
4/20
朝のニュースのアナが「久しぶりに早起きしました」と言っており、7時代のニュースアナウンサーの早起きって何時よ……と思った。4時とか?
月曜日はやっぱり混むっぽい電車。『ほんとうのことを書く練習』の続きを読む。
「誰にも読ませない文章」としての日記の必要性。自分もこの2年ぐらい、こうしてスマホのメモに書いたものをブログに貼り付けたり冊子にしたりということばかり気を取られてしまい、それまで付けていた「何でもノート」をさっぱり書かなくなってしまった。
ここに書くことが読まれることをそれほど意識しておらずとも、やはり絶対に自分しか読まない何かを書くことも必要なのではないかと読んでいて思う。内容がどうというより、自意識に邪魔されずに書くために。読まれる(かもしれない)からという方にモチベーションの比重が偏ってしまうと、プライベートなものを維持するのが大変難しくなる。SNSのせいで退屈に耐えられなくなるのと似たようなもんだと思う。
自分だけは、何を言っても否定しない、拒まない、受け止めてくれるんだと実感すること。つまり、自分を受容すること、愛すること。
(土門蘭『ほんとうのことを書く練習』 ダイヤモンド社/P120)
自分がよくやりがちなパターンとして「何でも自虐で終わらせてしまう」のがあるけれど、それもまあ自意識臭い文章だわなと思う。
第三章は本書の核心部であり、ほんとうのことを書くために必要な「生きる」ことと「考える」こと、という二つの柱が紹介される。
「生きる」とは他者(自己の外部)との関わりであり、「考える」とは自己との対話である。さらっと読むと「経験が大切」「引きこもっていては文章は書けない」みたいな話に思えてしまうが、おそらくここで言われていることはもう少し奥行きがあって、「他者」をきちんと「他者」として受け止めることができるか、みたいなことが問われている気がする。
そう思ってしまうのは、出不精だし無気力で一日を惰眠とアニメとたまに積読解消で潰してしまう自分を嫌になっちゃいつつも、経験に貴賎なしとも思いたいからである。そりゃ海外とかじゃんじゃん行ってさ、人脈広げてチャレンジして起業して投資して…みたいな経験があったら、それはそれですごいと思うよ。でも無理じゃん。文化格差があるじゃん。というかそこが理想像みたいになってしまうのは資本主義の奴隷じゃん。
まあそんな極端な話にせずとも、寝たり本を読んだりしてるだけだってそこに「他者」を見出して何らかの回路を開くことができれば、「生きる」ことに繋げられるのではないか…と思うわけですよ。
だから「今日は一日中何もできず、寝てるだけだった」止まりじゃなくて、そこからさらに問いを重ねて展開させてゆくことが必要なんだなぁ。
……ということはすでに第二章に書かれていて(“自分に興味を持ち続け、問い続け、答え続けること。その一連の活動が「書く」ことだ。”(P99))、読むことと理解し納得することの間にある大きな壁をあらためて体感するのであった。
4/21
一日中運転していた日。疲れた。
ツツジがもりもり咲いていて、こんな早かっただろうかと思う。多いのはピンクの花だけれど、最近は赤や白もよく見かけるようになってきた気がする。品種が多様化した…?
