別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

4/13〜4/19 『随風』を丁寧に読んだ。

日記中に書き忘れたが、版画のコレクション展を見にいった。古民家の土壁と版画のざらついたインクの質感がとても合っていて、非常に良い。
緊張感ある微細な線のエッチングから、ボワっと滲んで幻想的な木版まで、版画って幅広いんだなぁ〜と素人なりに思った。

学童で年賀状のためにゴム版画をやらされて以来だけれど、ちょっとやってみたいな。リトグラフ。

4/13

田植えが始まっている。季節が早い。
通勤中、珍しくバイクと縦走する形になり、そういえば原付ももう十年以上乗っていることになるのだなと思った。そのうち自転車より長くなってしまう。自転車も乗らないと。でも新ルールがよく分からずに乗るのは怖い。

今日も電車に乗ったあたりで鼻水がピークに。起床一時間後、食後30分後どちらがダメなのか。どちらもなのか。そこが原因であればもう少し早くおきればということになるが、無理。

『随風03』より、宮崎さんによる恒例の巻頭随筆批評を読む。随筆が文学たるには何が必要か。それは「不確かさ」なのではないか、というお話。個人的には物語化しすぎない倫理みたいなところと繋げて理解したくなる話だ。
ただ、じゃあ脈略なく自動筆記みたいなことをすればいいというわけでもなく、そこのバランス感覚は難しそうだなぁと思う。



帰り道、田んぼの泥で凸凹した農道と蛙の大合唱に初夏の近付きを感じる。やはり田植えの季節がいちばん「始まったな」という感じがある。昔の人が農耕サイクルを基に生と死の円環みたいのを考えたのもよく分かる。


4/14

喉が痛い。春風邪?
電車が今季一の混雑。火曜が混むのだろうか。

『随風』つづき。
碇雪恵「無駄だったなんて言いたくないが」は習い事が続かない話。習い事って強制力みたいなのが合う人もいれば合わない人もいるよなぁと思う。自分も習字とかやらされてたけど今も死ぬほど字が下手なので、タメになったとはあまり言えない。

海猫沢めろん「無気力の教え」は中学時代の「無気力」とその転換点について。

中学生の頃の自分は、勉強もしない、部活もサボる。[…]ただ食事をエネルギーに変換して排泄するだけの、制服を着た肉塊だった。学校の試験はほとんどが0点。
(『随風03』 書肆imasu/P21)

自分の高校時代もほぼこれ。起きて、ニコ動見て、日が暮れて寝る…みたいな。
最終的に無気力を否定せずに、それでもなんとかやっていく術を身につけている海猫さんはすごい。

オルタナ旧市街「グレート・サンドイッチの技法」。起承転結のまとまった上手い随筆。しかし最後にまさかの転というか急がきてうおお…という読後感になる。

“時間とはどこまでも平らかで、夕暮れはいつどんな国にいようとものっぺりと同じ顔をしてやってくる。”(P27)

子どもの頃の夕方の孤独感、身に覚えがある。親が帰ってくるよう神棚とかに祈っていた。

鯨庭「頭の中で椅子に座る」。正面から「学び」というテーマに向き合われている。知人の言葉がとても良い。テストで測れない学び、知性。大人になる程そういうものが大切になってゆくのだろうな。

くどうれいん「お土産の学び」。ついにくどうさんも執筆陣に。くどうさんのエッセイはとにかく楽しいものとドキッとするものとがあるが、こちらはとにかく楽しい方。あれもこれもとお土産を買いまくるバタバタ感と家族旅行のほっこり感。そして綺麗にまとまりそうなところで…という結びも非常にくどうさんらしく素晴らしい。

佐川恭一「暗記について」。でもやっぱり暗記も大切だよね、という守破離的な話。
暗記が何となく軽くみられるのは、それこそ「とにかく詰め込め」みたいな根性論のイメージがあるからだと思う。だからどちらにしろ覚えなければならないのであれば「どう覚えるのが自分に合っているのか」を考えるのが大切なのではないかなあ。自分の場合はとにかくまず楽しめるところだけ享受しまくり、でもやっぱり基礎がないとダメだと気付いたタイミングでやるという非効率すぎる方法をとりがち。最初にモチベを上げられるだけ上げとかないと続かないから…。

