
睡眠が悪化しまくった週。
5/25
駅前の紫陽花が今年も色づいてきた。まだ淡いクリームが大半で赤子の握りこぶし大だけれど、先端が仄かに紅色で可愛い。
いつも通り改札を抜けようとしたら定期が期限切れでピンポン!と引っかかってしまった。そういえば一昨日までで、今日更新するつもりだった。わざわざ休みの昨日の分までお金払うのは馬鹿らしいからね。継続購入の開始日も選べたら良いのに。
蟹の親子『日記をつけて何になる?』(柏書房)を読み始める。
Xにて、ラノベを読書の入り口として純文学にたどり着くことはあり得るのか? みたいな話が流れてきた。全然あると思う。自分だって児童文学のあとはラノベ……というか『涼宮ハルヒ』シリーズを読んでたし。最新2巻ぐらい積んでるけど。。
自分の場合、純文とか文芸誌を読むようになったのは確実に周りの人の影響だ。だから身近な人がどんな本を読んでいるのかが大きいんじゃないかなと思う。
そういうことが書いてありそうな『読書スタディーズ』という本が明石書店からもうすぐ出るので気になっている。
5/26
昨夜も全然眠れた気がしない。身体が凝り固まってしまっている気がする。脱力できないから眠れないのだろうか。
電車が意味不明な混雑。新型車両は座席数少ないので余計に。
『百年文庫23 鍵』を読み始める。初っ端からH.Gウェルズ「塀についたドア」で、つまりこないだ『花ざかりの方程式』に組み込まれていた「The Door in the Wall」そのものである。そんなタイミングよく⁉︎
時系列がややこしいのだけれど、ウォーレスから話を聞いたのが三ヶ月前で、それを疑ったのが翌朝、そして語り手(レドモンド)がこれを話しているのが現在ということか。
改めて読むと桃源郷とか芥川の河童っぽい。
夕方、西から天頂にかけてぶわっとうろこ雲に覆われていた。明日は雨。
一度帰宅してからユニクロ感謝祭へ。秋冬春と夏で数着をずっと着まわしているので、年に2回しか服を買わない人間。生活に関心がなさすぎる。それでも以前よりは買うようになったのだが。
エリオット・アーウィットのシャツが売っていてちょっと迷ったが、ちょっと主張が強すぎるなと思ってやめた。岩波文庫シャツぐらい控えめなのが良い。
競馬の影響で伊坂幸太郎の『重力ピエロ』が売れてるらしい。なんかもう本を売るのがそういう一瞬のバズに賭けるしかなくなってきてるのが、なんともなぁ。
5/27
小説を読んでいるという認識があるのに、なぜか選択を自在にできるというような夢を見た。
榊莫山展を観に行った。
『書百話』の図版は全てモノクロだったので、実際に見ると色彩豊かな作品も多くて良かった。「夕」と「夢」へのこだわりがぼんやりと感じられた。
美術館を出ると本降りの雨が降っていて、濡れながら車まで戻る。こういう微妙に振りそうだなぁというとき、傘を持たないがち。
5/28
エンドレスエイトと新海誠とAirを足して3で割ったようなWEB小説を読んでいたら3時ぐらいになってしまい、そこからかろうじて2時間ほど寝たものの当然寝不足に。朝はとてもじゃないが本は読めず。
帰りの電車で『百年文庫』は読了。シュニッツラー「わかれ」は愛人がぱったり訪ねて来なくなり不安に駆られる男の話。男はやがて女の家の前まで出掛けるようになり…と時代が時代ならストーカーである。
女側が男を切るために仮病してるのかな〜と思ったら本当に重病で最終的に死んでしまうのは驚いた。しかもそんなどさくさに紛れて家に侵入した挙句、彼女は本当は今際の際に自分に会いたかったのだ…とか想像する男。今の価値観で読むとまあ、キモい。
ホーフマンスタールの「第六七二夜の物語」も気持ち悪さ漂う物語。タイトル的に千一夜を意識してるのかなと思ったけど、異国趣味的な内容ではなかった。
親を亡くし、悠々自適に孤独な暮らしを楽しむ商人の息子。召使たちには暇を出し、最低限の四人だけ身元に残して暮らしていたが、次第に彼らからの「視線」に耐えられなくなってゆき…。「感覚世界に没入してゆく」というより、自他境界が溶けてしまっていて、他人の存在が内側に入ってきてしまっている感じ。病んでる。
温室に閉じ込められたり、屋根から屋根の間の細い板を綱渡りさせられたりと、緊張を高める場面が次々と出てくるのがまたいやらしい。
これ、一番かわいそうなのは召使たちだと思う。
「鍵」ということでミステリーかなと思っていたら幻想文学だった。どれも絶妙に不穏。「ウィーン派」に気持ち悪くない作品はあるのだろうか……
ここ一年ほど、メンタル不安定や運動不足とともに依存傾向が高まっていて辛い。特定少数の人に対して依存感情が大きくなると、そこで承認を得ることが全ての行動規範になると共に、見捨てられ不安も高まってしまう。
自分が節目節目で人間関係をリセットしてきてしまったのは、これのせいだった。自他境界が不安定な患者が見捨てられ不安ゆえに勝手に通院をやめてしまうみたいなことと同じパターンではないか。
ともかく、この依存と見捨てられ不安というのはなかなか傲慢だと思っている。相手に理想を押し付けたり、占有したいというドロドロした感情だからだ。依存関係とは搾取だと思う。
ただそう頭では分かっていながらも、簡単に手放せないのが愛着問題の難しさでもある。「認められるため」の行動をやめるならば、空っぽの自分と向き合わなければならない。アイデンティティクライシスである。三十年の積み重ねで形成された人格を解体して形成し直すのは絶対に大変だろう。
5/29
ポール・マッカートニーの新曲で、東方のテーマでよく聞く旋律が使われていた。一方でCorneliusがショーン・レノンとコラボしておりすごい。というかAppleMusicのニューリリースって自分好みにカスタマイズされてるのだろうか?
