別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

ブックマーケットの備忘録的

先日お隣の県で開催されていたブックイベントに参加した時のメモ

今回が初参加。というか県外出店が円頓寺以来2回目なので、無事辿り着けるか心配であった。
8時半から準備開始なので、6時ぐらいに家を出て高速で向かった。眠いので左車線をゆっくり行ったけど、8時ぐらいに着く感じになった。まだ開いてないのでちょい待ち。

そろそろ開いたかなというぐらいで駐車場に向かうのだが、いつもの方向音痴で交差点を曲がって右折すべきところを左折してしまい、坂道を途中まで登ったあたりで絶対違うよなと思って引き返す時間があった。
駐車場に着くともうすでに結構準備が始まっていて、もしかすると若干早めに開けてもらってたのかもしれない。

設営

まず荷物を置いてから車を移動させる必要があるのだが、出店場所の芝生がだいぶしっとりしていた。本は一応密閉コンテナに入れていたが、念のためにブルーシートを持ってきておいて正解。
出店位置の印がビニールテープなので、一度たわんでしまうと場所が分かりにくくなるのがちょっと困った。随所にもう少し錘があれば良かったかも。(おそらくテープがずれたせいでお隣さんがこちらにはみ出していて、結果的にもう片隣りさんの方とギリギリになってしまった)

車から荷を運ぶ途中、台車が左にばかり曲がるようになってしまい壊れたかと思ったら、ネジが2本抜けていた。やっぱこういうことになるよなあ、組み立てだと。そのための予備ネジ2本なのか。


設営は前日にイメトレしてたので割とスムーズにできた。


様子

会場は思ったよりコンパクトにまとまっていたが、人はすんごい多かった。博物館のお客さんとかも来てくれていた。


チルしてる人たちがなんか良かった。


なんかけん玉パフォーマンスとか体験とかもやってて、お子様に人気だった。自分も学童で死ぬほどやらされた人間なので、久々にやりたくなった。


晴れて良かった。

なんで津の本が? と突っ込んでくれた博物館の方が津出身で話が弾んだ。ローカル本を置いておくとこういう面白いことがあるので、みんなもっとローカル本売るべき。


販売の実情

今回たぶん200冊ぐらい持って行った。最近では一箱古本市でも本より雑貨とかZINEが多いパターンもあって、それはそれでいいんだけど、もし自分が本目当てのお客さんだったら物足りなく感じるかもなぁ……と考えての冊数。
結果的には60冊ぐらい売れて、搬出がちょっと楽になった。

売上については実のところ、交通費+出店料でほぼ相殺。でも相殺してもらえるだけありがたい。
もちろん「生業」としてやってたら完全にダメなんだけど、そもそも本で利益を出そうと思ったら「めちゃくちゃ安く仕入れてたくさん売る」が必要なので、一般人には普通に無理だと思う。
自分の場合はほぼほぼブックオフの均一本から仕入れており、それで利益を出そうとしたら110円の本を最低500円とかで売らなきゃいけなくなると思うが(実際の新古書店はもっとえげつないけど)、それはもう違うじゃん。そういうことがやりたいのではないのだ。あくまで、「ここでこんな本が手に入る…!」という喜びをやりたいのだ。(これはZINEとか素敵な作品を作れないが故に妥協した自己表現とも言えるか)
だから普通に利益-10円の本もたくさんある。
(というか本当は、一箱古本市は「自分が読んで良かった本をお勧めする」ぐらいのマインドであるべきなのだろう。読んでない本を仕入れて在庫を抱え始めるのはたぶん不健全……)