佐藤舞「廃車にしてから廃車に行った」。冒頭からもう痛い…。何度も同じ場所に頭をぶつけるとかはやりがちだけど、さすがにこれは繰り返したらまずそうだ。たぶんこういうのって不注意とかより身体感覚的な問題ではないかと思ったりする。自分の体の感覚がどこか掴めていない。たぶん合気道とかやると良いのかもなぁと何となく思っている。根拠はないが。


4/15

映画を観るため頑張って8時に起き、図書館に本を返したり部屋をわずかに片付けたりする。
映画を観るの自体半年ぶりぐらいで、発券機で出したチケットがレシートみたいな薄い感熱紙でこんなだっけ…? と若干不安になった。ここ数年稀に行っていたシネマはカウンターで貰う半券を切るタイプだった。水曜日が安いその館はもう無くなってしまったので映画からも遠のいていたのだ。
観たのはもちろんプロジェクト・ヘイル・メアリー。ティザーも何も見ずに行ったので、いきなりAmazonFilmと出てきて、そうなんだ!と思った。じゃあそのうちPrime入りするだろう。

序盤からかなりテンポ早め。ここが宇宙だと知る実験とか名前を思い出すくだりとか省かれている。ここは原作先に読んどいてよかった。作戦名の元ネタ(アメフト)についてのセリフも字幕で省かれてたけど、解説を読んで知っていたので聞き取れたりした。やっぱり字幕もかなり省略されてる感じがあったので、Prime入ったら英語字幕で観てみたいな。

ストラットがかなり丸くなってるなというのと、ロッキーがやんちゃになってるな、というあたりを除けば割と人物像はそのままのイメージで良い。原作はストラット&グレースでコントやってたのがロッキーに変わった感じ。しかし、ライアン・ゴズリングはグレースすぎてすごい。
ストラットに関しては原作より内心の葛藤みたいなのが匂わされているんだけど、ちょっと中途半端かなぁという気もした。どうせ描くならもっとドラマを入れてもよかったのでは。(さすがにグレースとの間に露骨な恋愛入れるのは違うけど) ちなみにハリー・スタイルズ歌う下はライアン・ゴズリングが頼んだらしい。
エリディアンに関してはやっぱ岩グモなんだな、と読んでてぼんやり描いたイメージとそこまでかけ離れてなくて安心した。(ラストシーンは虫苦手な人ダメそう)
食事に対する態度は尺とかあんまり関係ので別に改変しなくても良かったのでは…? とは思った。食事は見せない、恥ずかしいものという価値観のずれ、そういう細かいところが人間文化との違いを演出してる気がする。

全体的に映像美で魅せる感じで、冒頭のキラキラとエイドリアン(タウ・セチe)が美しい。


4/16

朝のニュースで夏日だとか言っており、桜が終わったらもう夏かよ…。
水を張った田の細波に光がちらちら反射しているのが綺麗だと毎年思う。

やや混みの電車で『随風』つづき。
惣田大海水「北極星」。日記ZINE「死ななくてよくなった後の日日」が話題になっていた方。過去を振り返りつつも重くなり過ぎない、バランス感のある文章を書く方だなぁと思う。

ここではないどこかに、自分の居場所があるという幻想に身を浸す嗜癖だけが内在していると、理解できる歳になっていた
(P47)

若者特有のあの感覚が見事に言語化されており、すごい。これもまた不惑ということか。早くこれになりたい。


友田とん「アドバイスは生きる」。実は友田さんの文章をちゃんと読んだことがあまりないのだが、思ってたより軽さを前面に出されてはいないのだなと感じる。一方で視点の鋭さは想像通りで、そういうところをちゃんと見て考えられているからこそ、あの作品たちを世に出せるのだろうなと。何かを見て、そこからの思考の広げ方が理系的なのかも。少なくとも感覚的な広げ方ではない気がする。


生湯葉シホ「12分」。他者とのコミュニケーションについての学びの話といえるか。自分もそういうのが苦手で、特に「自分が人から見たらどう見えるか」を考えるとものすごく苦しくなる時がある。

私は笑い、いや、笑うようなことじゃなかったらどうしようとすこし遅れて思う。
(P56)