1:40ぐらい。
youtu.be
東方でよく聞くのはこれ
ダイヤモンド社から古賀及子さんのエッセイが出るらしい。こないだの土門蘭さんといい、エッセイ客層狙ってきてるなぁ〜。自己啓発だけじゃやってけない時代なのかもしれない。
『日記をつけて何になる?』の続きを読む。日記本を編むことについて、こんな効能が語られている。
何気ない昼食の記録、電車から見た風景、友人との他愛もない会話。それらが一冊、いや一つの作品として「私の過去」になることで、意味を帯び始めます。
(蟹の親子『日記をつけて何になる?』(柏書房) P80)
ある一日の出来事や、それにともなくわたしの「過去」が、書いた日、本にした日、誰かの手に渡った日や読んでもらった日という、まったく違う時間に、違う意味を巻き込みながら存在しつづける。その循環に身を委ねていると、明日も生きてみよう、というやる気が出てくる気がします。
(P104)
一度だけ日記を印刷してみたことがあるけれど、基本的には書き捨てなのでこういう感覚はまったく持っていないなぁと思う。自分はどちらかというと書かないと頭の中に不要物がどんどん溜まってしまうから書いてるタイプだ。書いたものを読み返すのは捨てたものをわざわざ拾いに行くみたいなことになるので、あまりやりたくない。書いたことすら忘れてるぐらい前のものなら客観的にみられるかもしれないけれど。
というか日付で分けて日記っぽくなってるけどそもそも日記じゃないかもしれない。リアルタイムセルフケア文章?
書き手との関係性や距離感を問わず、日記を読む時に私が心がけているのは、「書いてあること以外のことを受け取らない」という姿勢です。
(P118)
これはとても大事な話だと思った。自他境界ゆるい人間にとっては苦手なことだけれども、日記でもSNSでも健全にやっていくためには必要なスキルだ。
来月の一箱古本市が心もとなく思ってしまい、帰ってからまたブックオフへ。仕入れ用以外では太宰治全集の二巻と三巻を買った。これであと7冊。均一本だけで集めるとなるとどれだけかかるのか…、
寝る前に一週間ぶりぐらいのアコギを練習。ほんと数日サボっただけで指が柔らかくなって痛い。ベースも全然触ってないのでやり出したらこれまた痛いだろう。
しかし本当に自分は読書と音楽を両立できない。どちらかがメインになるともう片方はさっぱり。使う筋肉が違うみたいな。時間を決めてどちらもやるという自己啓発的な方法をやっていた時期もあったのだが、結局自分みたいなタイプは一度にどかっと集中→やらなくなる時期があり→またやるを繰り返しつつ少しずつ上達するみたいな方があってるし上達も早いのかもしれない。
5/30
なんか人が少なく、初めから座れる電車だった。昨日の帰りが混んでたので、金に出かけて土日遠出するみたいなパターンなのか。
蟹親さんの続き。日記における文学的価値と日常の価値について。かつては文学的に価値あるもののみが認められ出版されてきたが、最近はそうでもないという話。
一方で普通の人の日記にも深い洞察や美的な表現が現れることもあり、つまり日記とは日常と文学の価値が混じり合う「汽水域」なのだ、と。この表現はいいなと思った。
第八章ではアナログとデジタルで書くときのそれぞれの違いが言語化されていて興味深い。
「紙」の時は、一つの「点」からゆっくりと周辺の記憶が広がっていく感じがあります。けれどキーボードを打っている時は、一つ一つの「点」で立ち止まらない。次々と文字が画面に現れ、その文字を追いかけるように、また次の記憶が呼び起こされる。書いているというより、流れている記憶を言葉でつかまえようとしている、とでも言うのでしょうか
(P159-160)
最近手書きを全くしていないので具体的にイメージしにくいけれど、確かに書くスピードで出てくる言葉って違うよなと思う。
帰りの電車はここ最近では一番空いており、普段からこれぐらいだったらいいのにと思う。日記について読んだため、なんかいつも電車の混み具合ばかり書いてるなと改めて意識するけれど、座れる座れない以上に人混みのストレスが無理だから、書いて気持ちを落ち着けてるのがあるのかもなあと思った。
これは、「この人の時間に付き合ってみよう」という意思表示でもあります。効率や生産性とは無縁の、もっと根源的な時間の過ごし方。急ぐ必要もなく、何かを達成する必要もなく、ただその人の人生を「読んでいる」。
(P184)
他者の日記を読むこととはこういうことだ、という一節。「自分の時間を一度手放し、他者の時間に同伴する」(P199)とも書かれている。逆に言うと、効率や生産性にとらわれている時、ふつうの人の日記を読むことは難しいのかもしれない。
駅の改札を出るとむんっとした空気に包まれる。朝はややひんやりするぐらいだったので気温差が大きい。
この温度感と土曜の夕方のふわっとした感じは、花火大会が始まる前のあのそわそわを想起させる。体に染み込んだ記憶というか。
幼い頃の夏はまだこれぐらいの気温だっただろうか。今の7月8月はこんな感傷に浸れる余裕もないぐらいの暑さだもんなあ。
5/31
ここ最近の休みのパターンを省みるに、無理だろうなとは薄々思ってはいた。でも自分を信じて、今日こそ来週末のイベントで出す冊子の印刷をするべし! と一昨日の段階では決意していたのだが、ダメだったよ…。死にたい。
寝る、SNSマンガ見る、寝る、動画見る。
以上。