4/22
今日こそメガネを、メガネのフレームを調整してもらいに行くんだ…! と思っていたが起きられず、『違国日記』を全話観るなどしてしまった。めちゃくちゃ良い。モヤモヤをうまく放出できない朝のフラストレーション。槙生の誠実さゆえに慎重に選ばれた言葉で話す優しさ。あの空気感が本当に素晴らしい。こんな大人たちに囲まれていたかったよ。。
それなのに見終えた後、妙な疲れというか絶望感を覚えてしまったのは、2時前までぶっ続けで観てしまったからだろうか。
4/23
土門さんの最後ちょっとを読む。
先に出てきた「生きる」と「考える」のバランスについて第4章では、
前者だけでは社交になり、後者だけでは内省になる
(P185)
とも書かれており、自分は後者に偏りがちなんだな〜と思う。養老孟司さんの「情報化」の話を読んでも思うのは、「生きる」(≒「情報化」≒外部のものごとを自分なりに表現する)ためのレッスンとして乗代さんの写生文トレーニングはやはり有効なのではないか、と。
ぶっちゃけ情景や他人が丁寧に描写されたほうが文章は面白く、どれだけ自分の思考や内省を開陳しても、その回路が違う人には響かない。周りをちゃんと書くことが読み手への配慮にもなるということだ。
というわけで、帰りの電車で目の前に立っている人について書く。小さなボディバッグを斜め掛けした若い男性。ネイビーの傘はアウターのポッケに引っ掛けている。どこにでもいる学生のようであるが、スマホを持つ右手の肘に明らかにスーパーの買い物袋を引っ掛けている。なぜスーパーと分かるかと言えば、めちゃくちゃ青ネギが飛び出ているからだ。惣菜かお肉かのパックの形も透けて見える。仕事か学校終わり…というには荷物が少なすぎるので、ちょっとしたお出かけ帰りだろうか。しかしそれにしても、スーパーでがっつり野菜とか買って電車に乗るシチュエーションってなかなか珍しい。都会の環状線とか各駅停車の一駅間とかならまだしも、駅間20分の田舎の急行でこのスタイルはレアである。冬に見かけたら今夜はお鍋にしたくなること間違いなし……。
そんなホームズもどきみたいなことをしてみるがすぐ飽きたので、『ユリイカ 2026年四月号』(青土社)を読む。特集「眠い」。この歌詞、(略)
うつつ寝さんの漫画「ノーカウント」が自分すぎる。「あと30分」は2時間コース。
「村上春樹3年ぶり新作小説」という見出しのニュースを見たが、これを見て3年何も出してなかったと思っちゃう人もいるんじゃなかろうか。文芸誌を追い始めたことで、作家が本出してない時期も普通に連載をしていることにより意識的になった。漫画だと当たり前だが、小説は意外と気付かれてないこともあるんじゃないか。
4/24
40分間全く座れないレベルに混んでいた電車に乗り、壁際に立ちながら『ユリイカ』を読む。今日も眠い。
安達茉莉子「忘却の川の底でおやすみ」。いつもより睡眠を多めに取る「ハッピーホリデー」を始めたという。それでもゴミ捨ての八時半までには起きるというのはさすが生活改善運動の方。
ワクサカソウヘイ「永久不滅の二度寝」は二度寝という最高のエンターテイメントの話かと思ったらだんだん仏教哲学みたいな話になっていって唸る。
睡眠が死とニアリーイコールだという前提から考えると、睡眠は怖いものではないのだから、死も本当は怖いものではない、という答えが導き出される
(P67)
睡眠と死の関係は自分も考えたことあるなあ。眠ってそのまま死ねたらいちばん最高なんだと思う。
金谷啓介「眠気はどこからやってくるか」。こうしてちゃんと専門家も呼んでくるところがユリイカの素晴らしさ。ヒドラの研究から脳を持たない生物も睡眠すると分かったことや、睡眠と遺伝の関係などが簡潔に紹介されている。ショートスリーパーは専門的には「家族性自然短眠」なのか。
難波優輝「眠りと眠気」。難波さん、引っ張りだこすぎる。どんな球が来ても打ち返してくれそうだから?