これがもうめちゃくちゃ分かる。何かしら反応しないと!とついフフンみたいな笑いを入れ、「鼻で笑った?」とか言われてしまったり。あああああ

船張真太郎「揺れっぱなしの腹と心」。船張さんはZINEフェスで書店開業日記ZINEを買ったときから「絶対この方は来る…!」と思っていたので、エッセイ界隈を躍進されているのを見るとついつい後方腕組読者顔ムーブをしたくなってしまう。
船張さんのすごいのがノリのコントロールだと思う。今回まさにそういうところの話を書かれているのだけど、処世術として身につけたお笑い感覚を持ちながらも、コンプライアンスへの目配せも忘れない。読んでいて計り知れない安心感がある。これはベテラン教師としての経験も大きいのかもしれない。

身体の大きいお笑い芸人から余計な処世術を学ばずとも、誰もがのびのびと暮らせる世の中の方がいい。
(P190)

先生〜〜!!!
教員による不祥事なども見聞きする昨今、こんな先生がもっと増えてほしい。


まつさか ゆう「優しい誰か」。「優しさ」とは何か、という難しすぎる問い。誰かに対して優しいねと声をかけることが、その人にとって呪いとなってしまうこともあるのだと、気付かされる。(「まじめ」とかもそうだ)
積読にある戸谷浩志『生きることは頼ること』を読んだほうが良いかもしれない。


随筆特集はここまで。新たな試みとして紀行文が始まっている。扉ページを見てようやく表紙画が日の出か日没の海だということに気付く。色的には日の出っぽいかな。

早乙女ぐりこ「尾道因島放浪記」は林芙美子の足跡をたどりつつ尾道をめぐる。自分も5年前に行ってるんだけど、当時は文学全く読んでいないマンだったため林芙美子のはの字も知らなかった気がする。5年あれば人は多少本を読む人間になれるのだ。まあ、林芙美子は今なお未読であるが……。と思ったら百年文庫の3巻目で「馬乃文章」を読んでいた。百人は読んだって言えるからというミーハーすぎる理由で通読を目指しているのがここにきて役立つ(?)。

千光寺の三重岩は自分も登ったので「やったやったー!」と嬉しくなる。記憶が曖昧なのでこんなハードだったっけ…? とちょっと驚くが、当時みかんバイト帰りで体力がついていたから大丈夫だったのだろう。日々段々畑を上り下りしていたのだ。

巫女バイトのポスターに「インスタデビューのチャンス」と書かれていた話は笑ってしまう。そういうとこ気になるし、書きたくなるよなぁ。

文中に尾道の島々が色々出てくるが、四国の島って絶妙に読めない名前が多いよな…と思う。
前日に鎖やって今日は登山もして歩きまくって疲れているのにさらに因島大橋を往復するというパワーが眩しい。でもせっかくだからと無茶してしまう気持ちは分かる。いやでも29000歩はさすがに歩いたことないな、、、。

最後に後日談も掲載。旅先で知った同人誌を読んでみようと国会図書館に行った話が。あるんだ! これは羨ましすぎる。

とりあえず林芙美子、読んでみよう。ちくまの文学全集が手に入れば良いのだが。


そしてここからは批評。
柿内正午「随筆時評」第三回はいきなり鋭い。「オールドスクールなエッセイの定型」としてまくら→フリ→オチという図式が示されているが、まさに「上手なエッセイだな〜」と思うタイプの型だ。特にオチが斜め上に放り投げられる系が好き。

あらゆる文章表現は、どうしたら自分の書いたものを真に受けてもらえるか、知らない人にまじめに精読してもらうためにはどうすればいいか、という問題を解決することなしには機能しない。
(P94)

というのが今回のテーマのようだ。「真に受ける」を変換しようとしても魔にウケるとかしか出てこなくて死んだが、それはともかく。
この問題に対する一つのアンサーが「ひたすらデザイン(モノとしての良さ)を追求して手に取らせる」ではないかと思ったが、それでは精読までは行かないか…。

そこから話は日記ブームを経由して近代日本文学の自然主義の二面性へと至るが、これはフリではなく真面目な話のはず。身構えて読む。というかこういう「その辺調べたらなんか面白そうだな〜」と思わせてくれる文章が好きなのだ自分は。知った気になれる…。
評論を読み慣れていないため「私」と〈私〉で表記の使い分けがなされていることに気付かず読み飛ばしては戻りをしながら読み進む。(しかし「私」の方の意味がいまいち実感できないままに)

