している根本的な条件とは、信じる能力の喪失——あるいは、少なくともその著しい衰弱である
(同P185)

めちゃくちゃざっくりな理解だけど、「信じる」は「知る」より強いということ、らしい。陰謀論者はフェイクニュースを信じているのではなく、「知っている」。ここで陰謀論ユーザーの対極に置かれているのがアンネ・フランクみたいな人間の善性を無条件で信じられる人で、人間もまだまだ捨てたもんじゃないな……みたいに思えるのって意外と大事なんだなぁ。逆に陰謀論一歩手前なのは冷笑的態度かもしれない。
やっぱ神が死んじゃったのがいけなかったんだろうかなあ。

最後の方に出てくる、私はそれを知らない、故にそれは真実である、という陰謀論的謎理論もわけわかんないけどなんか分かるような気もした。一周まわった「事実は小説より奇なり」みたいな。

……と読んでいて、まさにこれ今「知っている」側に陥っちゃってんじゃないのかとちょっと不安になったりする。