ほぼ「眠い」しか言ってない気がする日記。

3/16
2時までマリオギャラクシーの実況を見続けていたせいで、当然眠い。眠すぎてお弁当を持たずに家を出てしまい、3分後ぐらいに気付いて取りに帰る。ただでさえ遅めに家を出ていたので、さすがにこれはもう電車間に合わんな…と諦めムードで駅まで行ったらなぜか間に合った。本当になぜ??
朝の電車でベン・ラーナー『トピーカ・スクール』の続き。視点人物が〈財団〉の研究員らしいジョナサンという男に変わる。不倫やドラッグに溺れる元ヒッピーの心理士の視点で、トピーカの街や財団の内情が綴られてゆく。
3/17
朝、外に出て陽射しを浴びると、ほんのりと暖かさを感じる。でも原付に乗るとやっぱりまだちょっと冷やこい。
『トピーカ・スクール』を読んでいく。ジョナサンと恋人のジェーンが前章のアダムの父だということがぼんやりと分かったが、まだ生まれていない時代の話である。心理士としての患者との接し方とか、割と専門的な話も出てきてふむふむと読む。1970年代なのだろうか。ベトナム戦争後あたりのアメリカ社会で大人たちには理解できない音楽を聞き、甘やかされているのに心を病む若者たち。そんな若者たちとのコミュニケーションを模索する中で、ジョナサンは映画を通じて彼らと心を通わせてゆく。
やがて場面はジョナサンたちが患者と撮影したヘッセ原作の「ツィーグラーという名の男」の上映会に。トピーカの街とベルリンの光景が重ねられてゆく。ナレーションはホロコーストから逃げ延びた分析医・クラウス。要素が複雑に絡み合っていて、整理がなかなか追いつかない。
3/18
ここ数週間はひたすら寝るだけで終わっていた水曜日だが、今日は掃除をして図書館から本を借りてくるとはできた。こないだ159円だったSSは174円になっていた。今までのちょい高いところぐらいに収まってくれているのはありがたい。山間の方とか行くと200円台になってそうだ。
夜は楽器を練習。ビートルズのNowhere Manの完コピを目指しており、リズム&リードギターは割と初心者でも弾けそうな感じだったがベースが難しい。ポール! 単音だから余裕でしょとか思ってた自分をぶっ飛ばしたい。
3/19
とにかく眠いんです。
雨上がり、時々ごく細かい水滴が頬に触れるものの、濡れるほどではないのでレインコートも傘もなしで家を出る。
『トピーカ・スクール』はアダムの母でセラピストであるジェーンの章。要するにこれは一つの家族の物語なのだな。そしてコンピュータが出てきたりアダムが大人になっていることが発言から伺えて、時代的には現代っぽい。つまりアダムの90年代→ジョナサンの70年代→ジェーンの現代という三つで構成されているのだなと、100ページぐらいでようやく把握できるのだ。
ジェーンはフェミニストとして著書を出したことで世間からバッシングされた過去があり、そこでギクシャクした財団内での人間関係とか嫌がらせの電話とか色々な被害を受けていたということが描かれる。そんなストレスと、彼女自身の両親との確執なんかが精神分析的にリンクして、小説というより心理学のスタディケースを読んでいるような気分になる。
次の章では再びアダムの章に戻るが、断章で挟まれるダレンについての人物像が少しずつ見えてくる。
おとなこども、道家の末裔、村の白痴、私有地化された田園を放浪した詩人ジョン・クレア。性的に成熟した肉体に残存する幼年時代の心——その充足と無目的性——は、歴史的な時間に屈指、流れる時間を記録しなければならない。
(ベン・ラーナー『トピーカ・スクール』 川野太郎訳/明庭社 P150)
何言ってんのかよく分からないけど、おそらく知的障害のために生じる周囲との軋轢のことだろう。一方で肉体的には白人男性という特権市民であるがゆえに「支配的な者たちとの類似性こそが、彼を哀れで挑発的な存在にした」(P150)とも。言語化するのが難しいインターセクショナリティ。
