別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

読書日記一年分予定(49/52)

する気力が起きない。
寝るか、同じ音楽や動画を繰り返すか、しかない。本は通勤中以外読めない。

それでこそ善良な人生とシオランならば言うだろうか。



前回
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今週読んだ本

9/2

キム・エラン『外は夏』(古川綾子 訳/亜紀書房)の続きを読む。
「沈黙の未来」は今までと毛色の違う作品。外界と隔絶された「少数言語博物館」で、消滅寸前の言語の話者サンプルとして生きる人々の孤独、を見つめる言語の精霊的存在。永方(祐樹)さんとかが書かれそうなテーマだ。


9/3

免許の更新に行った。なんか映像がちょっと良くなっていた気がするが、流石に5年もあればそうなるか。特定小型原付の映像がもろLUUPで、そこはええんか? と思った。
まだ圧倒的に通常免許で申し込んでる人が多そうだった。マイナ免許、どうなんだろう。


9/4

『外は夏』のつづき。

「過去」は通り過ぎて消え去るものじゃなくて、積もり積もって漏れ出すものなのだと思った。これまで自分を通り過ぎていった人、自分が経験した時間、押し殺した感情などが現在の自分の眼差しに関わり、印象に加わっているのだという気持ちになった。
(キム・エラン『外は夏』古川綾子 訳/亜紀書房 P180)

仕事や家族の間で揺れる男性、ジョンウの視点で描かれた一編「風景の使い道」より。教授であった父のスキャンダルにより離婚した両親。自身も大学の講師として働きながら教授の任用試験に挑むが、発言権のある教授が起こした事故の責任を押し付けられた上に、不採用を突きつけられる。
本人に全く責任のないところで様々な不幸が降りかかってくるという、ひどい話だ。


最後の作品「どこに行きたいのですか」もまた印象的な、余韻を残す物語だった。夫に先立たれたミョンジは、バカンスに行く従姉夫妻に代わってエディンバラの家に住むことになる。
夫がよくやっていたようにSiriに話しかける以外はほとんど誰とも関わらずに暮らすミョンジは、留学していた知人ヒョンソクと会うが、夫が死んだことを告げられない。

なんとも言えない微妙な空気が漂っている。エディンバラという舞台がまた絶妙だと思う。

全編を通して、どうすれば良いのだろうと途方に暮れる人々を描いている作品集だった。


9/5

台風が来るとまた一つ季節が進んだなという感じがする。しかしあまり台風感のない15号だった。風が全く吹いてないからか。


大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミストシオランの思想』(星海社)を読む。死にたい死にたい言ってる以上シオランは避けては通れぬはずだから……。

序章はその生涯について書かれているのだが、あれだけ悲観的なことを言ってるくせしてなかなか健康志向なのが面白い。パリで自転車乗りまくって不眠が改善したとか、2、30キロの散歩をしてたとか。

実のところ、シオランは自分の書いていることを生活でそのまま実践しているわけではない。彼はとても暗い本を書くけれども、日常生活では明るく、よく笑い、人と話をするのが好きだった。
(大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミストシオランの思想』星海社 P66)

今の世の中じゃ批判されそう。いや、当時もされたのかもしれないが。


第一章はシオランの考える「怠惰」について。怠惰は悪行を犯さないから美徳というのは、「地球環境に一番優しいのは引きこもり」理論と同じだなと思った。


明らかに真ん前から自分に対して話しかけている人をスルーしてしまったことにあとで気付いて、そろそろ認知がヤバくなってるんじゃないかと一瞬思った。一年前とかよりは明らかにできることが減っているような気はする。そのせいで死にたいのか、死にたいからそうなってるのかはわからない。



9/6

土曜の朝のひそかなお楽しみ、「ゆる山へGO!」。今回は静岡の玄岳に登っていたが、お天気はあいにくの霧で、ふもとの展望や富士山は見えず……と思ったらだんだん晴れてきて景色綺麗!! という展開、なんか前にも見た気がする。ほんと今村アナ、持ってますわ。