ちなみに絶対売れると思っていたハーンの『怪談』や近年出たばかりのエッセイ本、あとクリスマスの本などは売れました。売れると思って用意した本が売れるのは嬉しい。



カメラ売ってる方がいてびっくりした。

反省


  • 離席しすぎ。

自分も本見たいし、写真撮りたいし、お菓子食べたいしでめちゃくちゃ席を離れてしまった。小規模イベントならまだしも、この規模だとちょっと危ないかも。

  • 忘れ物多すぎ。

お昼ご飯に用意してたパンと、挨拶がわりに用意してたお菓子を忘れた。パンは翌日の仕事中に食べた。

せっかくここまで来たのだからと、4軒梯子して帰った。売った本をまた買った。積読無限地獄の始まりだよ。

帰り道に寄ったブックオフ

https://maps.app.goo.gl/3ijiKccYgEU87hcC7?g_st=ipcmaps.app.goo.gl

均一の教養系文庫がすごかった。地元ではまずない充実さ。


https://maps.app.goo.gl/ZP5sTBDZtLsBrs5C6?g_st=ipcmaps.app.goo.gl

値付けが高めなのだが、相対的に均一じゃない単行本が安くなってた。


https://maps.app.goo.gl/SbruksSXLLdGBPLH8?g_st=ipcmaps.app.goo.gl

カインズの2階にあるっていうのが不思議。スーパーバザーで服とか雑貨とかゲームが中心ではあるものの、本の種類は幅広くて良かった。

2025年10月の読書

以前は「ちゃんと読めていないのではないか」という不安を感じることも多かったのだが、最近ではもう「文字を眺めていて面白ければそれでいいのでないか」などと思っている。
タイムラインは眺めていて飽きないが疲れるし、映画やアニメは見始めるまでに相当なハードルを超えなければならない。ふと手に取って、気が向いたら開いてみて、そのまま自然と没入していける読書がやっぱり一番良い。

高山羽根子首里の馬』(新潮社)

仕事の関係で沖縄に行くとい友人からおすすめの本を聞かれていくつか候補を出した。結果的に選んでもらったのが本書なのだが、肝心の私が積んでるようじゃ申し訳ないので読んだ一冊である。
冒頭の方から沖縄についての説明が親切で(たとえば、沖縄の民家の形状とか)、土地や文化を知るのにちょうど良かった。

西村亨『自分以外全員他人』(筑摩書房

最近文庫化されたのだが、本の雑誌の方か某書店の方かがすっごいおすすめされていて気になった一冊。令和版『人間失格』ということだが、そもそも太宰を読んでないのでその辺は比較はできなかった。
コロナ禍の中年男性の自意識みたいなものを書いた重い作品。辞めるに辞められない仕事、死にたいのになかなか実行できない弱さ。自分にとって一つの未来予想図のようだ。

梨木香歩『家守綺譚』(新潮社)

漫画化されたし、地元でリーディングの公演もあるし、今来てるなと思って読む。梨木さんは西の魔女のイメージしかなかったので、こういうのも書かれるんだと初めて知った。
個人的には「夏目友人帳」を連想する内容だけど、普通にこちらのが先。


ウルフ『ダロウェイ夫人』(土屋政雄訳, 光文社)

文學界のダロウェイ夫人特集を読むために読んだ。読んでおいて正解だった。
冒頭から描写がかなり美しくて良かった。視点を行ったり来たりするのも当時としては新鮮だったのかな。
書かれていたのはそれぞれの人物の人生への向き合い方なのかなと思う。ふとした瞬間に虚しさを覚えてしまいそうになるけれど、それでも生きていく……というのがクラリッサの生涯なのかもしれない。

『百年文庫19 里』(ポプラ社

もう3、4年読んでてまだ19巻目というのが軽く絶望ではある。「里」というテーマの短編が3つ。里山情緒的なものかと思ったら普通に色里で横転。
遊郭モノはもう報われない恋みたいな王道展開があるんだなと思う。

アリス・フェルネ『本を読むひと』(デュランテクスト冽子 訳/新潮社)

どちらかというと読書よりもジプシー(ロマ)の家族の方に焦点が当てられた物語だと思った。
むしろ本を読みに来るエステールの介入には、中途半端さを感じてしまう。本(文化)という素晴らしいものを、それを持たない人々のもとに届ける感動ストーリー…ってなるとやっぱりちょっと考えてしまうな。

