別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

読書日記一年分予定(50/52)

まもなく終わります。



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今週読んだ本

  • 小川和『日常的な延命 「死にたい」から考える』(ナナルイ)

9/9

最近そっち方面は全く聞いてなかったから、Liquid Tension Experimentのサードが出ていたのも、マイク・ポートノイがドリムシ復帰してたのも今知った。
あとイエスのKeys To Ascensionもいつの間にかサブスクに入ってた。
なにこれ、自分が来て欲しかったやつが急に色々来てるぞ、と思って調べたらYMOのGREEK THEATREライブ(「公的抑圧」の渡辺香津美カットされてないやつ)も来てた。マジで何?? 
残念ながら坂本龍一未来派野郎はまだだった。来てほしい。



小川和『日常的な延命 「死にたい」から考える』(ナナルイ)を読み始める。
序章が「承認欲求社会の生きづらさ」というところから始まっているように、現代のSNS社会を前提とした、若者の「死にたさ」を中心に据えた評論だ。

第1部第2章「安心欲求論」によると、「死にたい」のつぶやきには二つの方向性がある。ひとつは「承認への願望」、もうひとつが「安心への願望」である。
「死にたい」と発言することは、特に親密な人間との関係性を破綻させてしまう恐れがある。それゆえに、ネット上の安心できる場所で発言されることが多い。

あらかじめ相手に自分がどのような人物かを、それもできるだけ神経質に周知することで、いちど関係が形成されてから自身が排除されるようなリスクを軽減する。
(P48-49)

というのはプロフにスラッシュで色々入れてるアカウントに対する分析。このセルフハンディギャップ的なやつはすごいわかる。というか最近は拡散→炎上の流れが嫌でも目に入ってくるので、なるべくまともに受け取られないように、広がらないように……という方向性で予防線を張るパターンも多いのではないだろうか。

第三章ではこのような指摘がなされている。

日本社会においては、本来承認欲求と安心欲求という2種類の意味合いに分けられるべきものが「承認欲求」というひとつの言葉の中へと吸収されてしまっているのではないか。
(P55)

確かになぁと思った。そもそも承認欲求って言葉が曖昧すぎる。

では安心欲求を満たすために、どのような方法があるのか……というところで引き合いに出てくるのが坂口恭平の「制作」だ。たぶんこの辺は坂口さんの本を読んでないと理解しづらかっただろう。読んでてもなんか分からなくなってくる。
個人的には、坂口恭平的制作論の効果は確かにあるけどそれを難しい人もいるよね、という部分は大いに賛同。制作が承認目的に回帰してしまってはしんどいし、気にかけてひたすら受け止めてくれる人が常にいてくれるとは限らない。
ではどうするのか、ということで次なる選択肢に出てくるのが海外移住。……いやハードル高くない?? と思ったんだけど、よくよく考えたら自分も鬱が極まった結果みかん農園に期間バイトしに行ってるので、「物理的に移動して環境を変える」というのの効果は確かだと思った。
ただ、その効果が一時的であることは念頭に置かねばならないだろう。結局環境を変えても、行った先の環境でまた「これでいいのだろうか…?」とか考え始めちゃうと泥沼なのだ。何かもっとこう、根本的な解決を欲してしまう。



9/10

近所で古本市が始まったので初日開幕で行った。なんとなく開店前の百貨店のエントランスに入るのもためらわれて、外で20分ぐらい待った。
どこの古本市もそうなのか、リュックや大きなカバンを持ったおじさんたちがつらつらと列をなしてエスカレーターに運ばれてゆく。絶対普段百貨店に来ない層だろうし、古本以外にお金を落とさなそうだなぁと思った。それはまあ自身そうなんだけど……。(若者向け雑貨とかあればまだしも、完全に地方の奥さま御用達店舗なので)

昨年より古本は増えたらしいのだが、個人的にはちょっと回りづらかった。狭いスペースに人が集まりすぎていて、棚が全然見えない。
それでも2.5時間ぐらい粘って10冊程度を購入。五千円ぐらいを目指していたが、某古本屋店主氏のバンドのファーストアルバムまで売っていたので倍ぐらいになってしまった。探していたシオランとかは無かった。

終わった後に知人と少し見せ合いっこして帰った。雨は降りそうで降らなかった。


9/11

『日常的な延命』の続きを読む。第2部は「バーチャル/アクチュアル主体論」ということで内容もなんだか難しくなってきて、正直あまりついて行けてない。
ベケットの戯曲では絶望が極まったところからの折り返しがあるが、現代ポストモダン社会では情報過多によってあらゆる物事が相対化され、主体は「バーチャルな主体」になってしまう……。
現代社会はこれこれこうだから、希望のメッセージを素直に受け取れない、という感じなのは分かる。これこれこう、の部分が微妙に分からない。

