
4/27
月曜日の電車、いつも通り混んでる。
借りていた岩野卓司『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)を読み始めた。モースやレヴィ=ストロースの議論を詳細に解説していた『返さない借り』に比べて、理論より日常的な例を中心に書かれていて易しい感じ。こちらを先に読むべきだったか。
朝貢貿易も贈与を利用したシステム(皇帝側はさらに返さなければならないから)だと書かれていて、なるほどな〜と思った。というか歴史を知らなすぎてそんなに儲けてたの知らなかった。ただ献上するばかりだと。
しかし、疲れが残っているのか文章の内容が全く頭に入ってこず、ページをめくる手が進まない。最近、かなり読めない時期にきている。やばい。気づいたら目線だけが滑っていて、3行前に何が書かれていたのか全く覚えていない状態。ワーキングメモリ、死んでる…? いや、そもそも内容を認識できていないことにすら気づけていないのだ。やばすぎる。
4/28
高低差のある夢を見た。
意識が混濁しており、完全に休みだと思っていたので絶望した。体が休みモードになってしまっており、眠気が全く抜けない。
『贈与をめぐる冒険』の続きを読む。行きすぎた資本主義が社会にもたらした諸所の問題と、それを食い止めるために活用できる贈与のあり方について。
社会保障制度についての文のなかで「天才的な頭脳の持ち主もいれば、知能の遅れた人もいる」(P96)などと書かれているが、その表現は今どうなのか。特にこの版元でこのまま通っちゃうのはダメでは? あと特になんの注釈もなしに「未開社会」って使うのも。
4/29
休みだが祝日で、人も多そうなので出かけるのも億劫。寝る。
しかし図書館にも行かねばならないので、昨日の続きから読み終える。本家の仏教は心の宿るものとそれ以外を厳密に分けるが、日本では石や草木にも物性が宿ると変質していった(草木国土悉皆成仏)という話は興味深い。
4/30
雨。車で駅まで行く。珍しく安い方の駐車場(350円)が空いていたので停める。
電車はまあまあの人。
水野太貴『会話の0.2秒を言語学する』(新潮社)を読み始める。ゆる言語学ラジオはそこまで見てないけど。。
まえがきに出てくる、エプロンとかニックネームとかが冠詞「an」の誤解から生まれた単語という話が興味深い。
第一章は文脈や解釈について研究する(?)「語用論」の話。なぜ我々は皮肉など、文面そのもの以上の意味を受け取ることができるのか。ポイントとなるのがグライスの「協調の原理」で、会話における四つの公理に反した発話がなされることが解釈を促すみたいなことらしい。
これって逆になぜネット空間では人は三行以上読めないのか、みたいなこととも関係する? と思ったところで出てくるのが「関連性理論」。人は処理労力の小さいほうの解釈をしたくなるみたいな話で、端的に言うと脳は楽する…ってことになるのかな。
第二章は文法(統語論)。生成文法の樹形図などはTwitterでたまに見るなぁ。
第三章の意味論はかなり言語哲学っぽく難しい。
第四章はジェスチャーやフィラーの役割。自分は全くジェスチャーをしないのだが、しないことにより何らかのデバフが掛かっていたりする可能性もあるのだろうか?
逆にフィラーはめちゃくちゃ多く、なんなら文章にもちょっと反映されているような気がする。
最終的に「0.2秒で当たり前に会話できるほうがおかしいのでは?」「普通のコミュニケーションってそもそも何」という話になっていくのは人文的だった。自分も読書会などで(読書会ぐらいしかまともに人と話すタイミングがない)、「うまく紹介する人」を見ているとものすごく憧れてしまうのだけれど、それもある種の能力主義かもしれない…?
寝る前に『飛ぶ教室 2026年春』(光村図書)を手に取る。今号は「変身」特集ということで、個人的にはざわざわするテーマである。ずっと自分以外になりたいって思ってるからね。
上村裕香「ひみつの空白」。中学生の颯太は重度のスマホ中毒。視力がガクッと落ちたり、部活中にも集中力が途切れてしまったりしたことで両親からはスマホ断ちを言い渡されるが、ほんの一瞬スマホを取られただけで息がつかえてしまう。現代的だ…。
そんな颯太を見かねた父は、「大自然で哲学者と楽しむデジタルデトックスツアー」に颯太を誘う。
身体性を取り戻すみたいな話かなと思いつつ読むと「ネガティヴ・ケイパビリティ」などの語句も出てきて、啓蒙的だなぁと思う。いや児童文学だからこれぐらいで良いのだろうか。まあ、スマホ中毒の子どもは読まないだろうから、保護者や教育者向けということになるだろうが。
変身というより変心かも?