睡眠と社会を考えるとっかかりは「時間」なので、『締め切り』とリンクする内容でもある。世の中が多数派に向けてデザインされており、ゴミ出し期限や日中の選挙カーなどによって夜型人間にとっての「睡眠多元性」が奪われている…というような。
もし眠らなくて済む薬があるならば飲むだろうか? という問いが出てくるが、自分は飲みたくないなぁ。睡眠それ自体が快楽だし、「寝て意識を飛ばして現実逃避」という選択が取れなくなるのはかなりしんどい。
眠さを受け入れない社会の問題点は、脆弱性の価値を認める契機の減少と、眠さを「関心のないことの表明」だと受け止める価値観だという。
しかし、眠さのもつ「退却的-気分」としての側面は、昨今の過剰関心社会において有用なのではないか…というのが難波さんの主張。ハイデガーを踏まえた言い回しには慣れないが、先ほど自分が言いたかったことと似ている気もする。退却としての睡眠。
久野愛「眠気の社会性」は冒頭で眠気について語る難しさが書かれており、そうかテーマは寝ることじゃなくて「眠い」だもんな、といまさら思った。だから眠りに落ちる感覚が好きみたいなこと書いてる人も多いのか。
チェーホフの短編「ねむい」を手がかりに近代における眠気の「文化的・歴史的構築性」を紐解くという試みは、先ほどの難波さんともリンクするテーマだ。眠気を考えることは近代社会が前提とする「覚醒・集中・自己統制といった価値観」を相対化する。
個人的には哲学者・伊藤潤一郎の論が気になる。思考を覚醒の純粋な産物ではなく「眠りとのリズミカルな交替運動」のなかで成立するものだとしている。解釈が合っているのかわからないが、完璧な覚醒とはなんぞやみたいなこと? ちょっとニューロダイバーシティみたいなことも連想する。
最後は現代社会において管理される睡眠の話。暇倫の「余暇」の話と同じで、生産性を高めるために睡眠の質を求める社会。それでも眠気自体の、主体の統制を揺るがす力にかすかな希望も感じられる結び。
近森高明「スリープテックとライフハックのゆくえ」。なんかしりとりみたいに繋がっていくなぁ。
睡眠の量より質が問われるようになった現代。睡眠が数量化・可視化され、自己から切り離されることで、ゲーム性も帯びつつあるという。確かにライフハックってゲームだよな。
一方、そんなマネジメント志向の睡眠からすると排除されるべきである眠気であるが、すでに半覚醒の創造性をクリエイティブ資源に変換しようとする試みはあるという。微睡状態の人を音声装置と会話させるんだとか。それをやられたら寝かせてくれよ!!と思っちゃいそう。鉄球持つやつとかもやりたくないもんなぁ。
4/25
定期がパスケースごと無くなっているのに気付いたのが昨日。再発行は申し込んだ翌日に可能なので、二日分の往復交通費を余分に払うことに…。再発行にもお金がかかるし。それでもバイトに行った方がトータルではプラスになるのでしょうがなく行く。
小池陽慈『スマホ片手に文学入門』(笠間書院)を読み始める。前に『英米文学の分からない言葉』を読んだけれど、これって海外文学に限らないよなぁと思ったため。
まずは芥川の短編「ピアノ」が全文掲載され、それを一文一文チェックしてゆく流れ。「藜」とか普通に読んでたら絶対調べないだろうな〜。
冒頭、震災の影響が残る山手で、秋雨に打たれる廃墟の描写。ここでかなり「暗」のイメージを描いた後で、「雨は幸ひにも上がってゐた。おまけに月も風立つた空に時々光を洩らしてゐた」の一文が来る。これは暗から明への転換と言えるのだが、しかし「月」には(竹取物語など古典に見られるように)不穏なイメージもある。ゆえに読み手は完全には安心しきれずに読み進めることになる……
というような、読み手が受け取る細かい印象について非常に細かく検討している。自分一人だったらこういう読み方は絶対にできないなと思う。