『生まれてきたことが苦しいあなたに』の続きを読む。

行為の拒否である怠惰を自らのなかで大切にしている人は、行動が至上であるという前提を持っていない。それゆえ、怠惰な人は、横になってゆっくりと考えることができる。
(P95-96)

何かを「する」ことだけが重要なのではないのだ。
(P96)

というのはシオランの怠惰観を考察した上での著者のまとめ。リフレーミングというか逆張りのようにも思えるが、怠惰に自責してしまうような状態のときにはこの言葉は沁みる。


第二章はいよいよ「自殺」について。
「俺は自殺するつもりだと考えるのは健康にとってよいことだ」ということで、やはり健康なのだ。
もちろんそれはシオランが実際に自殺してないからこそ言えることで、あくまで「自殺の観念」についての話である。

いつでも死ねるという気持ちを持つことで逆に肩の力を抜ける、みたいなことだと思う。


9/7

昼まで寝てしまった。午後から予定があったのでなんとか家を出る。

久々に会う知人と話したりお菓子を食べる。無気力な状態だと本当に会話とかまともにできないなと思う。

Ruslan Sirotaの“In The Beginning”ばかり聞いている。Pat Metheny Groupっぽすぎるから好きなんだろう。
鬱状態のとき、ひたすら同じものばかり摂取し続けるのあるある。

In the Beginning

In the Beginning



9/8

朝からだるだる。意識があるのがつらい。


『生まれてきたことが苦しいあなたに』の続きを読む。

「誰がなんと言おうと、死は自然が、万人を満足させるべく見つけ出した最上のものである。[…]なんという利益、なんという特典の濫用だろう!」

死は「特典の濫用」って。面白い言い方。


「三十歳を過ぎて自分は生きていないだろうと思ってました」

シオランでさえそうなのか。やはりこの考えはある程度普遍……?


第3章「憎悪と衰弱」もだいたい今までの延長線上にある内容だった。人間を生き生きさせるのは憎悪とか反発心で、逆にそういう闘争心とかを失って衰弱することで善良へと近付くのだ、という理屈。
結局私なんかはもう何もしないほうがいいんでないかと思うことは度々あるけれど、何もしないことにも、まあそういう良さがあるのかもしれない。

シオランは、勇気ある人も臆病な人も、「物ごとに対する明察力ある蔑視」が欠けていると言う。世界のすべての物事を自分に関係づけてしまい、自分の人生は祝福されているとか、呪われているとか思ってしまう。自分の人生を特別なものだと思ってしまう。
(P232)

第5章「人生のむなしさ」より。執着を手放せってことかな?


第二部はシオランとペシミズム批判。解脱の不可能性とペシミズムの限界について書かれていた。
この世の苦しみから逃れるためには「解脱」をしなければならないのだが、そもそも解脱とは執着を手放すことで、苦しみへのこだわり(ペシミズム)もまた執着なのだ。

うーん、なんとなく納得のいかなさがあるけれど……。仏教というのは理屈より実践だという気がするし、解脱とか悟りもそれを目指すなかで少しずつ近づいてゆくものなのではないだろうか。理論的に不可能と言われても、という。


全体を通して思ったのは、シオランの人間くささとか。ペシミストだけど健康志向だったり、あっちの立場をとるかと思いきや今度はこっちの立場だったり。そういう矛盾は読む側としては混乱するけど、人間なんだなっていう親しみが持てるかもしれない。
あとやっぱり本人が自殺してないから、シリアスになり過ぎないというか。自分含めてシオランに惹かれる人、共感して救われたいみたいな部分もあるんじゃないか。逆に健康で元気なときには響かないだろうなぁと思う。
そういう都合の良いつまみ食いみたいなのを許してくれる思想なのかもしれない。



帰ろうと思ったら事故で遅延していた。この時間に……?
1時間ぐらい待って、折り返しになった電車に乗る。特急が全部無くなってるので通過待ちがない。速い。