重要となるのは、やはり生を終わらせないことの方である。終わりの一歩手前、絶望の一歩手前でほぼ自動的に「折り返される」という感覚が機能するからこそ、ベケットの表現は「死にたい」に対して希望を提示し続ける。
[…]しかし現在の世界を生きる人々にとっては、頭ではわかっていてもこの「折り返し」自体にバグ、不都合が生じてしまう
(P168)

そもそもこの「折り返し」も分かるような分からないような、微妙さがある。確かに絶望はどこかで底をつくかもしれないが、そんなはっきりと分かるものだろうか、折り返しって。気付いたら過ぎているもののような気がする。


9/12

金曜日は電車が混んでいてつらたんである。と思ったが二駅目からちょっと空いたので良かった。

『日常的な延命』の続きを読む。
第3部は「死にたい」の発生源を探っている。
「死にたい」には存在論的な不安から来るものがある一方で、なんとなく死にたい、みたいな「幽霊的死にたい」があるという。それは確率論から来る「郵便的不安」によるものなのではないか、と指摘されている。
見慣れない言葉がいろいろ出てきて混乱するけれど、要は「これだけ自殺しているのだから、自分も自殺するのではないか」というタイプの不安のことらしい。たぶん。

個人から生まれる個人的な「死にたい」、社会から生まれる個人的な「死にたい」、社会から生まれる社会的な「死にたい」。それらすべての「死にたい」にうまく対応していくことこそ、最も重要なことである
(P228)

この「社会的な」死にたいというのはやっぱり、自殺報道とかに関わってくる部分なのかな。


9/13

ものすごい雨の中本を買いに行き、買ってきた本をパラパラと読んだ。
大前粟生『私と鰐と妹の部屋』(書肆侃々房)は最初の一行目を読んで買った本。読書会に参加するようになってから、こういう変な買い方が増えた気がする。


9/14

ほぼ寝て過ごした。夜になってようやく起きて初めてトイレに行くという、末期的生活。
これが「バーチャルな主体」状態なのかもしれない。ただ、身体感覚が希薄になって死にたくなるというより、死にたくなるからどんどん身体をバーチャルにしていってしまう……という方向もあるのではないかと思った。何も感じたくない見たくないみたいな。

『ざつ旅』の伊勢回を見た。一度白子で降りてるのが面白かった。まずそこに直売所があるというのを初めて知った。いわゆる観光地ではないだろうし。
たぶんこれは地方がアニメやドラマに取り上げられた時のあるあるなんだろうけれど、地元だからこそ分かる微妙な方言の違和感を感じて、それを感じられるということはやっぱり地元なんだなぁと思った。
具体的にいうとたぶん伊勢の人は「〇〇やに」とは言わない。そして「やに」って、意識してつけるとだいたい変な感じになる。というか本来はたぶん「に」の部分が方言で、「や」は普通に関西弁のそれなので(「〇〇やで」が「〇〇やに」になる)、「〇〇で」は「〇〇に」になるはず(「早よせなあかんでー」は「早よせなあかんにぃ」になる)

という感じで、ツッコミ始めるとキリがないのが方言問題である。


9/15

『日常的な延命』の続きを読む。
最終章はカフカ論。『変身』と『訴訟』をカフカの自殺観の表明として読み解く。
カフカもまた自殺をしなかった人だけれど、それは作品を通じて様々な角度から考え抜いたからではないか、というようなことが書かれていた。

夜分に読了。
なんでここでこの話が? という部分がいくつかあったのだが、本書自体が著者の「延命」の過程を辿るような一冊だったということか。しかし概ねの方向性としては自分の興味範囲と近しいところもあって面白かった。というか、承認欲求の探索・坂口恭平・筋トレ・旅……というのはもしかしたら、現代を生きる死にたい人にとっては王道だったりするのだろうか。

死にたさの只中にいる人が、その気持ちを社会との関係の中で批評的に捉えていくのはなかなか難しいところがあると思うので、こういった本を読むのは視野をちょっと広げるのにもいいかもしれない。


個人的には「安心欲求論」のところがもう少し詳しく知りたい。承認欲求の方向へ逸れずに安心欲求を満たしていくには、どうすれば良いのだろう。「個人×日常」の領域だから、個別具体的に考えていくしかないのかもしれないが。