「桜の樹の下には」についても「あ〜、なんか生と死みたいな感じね」ぐらいの理解だったが、「水晶のような液」という表現がその醜と美との間の媒介者である、というような読みをされていて、なるほどねぇと思った。普通に読んだらただの露悪趣味にしか思えない汗が精液だのなんだの比喩も、生殖=花の美と気持ち悪さ両方を併せ持つ媒介的な性質を持つと読めるのではないか、と。こういう視点で読めると楽しめるタイプの作品だったんだな。
よくわからない——けれども、何かしら魅力を感じてしまうような文章に出会った際には、まず、文章中から読み取れる〈対比〉の関係を探し出してみる。
(小池陽慈『スマホ片手に文学入門』笠間書院/P160)
多分読みながら同時に考えるのは無理なので、やはり再読が大切なのだろう。
「やまなし」の章では最初に「幻燈」について、今でこそノスタルジックなイメージをしてしまうが、当時的にはまあまあ普通の教育的な装置だったはず(よって「やまなし」自体が何らかの教育的意図を持つのでは)という指摘があり、言われてみれば…と思った。時代性を踏まえて読むことがいかに難しいか。。
そして、この冒頭と最後の2文については更に深読みが試みられている。はじめの「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈です。」という文には主語がない一方で、最後の一文では「私の幻燈はこれでおしまいであります。」と、主語が「私」であることが明示されている。物語全体を〈認識の深化〉というコードで読み解くと、冒頭の一文ではまず「幻燈」を見せられる子どもたちを物語世界へと包摂した上で、最終的には「でもこれはあくまで私の幻燈ですよ」と世界から切断するのである。
……ついつい「宮沢賢治、そこまで考えてるの…?」と思ってしまう。の、だが、小池さんはその考え方は危ういと警鐘を鳴らす。
作者というのは、ただでさえ、読者に対して特権的な立ち位置にいるのです。そこに、作者還元主義的な読みの制度が絶対化されてしまったなら、〈上—作者/下—読者〉という権威主義的な位階が固定されてしまうことになります。
(P266-67)
これはロラン・バルトのテクスト論を踏まえた見解らしい。その辺の小難しいことはよく分からないけれど、作者が絶対視されてしまうのは「著者の気持ちを考えよ」とか言いがちな国語教育が悪いんじゃないかな〜と思う。
ちょっとでも突飛な読みを試みると「脚本の人そこまで考えてないと思うよ」みたいなミームが飛んでくるSNS社会、多様で開かれた解釈の大切さを痛感する。
4/26
9時に起きると貴重な晴れ間がのぞいていたので、速攻で布団を干し、シーツを洗い、掃除機をかけた。お掃除は2週間ぶり、選択は下手したら1ヶ月以上ぶり……。起きられない日々が続くとどんどん生活が荒れていく。
午後は夜の読書会に向けて紹介本をどどどーっと読んでゆく。なんかもう読みたくて読むというより紹介するために読む、みたいになっちゃってるのは我ながらどうなのかと思うが。もっと日頃から雑に本の話をできる環境がないとダメなのだろうか。
紹介についても、いつも通り話すだけじゃ聞いてもらえない(ような感覚がある)ので、頑張ってプレゼンを作った。目立ちたいのか、目立ちたくないのか。
結果的に印象は残すことができたような気がするものの、肝心の内容が伝わったかどうかはやっぱり不安がある。やっぱり手段じゃなくて話し方が全てなのではないか。。。(紹介がうまい人が話している際のあの空気感。聞き取りやすい声、情報の出し方、タイミング、身振り……)
伝わらないことへの不安とそこから繰り出される空回りを本当になんとかしたい。
知人がFujifilmのカメラを買われており、いいな〜〜と思う。レンズは「フォクトレンダー」ということだったが、機材にマジで興味がない自分は全然知らず、大した反応を返せなかった。写真好き=カメラ好きみたいな風潮はちょっと困る。どうせ買えないのであえて情報を取り込んでいない部分もあるのだが…。
最近身近なところで写真への興味を深めている人を見ると、謎のモヤモヤを感じてしまったりする。それってつまり自分が一時期写真と深く関わっていたアイデンティティーが壊れつつあることの怖さだと思うんだけれど、この感情も本当に捨て去りたい。情緒に毒。