後半では今までの話の流れに沿う表現手法の作品たちが紹介されているが、どれもおそらく自分が何の手助けもなく読んでも「???」となる作品で、うぉおおと思う。何もわからんがなんかすげー難しそう……。そんな見方をしてしまうのもまたポジション確認?
ただポジション確認してしまうのは情報が多すぎるからでもあって(文フリで何の前情報も無しに作品を買うことのハードルの高さ)…などと考え始めるとひたすらズレていくので、とりあえずそれは『置き配的』を読んで考えたい。


佐峰存「綴る、転がす、育む——随筆批評の可能性」。英語圏における〈Zuihitsu〉の広がりという話から。そうか、essayはモンテーニュとかそっちになるのか。
文体の種類について何となくしかわかってないのでほえ〜という感じだが、〈Zuihitsu〉は散文でも韻文でもないらしい。というのは散文の概念がそもそも異なるからで…ううんややこしい。
実例として詩人のキミコ・ハーンの作品を引きつつ、これが英語圏の一般的な文体とどう違うのかが解説されてゆく。
Haikuの概念違い問題とかもあるように、単純に翻訳すれば同じ見方のもとで読めるというわけじゃないんだなあ。古い作品の訳が翻訳調で読みにくいというのはまさにそういうことか。

そこから漱石門下の厨川白村が定義した黎明期のエッセイの定義なども紹介されていくが、読んでいると自分のエッセイ観の狭さを再認識する。やっぱりどこか軽い書き物として見てしまっている部分があるのだなと。
しかし最初期の定義からすでに「詩歌における抒情詩を散文的に行ったもの」とも書かれているのだという。記録や羅列とは別物で、文芸たりうるものなのだ。

そして終盤、『随風』創刊号に掲載の作品のテクスト分析も試みられているが……あああなるほど〜〜そういう描写なのかああ!! と全く読み飛ばしていたディテールのこだわりが読み解かれてゆきアハ体験すぎる。いやもう全作解説してほしい。

詩のように一つひとつの文や言葉を解きほぐし評していくことで、随筆作品における一人称の特権性は薄れ、読はさらに多面的になっていくのではないか
(P123)

まさに「おしゃべり」だなぁと思う。そしてそう考えると客観的に見て良い文章というのはついつい言及してしまいたくなるような文章…ということになるか。あまりにもプライベート(「私」が特権的)な話題だと触れにくいしね。

高山京子『坂口安吾とエッセイ、すなわち不可解なる「私」』。偶然なのか意識的なのか、柿内さんの評論の分からなかった部分を補足してくれていて助かる。「私小説演技説」なるものがあったんですね。
随筆文芸誌を読んでいるのでつい随筆とはなんぞや…みたいなことを問い問いしてしまうが、坂口安吾みたいなそこを曖昧に溶かしてゆく書き手もいて、そうだよな〜別に決まってるわけじゃないもんな〜と思う。ちゃんと読んでないけど最近の保坂さんとかそんな感じ?


竹永知弘『「エッセイ」という「イズム」』。古井由吉の「エッセイズム」から考えるエッセイ論。初めてちゃんと古井由吉の経歴みたいなのを知った。
ここで書かれている「ジャンル的不一致感」というのは柿内さんのポジショニングしてくる「視線」から逃れる〈私〉というイメージと近しいものと考えて良いだろうか。

ムジールを参照しつつ、学者にも作家にもなれないからエッセイを書くというあり方を肯定している箇所は、その文脈でエッセイを肯定することもできるんだ、と思った。そう思ってしまうのはやっぱり小説を上に見てしまっているからなのだろうか。
ラストの古井由吉の言葉は納得。実際、人文書とかそうなっていっていると思う。