話題は再びディベートに戻ってくる。
一見すると公平無私な政策おたくが、知識のない者には理解できない職業語を使って医療制度や金融政策といった複雑な問題について議論しているあいだ、より大統領に近い立場の演説者は平易な言葉で価値観にまつわる主張を試している。この分裂を支えているオイルダラー。
(P176)
こういう分かりやすく現代社会にも重ねて書かれている箇所は読んでいて楽しい。ただすごく今更だけど「共和党的な話題」とか言われてもちんぷんかんぷんなので、前提としてアメリカ社会や政治の知識が割と問われる作品だ。
中盤で出てくるアダム専属のコーチ、エヴァンソンはディベートの達人で「スプレッド」や「トローリング」を巧みに操る。ここの特訓パートはなかなかアツい。
保守派のエヴァンソンに対してリベラルな家庭に育ったアダム、師弟の行先はやがて別れ…みたいな。
歴史が再び進み始めたとき、ふたりのうち片方は、カンザス始まって以来もっとも右寄りの知事にとって不可欠な計画立案者となり[…]トランプ政権の重要な雛形となるだろう。そしてもうひとりは、前者のスピーチの系譜、その劇的効果と極端さに挑むだろう。
(P185)
帰宅後、前回失敗してしまったギターの弦交換に再挑戦。今回はエクストラライトなので余計に切れそうで怖い。動画を見つつ見よう見まねでピンを差し込み、指一本分のあそびを持たせながらペグにロック。ここがまだよく分からず、なんか綺麗に巻けない…。
一弦から順にやっていったが、五弦を張る時点で三弦の次は六弦から内側にやらないとめっちゃやりにくい…と気づいたものの遅し。隣の弦に当たって苦戦しつつも張り終え。
交換後はすぐにチューニングしない方がいいらしいので寝かせておき、ベースの練習をする。こちらもいずれは弦交換せねばならんのだろうけど、こんな太い弦を巻くのは大変そうで、綺麗にできる自信が全くない。誰かやってくれないかなぁ。
ギターである程度指先が硬くなってきているものの、ベースの硬さにはまだ対応できておらず、指が痛くなったあたりでやめる。フレット感覚もまだ掴めず、特に小指で抑えるとビリビリする。基礎練を地道にやるしかない。と言いつつ曲の練習ばかりしてしまうが……。
3/20
めちゃくちゃに眠い。祝日ということもあって余計にお布団を離れがたいが、起きてバイトへ。道端にはつくしもわちゃわちゃしていて、春だなぁとしんみりする。
トピーカの続きを読む。アダムの次は再びジョナサンで、外交官の父の仕事で台湾で過ごした子ども時代が語られてゆく。時代的には1950年代ごろだろうか。アメリカの影響は圧倒的で、特権階級としての振る舞いがまかり通る環境。
後半は失恋したアダムを宥める場面に。
続いてジェーンの章でもまたアダムへの注目が高まっている。そして初めて他者から見たアダムのディベートが描写される。エヴァンソンの指導はとにかく勝つことのみにフォーカスし、身体的なリズムを抑えるよう指摘する。それは「言語が流れる経路」(P265)であり「『ゴールドベルグ変奏曲』におけるグレン・グールドのハミングのようなもの」(同)であるのだが。
わが子を間違った教育に差し出してきたのかもしれない。頭脳さんは息子を「男たち」に差し出してしまったのだ[…]彼はいまやトピーカ・スクールの卒業生だった。
(P265)
しかし大会の場面で、アダムは取捨選択を行い、自分の信じる方法を貫こうとする。価値ディベートの決勝でスプレッドを仕掛けられた彼は、その行為の是非を問うのであった。
私は、息子がもっと人間的なスケールの交流を擁護し、言語的大量殺戮——パパと私は、アダム自身によるそれにとても頻繁に襲われてきた——を拒否することでそれを実践したことに、心を動かされた。
(P271)
アマプラの配信が終わるので「君の名は。」を観る。金ローとかでちらっと見たりしたのを除くと、ちゃんと観たのは公開以来かも?