久永実木彦『わたしたちの怪獣』(東京創元社

全編通してのテーマは割とはっきりしていて、現実と非現実ということなんだろう。登場人物たちは苦しい現実に置かれていて、そんな時、目の前に非現実への扉が開く。そこで彼らはどのような行動を取るのか。現実と向き合っていくこともあれば、逆に非現実の世界に逃げるということもできる。それがSFという形式の面白さなのかもしれない。

岸政彦『図書室』(新潮社)

図書室

図書室

Amazon

10月のベスト1冊。こういうのがまさに読みたかった! なんか分からないけれど今の気分にすごく合っていて良い。
会話が関西弁というのもあるだろう。生々しさが感じられる。しかしそれよりも、大阪で冬を過ごした経験があるから、あの淀川沿いのイメージがすごく想起されてくる。

何かのタイミングがたくさん重なって、ひとは知らない街にやってきたり、友人と静かな散歩をしたり、真冬に誰もいない万博公園でいつまでも森を眺めたりすることがある。るだんどれだけ荒んだ、腐った、暗い穴のようなところで暮らしていても、偶然が重なって、なにか自分というものが圧倒的に肯定される瞬間が来る。私はそれが誰にでもあると信じている。
(P170)

この肯定なんだろうなと思う。岸さんの著書から感じられる優しさの根源のようなもの。それは生活史の聞き取りでも本書のような創作でも同じで。そういった部分を捉えたいというのが、岸さんの中にあるのかもしれない。勝手な想像だけど。
そしてそこに惹かれる自分もまた、どこかでそういう瞬間を待ち望んでいるのかもしれない。


『ヒョンナムオッパへ——韓国フェミニズム小説集』(斎藤真理子訳/白水社

前半がリアルな作品、後半に行くほどフィクションになっていく構成が面白い。チョ・ナムジュの表題作やチェ・ウニョン「あなたの平和」に出てくる家庭の在り方を見ていると、SNSとかで叫びや呪詛のように出てくる言葉たちの裏側は実際にこうなっているのかもしれないなぁと思う。
後半のバディものやSFは、フェミニズムの表現方法にはそういう形もあるのかと思った。

『はじめての文学 よしもとばなな』(文藝春秋

「キッチン」も「デッドエンドの思い出」もタイトルだけは知っていたけど、そういうことかぁ! と納得。主人公たちの傷が優しく回復されていく様は読んでいて癒し。もっと早く読めば良かった。

『はじめての文学 川上弘美』(文藝春秋

初っ端の「運命の恋人」の冒頭からもう「恋人が桜の木のうろに住みついてしまった」(P8)なので、ああ、こういう作風なんだなと理解した。タイトルだけは知っていた「神様」も「パレード」も全然予想外で(「神様」に至っては、熊の神様だったし)、裏切られる感が面白い。
そんななかで雰囲気がちょっと違うなと思った「草の中で」が収録されている『ニシノユキヒコの恋と冒険』を最近買った。

西崎憲 編『10月の本』(国書刊行会

こういうアンソロジーにしてはセレクトが渋い。明治〜昭和の随筆や小説、翻訳物などが中心である。
やっぱり描写が良い作品が好きだなと思う。堀辰雄「十月(大和路・信濃路より)一」に描かれる奈良の情景は、自分も大阪時代に何度か秋の奈良に遊んだことがあるので実感を伴ってきて、しみじみとした。

松本龍之介『一次元の挿し木』(宝島社)

とある湖畔で発掘された200年前の人骨をDNA鑑定したら、なぜか4年前に失踪した少女のものと完全に一致し……というあらすじが強くて、内容的にはそれを超えるインパクトはなかったかも。割と序盤からそのトリックは察せられる描写もあるし。
ただ後半にかけての盛り上がりは良かった。メリーバッドエンドだと思うけど。


以下ZINE(非商業出版物)

『今夜はここで栞を3』(踊れなくてもいい?)

booth.pm

創刊から買ってる読書エッセイアンソロジー。確かこのシリーズは元々FFとかのオンラインゲームで開催されている読書会メンバーが中心に参加されていたと思うのだが、今回は初っ端から海猫沢めろん先生で、確実に豪華になっていっている。
他人の感想を読むと、それそういう話だったのか、というのを知れたりするのが面白い。感性が似てる人のおすすめ本は読みたくなる。