いつもの編集していないほうの編集後記は点滅社の屋良さん。めちゃくちゃ編集してそうな感が出ているが、編集していない…?
この処世術は屋良さんにしかできなさそう。

プロフィール。くどうさん、打ち間違えについての文章の中に打ち間違え(というか余計に打ってしまった何か)が。というかこのちっちゃい+、何??? あ、もしかしてこれ電荷の記号か? H ⁺の「⁺」? いやだとして何故ここにそれが…??? と考えたが、iPhone日本語キーボードで「ま」と打つ際に下の顔文字キーをタップしてしまい挿入された顔文字の残骸説。やりがち。
佐川さんの言及で滋賀作家アイデンティティが激戦区と知る。
惣田さんの紹介では山頭火の名の由来を知る。

「第一回随風賞募集のお知らせ」。ついに新人賞が…! 随風賞ってめちゃくちゃ雅な響きだなぁと思う。原稿5枚程度で応募も多そうなので上限100とされている。ただの散文には興味ありません!散文芸術を求む! みたいなことを審査員の方々は書かれており、そこの違いをまずは噛み砕けないとだなぁと。

編集後記。平林さん。ご愁傷さまです…。随風賞は選考外にもすべて講評すると書かれていて、だからの100作品かと納得。それでもすごすぎる。
宮崎さん。批評はめちゃくちゃ読んでて楽しいのでもっと増やしてください。…って言っちゃったら本末転倒かしら。
早乙女さん。めちゃくちゃためになるアドバイスが。ただ記憶力とモチベーション維持力がある程度必要そうかも。


ということで読了。今回も濃かった。そして読めば読むほど「随筆」のことが分からなくなっていく感覚。そこはもうなんか、考えすぎない方が良い気もしてきた。俺たちは雰囲気で随筆をやったっていいのかもしれない。


帰りの電車では児島青『本なら売るほど3』(KADOKAWA)を読む。なんかだんだん十月堂のイケメン度が増しているような…。扉絵も完全にメロい系。
新たなキャラクターで大家さん夫妻が出てくるが、この人たちもまためっちゃ良い。優しい世界すぎる。それにしても、元営業で愛嬌があってマニアックな本にも詳しくて若い古本屋って最強だよなあ。

神保町マップのイラストに使われたり、日本の古本屋コラムに執筆したり、児島さんはまさに今古書業界の広報の星的な存在になっていっているのかもしれない。


4/17

昨日より少しひんやりな朝。眠い。
『本の雑誌2026年3月号』を読む。特集は異世界転生。初っ端からKADOKAWAのコンテンツ部門の元専務という適任すぎる方が書かれている。
西洋型古典ファンタジーと転生ものが異なるのは「赴いた先の異世界で成長し、現実世界に帰還することを、主人公が望んでいるか否か」(P12)という部分が大きいらしい。確かに、帰らないんだと思ったことはあるなぁ。あとは下地となるRPGゲームの文脈が共有されているということ。こちらに関してはRPGを通ってこなかった人間なので、むしろ異世界アニメでその文脈を学んでいるところがある。
昨今の傾向としては女性読者が増えたり電書はじめ刊行形態の多様化でスローライフ系の支持が拡大しているという。個人的にはネタが尽きないのかが気になるところだが。。

「異世界書店員対談」は異世界系の元祖・高千穂遙『異世界の勇士』の話から始まり棚づくりの困難まで。なろう系という括りになっているのはそういう理由が…。
ライトノベルとか新文芸は昔の時代小説的なポジションにあるのではという指摘になるほどなぁ〜と思った。
あと、コミックはもう電子書籍の割合が大きくなっちゃってる一方で、なろう系小説は紙の方が売れるというのが面白い。なぜならもともとWEBで読めるから。確かにそりゃそうだわ。だからシェアが削られるんじゃなくてむしろWEB+紙で増えていると。推し活需要があるのだって。まあ自分も追ってるウェブ連載とかが紙になったら普通に買うか。
出版社がもう作家をゼロから育てる体力がないというのも大きいだろう。すでに出来上がってる才能を掘り起こせば良いのだから。

読者アンケートの行ってみたい異世界が絶妙に年齢層高めなのもご愛嬌。

特集全体から分かったのは…
・転生と転移は違う
・現実に疲れてて、フィクションに癒しを求めがち(スローライフ系)
・異世界系の中でもジャンルがめちゃくちゃ多様である
・本当はリアルif戦記ものが描きたいが今の時代それでは売れないので、あえて異世界をかます…とかもあるらしい
・新文芸は大人も読めるラノベみたいな受け皿として提唱されたジャンル
・そもそもネットで読める小説なので、電子書籍より紙の本が売れる(推し活として)