5/2
今年は文フリやKYOTO GRAPHIEに行く気力がないため、そのぶん「祭り」に散財。朝からさっそく県外のブックオフへ向かい、二軒回って5千円ほど買う。この先出版も物価もどうなるか分からんし、買えるうちに買っとけ!という言論に唆されてしまった。
しかし正直、品揃えは微妙…。やはりみんなメルカリで売るようになってしまったからか。。
午後までになんとか戻ってきて、唐組「鉛の兵隊」の整理券を引き換え。実物の紅テントは意外とコンパクトで、ここに舞台と観客が収まるのか…と不思議に思う。
物販で『藤十郎戯曲集』(筑摩書房)と劇団が出してる『鉛の兵隊』の文庫を買う。あとは夜を待つのみ。この感じだとまあまあ暑そうなので、水は必須かも。虫除けもしといた方がいいか。
一度帰宅し、車のタイヤを夏用に換装。スタッドレスのままだとめちゃくちゃ乗り心地が悪く(空気圧のせいかもだけど)、人を乗せる予定なのでマシにしておきたかった。ついでに給油と洗車と車内掃除も済ませる。
買い物などもしていたらあっという間に開演時間。慌てて受付に向かうと、もう待機列整理が始まっていた。なんとなくふんわりとした入場かと思っていたら、ちゃんと番号順に並ばされてずらっと入っていくスタイル。テントの入り口は狭いし、中でごちゃごちゃしないためだろう。しかし演目とも相まって、まるで軍隊の隊列のようだな……などと思っていると急に緊急地震速報が鳴り響いてびっくりした。100人程度の人が集まっていてスマホのアラームが一斉に鳴ったのでそりゃあ大変。驚きで揺れが全く分からなかったが、感じられた人もいたみたい。「テントの中で地震が来たら大変だよね……」という声も。ちょっと不安になる。
幸い地震の影響はなく、舞台は無事定刻通りに始まった。自分が座ったのは前から2列目の左端。角なので舞台の左奥が死角になって見えないものの、若干前に足を伸ばせるスペースがあって助かった。
作品はまさにそんな左端に設けられた崖の上で「七々雄」と「冴」の姉弟が幽霊の兵隊を見る場面、を夢に見る二風谷の場面から始まる。もう冒頭から熱がすごく、照明に照らされた役者さんの汗が飛び散るのがはっきりと目に見える。
舞台は二部構成。第一部は主にスタント事務所〈ドタンバ〉で展開されるのだが、ここでいう「スタント」はドラマのアクションシーンを代行するアレではなく、どうやら他人の人生そのものを代行する生業らしい。事務所に所属する「おひめ」は占い師のスタントを務め、そして二風谷はとある事故で指紋を失った七々雄のスタントを務めようとするのだ。
この辺でなんとなくふんわりとアイデンティティをめぐる物語なのかな〜というのは感じられてくるのだが、その後もどんどんカオスな場面が積み重ねられてゆき(その際たるものが、謎の男・新巻ジャケが塩の中から登場するシーンだろう)、また独特な台詞回しに翻弄されて解釈可能性はどんどんと遠のいてゆく。。初見じゃ無理だ。これこそまさに「スマホ片手に」調べつつ解釈を飛躍させていかなければならない作品だろう。
作中で明確に言及されているのが中勘助の「銀の匙」とアンデルセンの「しっかり者のスズの兵隊」。知っていればもう少し理解度は高まっただろうか。
この戯曲の初演は2005年ということで、時制的にはイラク戦争真っ只中。そして主要人物の七々雄は自衛隊員。時代背景はものすごく重要だろう。そしてこの作品が今再演されるということの意味も。
ところで鉛といえば我々が真っ先に想像するのは鉛の飛行船こと「レッド・ツェッペリン」だが、日本人的には“led”も“red”も同じに聞こえるわけで、つまりそこに唐組のイメージカラー「紅」を連想することも不可能ではないのではないだろうか。なんて言ったら英語圏の人に怒られちゃうだけど。
5/3
知人とともにブックオフ巡りツアーへ。昨日既にだいぶやっちゃってるので控えめに行こうと思っていたが、まあお察しの通り。
今回は滋賀の店舗を3店と京都を1店。西大津店はGoogleレビューに「二万冊引き取ってもらった」みたいなことが書かれており期待値も高かったが、他の店舗に比べて確かに圧倒的に良かった。入った瞬間に本の多さが分かる。学術系とか人文も多くて、文化度の高さが滲み出ている。
滋賀は割とブックオフ密度が高いので、それぞれの棲み分けみたいなのがちゃんとなされているのかもしれない。羨ましい。移住したい。
京都をまともに車で走るのが初めてだったので緊張した。運転してる真横に南禅寺とかインクラインとかが見えるの、すごい違和感。いつもだいたい徒歩だから。