池田慎平・池田彩乃 『牧師と詩人本3』

おそらく今のところ青森現地でしか手に入らないのだがとある縁によりご恵投を拝した一冊。イザヤ書の一節を非クリスチャンの詩人が読み解き作詩し、それを牧師が読み解いていくというユニークな特集も。(これは業界誌『信徒の友』でも連載されていたりする)
遠く離れてしまった知人から届く便りのようで、お二人の活動を楽しみにしている。

めっちゃ鬱やん。

今これ、自分、めっちゃ鬱だな〜と思う。
辛いとかしんどいとか死にたいとか、なんかそういうのを超えちゃって、無感覚なゾーンに達している気がする。

いや、もうちょっと細かく見れば楽しい瞬間はあって、たとえば動画を見てちょっと笑ったり、音楽を一音ずつ拾って部分的な耳コピをしてみたり、季節が進むのを感じたり。
でもトータルで見て、楽しくない。というか、「楽しい」を味わうはずの「私」がぼんやりしていて、十分に受け取れない。
だから本を読んだりタイムラインを眺めても、何かが残るって感じがあまりしない。


あと、めちゃくちゃ人に会えない。
本当に色々な人に申し訳ないけど、いま、会えない、なんか。
コミュニケーションが、会話が、できない。たぶん、変な感じになる。辛くなる。ので。
他人にかなり依存してる人間なので、人と会わないのはそれはそれで辛い。
でも会うのも辛い。
難しい。


昔から「何か」を為さなればならないという気持ちを抱えて生きてきたので、何も為せそうにない自分が嫌になる。実際のところそれは、為さないと気付いてもらえない、見ていてもらえないという寂しさなので、別に為さなくても(承認が得られれば)いいんだろうな〜という自己認識があり、そのしょうもなさが嫌になったりしていた。
でも今はそういうのも含めてどうでもよくて、それはある意味良いことと言えるのかもしれないけれど、でも結局虚無やん、と思う。


死ぬときに人生後悔したくないな〜と思っていた時期もあったけど、今めっちゃ思ってる。自分の人生、何だったんだ? 何?
なすべくして依存してきた物事と、その結果として集めてしまった雑多な物でゴチャついた部屋と、一方的に迷惑を掛けてしまった人たちと
え〜、何これ、どうするの、これ。

今そんな感じ。これ鬱? よく分かんなくなってきた。


読書日記一年分(52/52)

昨年9/30から一年間の予定で始めた読書日記、最後です。
明らかに今年の6月ぐらいから失速してるし、20日分ぐらいは当日書けなくて翌日以降に思い出して書いたりするし、というか365日中40日ぐらい読めてない日もあった気がするけど、まあ終わったのでよし。


最初(めっちゃ読んでる)
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前回
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今週読んだ本

文學界2025年8月号


9/23

文學界』2025年8月号より、小川洋子×n-buna「すべてのものが移り変わり、歌だけが残り続けてゆく」を読む。
いつの間にか単行本が出ていた『サイレントシンガー』について。これは買わなきゃ。

日常会話を書くのは難しいから家族は苦手というようなことを小川さんが仰っていて、意外だけれど確かに言われてみればという感じがした。
そしてこれは読む方としても興味深いテーマだと思う。自分は疲れてダメになってる時のほうが日常会話が飛び散らかってるようなものを見たり読んだりしている気がした。逆にある程度落ち着いているときは、小川さんみたいな落ち着いた会話をじっくり読みたい。