4/18

ウィー中「日本で見つけた世界のお宝」では、アルゼンチンタンゴを教えるダンサーの女性が取り上げられており、そういえばダンス音楽だったなというのを思い出した。考えてみればふだん何となく聴いてる音楽の半分ぐらいはダンス音楽なのかもしれない。身体性のことをもうすこし意識しなければ。
ちなみにそのダンサーの方はアルゼンチン出身だからタンゴ踊れるんですか? と何度も聞かれて、日本に来てから習得してプロにまでなったとか。日本人がアメリカ行って「スシ作れるんだよね?」って言われて職人になるような感じかもしれない。すごい。


土門蘭『ほんとうのことを書く練習』(ダイヤモンド社)を読み始める。前になんか違うかもな〜と思ったことを書いたけれど、やはり読めるなら読んで判断すべきだと。

自分は何を感じているのか、何を考えているのか。/何を問うていて、何を知りたくて、何に惹かれているのか[…]/つまり、世界に触れている自分自信を感じること。そこで得た言葉こそが「ほんとうのこと」だ。
(土門蘭『ほんとうのことを書く練習』ダイヤモンド社,P10)

個人的にはこの感覚は違和感が起点になるのではないかと思う。つまり「これはほんとうのことだ」というより、「これはほんとうのことではないのではないか?」と。「本質」とか言っちゃうと急に胡散臭くなるが、なんとなくそういう。
ただ、他人がそういう指摘をしてきた場合は十中八九悪質なので、やはり「私」にとってという部分が一番大事なのだと思う。

「ほんとうのことを書く」とは、「私を知っていく」ことだ。
(同前)

序章『私たちはなぜ「ほんとうのこと」が書けないのか』では、とある新聞記者による「個性は消して、消して、消しなさい」(P27)という言葉が紹介されている。個性を出そうとしたり、他者の目線を気にしすぎた文章は「化粧くさい」文章だ、と土門さんも書かれていて、これは非常に耳の痛い指摘。
こういう話はついつい禅を引っ張り出したくなってしまうが、他者を気にし過ぎることもまた我執であるという…。

そしてそんな我執を引き出してしまうのが、自己愛である。

自分に愛されていないから、代わりに誰かに愛されたい。そんな自意識に包まれている。
(P50)

あーーー。結局もう、そこなんだよなぁ。怖さを克服して自分と向き合うことができないと、囚われてしまう。
自分が感じている「ほんとうでない」という感覚(物欲とか、コミュニケーションの癖とか、その他諸々)の根底は自傷的な自己愛だ。



4/19

てっぺんまでがっつり寝る。

知人たちの「どこどこ行った〜」報告を見、気力も金も無くひたすら動けないでいる自分のことを考えるとめちゃくちゃしんどくなってきたので、いつもの意識を飛ばすための儀式をやる。アニメ一気見。

『本の雑誌』の異世界特集を読んでそのうち観なきゃな〜と思っていた『本好きの下剋上』を夕方くらいからみはじめて、2期の途中ぐらいまで行った。20話ぐらいだからだいたい十時間。そりゃあ深夜2時前とかになってしまうわけで、またアホな睡眠不足。

作品について。割と王道な異世界もので、羊皮紙が貴重すぎて庶民社会に全く本が存在しないというところから、パピルス粘土板木簡と文明の流れを追いながら紙を作ってゆく展開。魔術の存在するファンタジー世界ではあるものの、貴族だけが扱える能力なので、平民に転生した主人公には序盤はほぼ無関係。
そんななか非常に異世界転生ものらしいのは前世の記憶で成り上がり展開。「ハワイでオヤジ」レベルの豊富な知識で前世のアイテムを作り、まずは商人として成功してゆく。司書は…?

「本づくり」について一期はほぼチュートリアルみたいなもので、二期からようやく本番みたいな感じだった。ついでに教会内政治の泥沼にも巻き込まれてゆき、ややシリアス度も増す。全体的には軽いノリも多いので観ていてそこまで疲れないのは良い。
絵柄にちょっとクセがある気はするものの、観ていたら慣れてきた。