最初から三葉は普通に大人で、時間の捩れは分かるようになってるんだなぁ。初見で理解するのはほぼ無理だろうが。
やはり新海誠は田舎風景より東京の人だなと思う。東京のめちゃくちゃ綺麗な部分の描写が良い。
一方で風景描写がリアルな故に、なぜ年号のズレとかに気付かないのか…みたいなディテールのご都合設定は気になってしまう。まあリアリティのある舞台でセカイ系やるのが新海誠の醍醐味と言えばそうなんだが。
ただ、災害を感動の装置に組み込むのはもうそろそろ厳しい時代になってくるんじゃないかと思う。隕石はまだしも異常気象とか地震とか、そういったテーマはもうフィクションの他人事じゃ済まないだろう。
3/21
土曜朝のお楽しみ、「ウィー中」の今村アナが卒業らしい。ゆる山とか色んなこと挑戦されてるのが好きだったんだけどなぁ。気象予報士に専念とのこと。やはり資格持ちは適材適所にということか。
お外に出ると冷たい風。冬に比べたら全然暖かいだろうが、もう身体が暖かさに慣れてしまって寒い。
『トピーカ・スクール』読了。あまりにもテーマが広すぎて一割も拾えた気がしない……。
中心にあるのは「話すこと」とアダムの成長物語なのだろうが、登場人物一人ひとりの物語が多層的に折り重なって融合しているため、単純な物語として整理(プロセス)することはできない。
しかしキーワードを抜き出さないことには何も思い出せないので、いくつか重要そうな部分を挙げてみると
・スプレッド
・おとなこども(マンチャイルド)
・ドウッチョの「聖母子」
・関係の力学
・紫の牛
あたりだろうか。
スプレッドの残酷さや政治とのリンクについては既に多く言及されているので、断章として挟まれるダレンのパートについて触れておきたい。
おそらく軽度の知的障害を持つ青年・ダレンは同級生たちから揶揄われたり湖畔に置き去りにされるなど酷い扱いを受けている。一方で彼は白人男性というマジョリティでもあり、マイノリティの障害者が受けるようなさらに深刻な被害は免れている面もある。
ダレンのエピソードが挿入されるのは、彼が結果的にある事件を起こしてしまったことが青年期のアダムに罪悪感を与えたということもありつつ、訳者あとがきにあるようにアダムにとってもう一人のあり得たかもしれない自分として対比されているのだろう。ダレンが直接的に何かを話している描写はあまりないが、おそらくその発話はアダムのスプレッドのようなものではなく。
36ページにやや唐突に出てくる「主題統覚検査(TAT)」で提示される、ディベートで勝利を収めたアダム少年の姿と、334ページで同じように出てくる(おそらく政府への)抗議者としてのダレンの姿。そして最終章のタイトルはまさに「主題統覚(アダム)」である。
やはりここは口の立つもの側であったアダムが自身のユダヤとしてのルーツやプエルトリコルーツのパートナー・ナタリアとの出会いを通して、ダレンの側に立つことができるようになった、と解釈できるか。
個人的には解説で白岩英樹さんが書かれていた「正義の倫理」から「ケアの倫理」が生まれたという話は気になるので、その辺をもっと知りたい。
3/22
昼前まで寝、ダラダラしていたが、せめて髪ぐらい切りたかったので床屋へ行く。
アンディ・ウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』(小野田和子訳/早川書房)を読み始める。映画より先に原作派。
学界を追われた理科教師が何や勘やで世界を救うプロジェクトに抜擢されれという展開はアツくて好き。あと序盤の重要な発見にJAXAが貢献してたり。
SF初心者でも読みやすいのは、次々と出てくる科学用語や概念をちゃんと解説してくれてるから。主人公が子どもたちを教える教師だからこその描写で、上手い仕組みだなぁ。(ここまでオールジャンル万能な理科教師がいるかどうかはともかく…)
中盤でついに未知と邂逅して、知識のすり合わせをする中で時間や基数を確認して…という流れも間延びせずに良い感じ。