9/24

生活リズムが完全に壊れてしまい、日中はほとんど寝てて、夜中まで動画を見て、3時ぐらいに風呂入って4時前に電気消すみたいなことになっている。


神前暁さんが「God Knows…」解説してる動画を見た。サビがあの形になるまでの変遷が見られてすごく興味深い。
だいたいサビって伸びやかになって音数が減ったりするけど、あの曲になぜそれが合わないのかというのが非常によく分かった。
あと楽器(特に鍵盤)で作ったメロディは歌に合わなかったりするというのもすごい実感がある。

youtu.be


9/25

2時間ほどしか寝てないので当然死にそうな朝。いつも以上にふらっふら。

ついに彼岸花を観測。一昨日の通勤時にはまだ気付いてなかったので、昨日ぐらいで一気に咲いたのだろうか。一年が回ってきたなという感じ。それにしても今年はいつも以上に雑草が刈られておらず、あちこちボーボー。暑すぎて誰もやりたくなかったのかもしれない。
日中はまだ半袖でいけるけど、原付乗るときは何か羽織りたいぐらいの気温。寒暖差にやられて鼻炎はぴえん。


文學界。大森静佳『あらゆる「迷子」に捧げられた鎮魂の物語り』を読む。『サイレントシンガー』の書評。
この作品の持つ独特の空気感を「寓話性」というところから読み解いている。特に、「アカシアの野辺」の人々の大人しさと対比的な羊たちの振る舞いについての考察はなるほどなぁと思った。
最後に和歌と結びつけて「共有」するための歌という話に持っていくのはさすが。


9/26

文學界より、町田康「覚書」を読む。気に入らないことがあるとすぐ殺したり爆破したりする兄と、彼に振り回される弟のロードノベル的な何か? いつもの感じではある。


9/27

文學界より、鳥飼茜『今世紀最大の理不尽「今日から法律が変わりました」』を読む。目次を見るとロングエッセイというくくり。
法律婚で二度苗字が変わり、二度目の離婚後に前の夫の苗字に戻そうと思ったら、手続きに行った日に法律が変わって書類が使えなくなっていた……という著者。
自分はおそらく死ぬまで苗字もなんも変わらず行く人間なので、この境遇を想像したことはなかった。名前を変えるってこんなに大変なんだ。

苗字を変えた側だけがあらゆる面倒な手続きを一手に引き受け、その相手の家の中に新参として「お邪魔させてもらいます」プレイが始まり、離婚すればまた同じ手続きを一からやり直す。
(P110)

選択的夫婦別姓は本当になんでこんなに進まないんだろうなと思う。


9/28

休みの日はいつも天気悪い……と思っていたら晴れたので洗濯をして図書館に本返して借りて部屋の片付けと掃除をした。ようやくという感じ。ここ1ヶ月ほど、虚無すぎて換気すらしていなかった。
最低限休まるほどの整理ができたので、文學界を読む。

小野正嗣「空き家の妊婦」。ものすごーく田舎の閉鎖感を書いた作品だった。いやここで終わるの!? もうちょっと、救いを……。
中心人物である祐介と視点人物?の「私たち」というのがどうも違うような気がするが、最後まで読んでもあまり分からなかった。謎が多い。

頭木弘樹「痛いところから見えるもの」は最終回。もう単行本も出てるし。早いな。
ラストは様々な著名人の痛みについて。最後が笹井宏之で締めくくられているのも良い。

高瀬隼子「鉛筆の瞑想」。派遣の試験監督として私大の受験会場で働く主婦・工藤。仕事仲間には毎年の顔馴染みもいる一方で、今年は呼ばれていない人もいる。どうやら鉛筆を忘れた受験生に筆記具を貸してしまったことが問題とされたらしい。
何事もなく試験が終わるのを望む工藤だったが、ある女子生徒から話しかけられ……。
試験の緊張感がリアルに描かれていてきゅっとした。


9/29

文學界』の続きを読む。

今月のエッセイは駒田隼也「カメパンはまだありますか」。今年で30になる著者が平成という時代を振り返る。同い年だ。

何だかよくわからない平成という時代に育てられ、それは天皇生前退位と共にそっけなく去っていった。そのインパクトさえ後のコロナ禍ですぐに上書きされて、平成という時代自体がそこで隔離されたみたいに、思い出すことに実際以上の距離が生まれてしまっているような気がする。
(P166)

音楽とかでは割と平成っぽさってあるけど、それ以外ではなかなか思い浮かばないよなー。

ビートルズの「Free As A Bord」発表の話とかも出てきて嬉しい。
ちなみに駒田さんといえば先週読んでた『鳥の夢の場合』だが、そのオマージュ元の一つが「トンビにカメパンぬすまれた」らしい。……どのへん!? たぶん直接的なオマージュではないだろうけれど。


ちなみにカメパンはこれ。
youtu.be


大木芙沙子「篝火」はファンタジー感もある作品。天から降りてきた「火」であり、動物や人間、岩などさまざまな「かたち」に姿を変えながら長い時を過ごしてきた「わたし」のパートと、ときおり誰かに名前を呼ばれたように夢から覚めることのある「あなた」のパートが交互に綴られてゆく。
まず神とか妖怪とか精霊じゃなくて「火」そのものというのが斬新。ときには誰かの胸を温め、またあるときには無理やり犯してきた男を燃やし尽くしてしまう。神話的スケールだが、女性の受ける痛みという部分にフォーカスされているのが現代的だと思う。

現代を生きるシングルマザーであるところの「あなた」のパートは、初めはどこか不安な暗さも感じるのだけれど、最終的に命を肯定するような温かみがあってよかった。というか「あなた」はぜひやゑの生まれ変わりか別世界的存在であってほしい。


計算違いで一日足りなかったので明日はアディショナルタイムとする。


9/30

仕事で一日中移動の日。かばんに文庫入れていたけど、運転してたら当然読めるはずもなく。
22時ぐらいに帰宅して諸々をし、23時前に『文學界』を開く。

恒例の文フリレポは古賀及子さんと坂崎かおるさん。毎度すごい。
そして今回はなんと行ったイベントのレポということで、あの空気をこの方たちの文章で読める幸せ。たとえば古賀さんはこんなふうに書く。

天井がやけに高く、頭の上の空間は無のまますかすかで、地面の雑多さとの差異があまりに激しい。
(P214)

光景が甦ってくるなぁ。

それにしても毎回各々10冊ぐらい紹介してるのに、自分が買った本と被らないのがすごい。そして「うあー、そんな本があったのか!!」と悔しくなるのもお決まりである。


リレーエッセイ「身体を記す」は済東鉄腸『もしかして「体育」と「運動」って違うものだったのか?』。このシリーズは久々というか、もう終わったものだと思っていた。どうやらまだ続くらしい。
動画で見た懸垂にチャレンジしたく、まずは公園で逆上がりに挑む話。子どもの頃の「体育」のトラウマに苛まれる件は非常に共感がある。

鈴木涼美「小さなひと」は娘を預けるシッターや一時保育を利用する話。親の最期の時期に優先順位を間違えたから今度こそ間違えたくない、という決心が印象的だった。
生後間もない子を預けたり見てもらうのってかなり大変なんだと知った。

宮地尚子「痛みからの解放」。山からの下山時に小指を痛めてしまっていたが、改善方法を調べ始めて色々なことを知った話。
「痛みは、学びを促すシグナルである」(P242)。調べた一つのことから色々広げていけるのがすごいなぁと思う。

九段理江「AIの心、作家の体」は台湾とトリノのブックフェアに招待されたルポ。芥川受賞後「AI小説家」とみなされているという話が面白い。ちなみに『広告』の95%AI作品はAIという部分だけに注目され肝心の内容に言及が少ないと……。ごめんなさい、積んでました。読みます。。
台湾には「命運交織的旅店」なるプロジェクトがあり、操作者がいくつかの質問に答えることでAIが小説を出力し、レシートみたいなので出てくるらしい。これはめちゃくちゃ面白い。文フリでレシート出力やられてる方はいたけど、このパターンはまだ無さそうかも?
トリノのフェアではめちゃくちゃインフルエンサーからインタビューを受けていて、読書系インフルエンサーがそんなポジションにいるんだなぁと思った。というか日本の文学界隈はインフルエンサー的なものへの抵抗感がまだ強いのかもしれない。

片岡大石「時間という公然の謎を生きる——坂本龍一と時間の問い」は、坂本龍一が晩年に発表した舞台やインスタレーションから、時間を解体しようとする試みを読み解く。たぶん実際の作品を見たとしてここまで考えられないだろうし、夏目漱石の時間論と絡み合わせて様々な時間観を思索するなんて無理なので、やっぱり批評って凄いなぁと思った。

松尾スズキ「家々、家々家々」は2010年代ごろの話。ほどほどに波風のある人生を歩まれていて面白い。

渡辺祐真「世界文学の冒険」。今回は詩経について。四書五経の一つということぐらいしか知らなかったので勉強になった。儒教の経典となったことによる解釈の限定(遊び歌みたいなものまで教訓として読まれるようになってしまった)とかの話はなかなか興味深い。

王谷晶「鑑賞する動物」は今回もキレッキレで良い。『サブスタンス』という映画についてだが、映画知識が多いほど楽しめる一方で何かを見落としてしまう、という凄い作りなんだなと思った。

江崎文武「音のとびらを開けて」はブラッド・メルドーについて。名前はかろうじて聞いたことがあるぐらい…だったので、読みながら聴く。

藤野香織「でももうあたしはいかなくちゃ」は映画館の個性的な人々が書かれていて面白い。エンドロールだけ見る人とか、暗い中で新聞読んでる人とか…。もったいないとも思っちゃうけど。

ショートエッセイ「窓辺より」に野口理恵さんが書いている。今号、あまりにもエッセイ界隈すぎるぜ。「母の顔」という題なのだが、英語では“Remembrance”と書かれていて、やっぱりここは英題というよりサブタイトルなんだなと思った。

金川晋吾「でもだからこそ日誌」は日記を書くことについて。同居人の映像作家・斎藤玲司さんはずっと日記を書かれているらしいが、なかなかそれはできないよねという話。日記は誰でも当たり前にできることじゃなく、「記録することへのよくわからない執着をもっている人」しか続けられないというのは確かに。

井戸川射子「舞う砂も道の実り」はワオスリ病気回。

仕事とは自分より人のことを気にかける時間だ、それゆえ子育ては仕事だった
(P302)

と考えるダエ。確かにそうなのかもなぁと思った。
そしてまさかのここでイフンが離脱。また戻ってきそうな気もするけれど……。


久々すぎてあんまり覚えていないのは、松浦寿輝「谷中」。傷心の画家が谷中という地に癒される場面だった。物語の展開よりも哲学的な内省に重きが置かれている感じがする。

新人小説月評はグレゴリー・ケズナジャット(三田文學)、清水裕貴(すばる)、坂崎かおる(GOAT)の三作。竹永さんが書かれているが、この作品数ってその月に新人が発表した作品数そのものなのか。編集部が選んだ数とかじゃなくって。というか「新人」の定義ってなんだ……?
褒めの菊間さん、指摘の竹永さんという感じでバランスが良い選者になっているなと思う。

福永信円城塔の日本史的自由自在」は『去年、本能寺で』評だが、相変わらず紹介されるあらずじだけでは全く内容が想像できなくて良い。今度はAIブッダじゃなくてAI細川幽斎らしい。分からん。
この文章自体が真面目な書評かと思ったら途中からだんだん軽くなってきて最後はオチた。ツッコまんぞ。

松浦寿輝「遊歩遊心」、今回はものすごくタイトル回収な回だった。散歩中に出会った石碑により初めて知った画家、月岡芳年について。


ということで時間はかかったけれど『文學界』は読了。ショートショートで色んな作家の文章を読め、創作も読み応えがあり、エッセイや批評も面白かった。間違いなく当たりの号。電子で買えるのでぜひお勧めしたい。

で、一年間続いた読書日記と私の20代が終わる。10代最後の時みたいな感慨もなく、まあそんなもんかという感覚だけど。最後の年に何やってたか? 本をほぼ毎日読んでた。というのは分かりやすいし達成感もあって良かった。

正直30までには死ぬと思ってたけどな。生きたな。
そんなもんなんだろうな。

読書日記一年分予定(51/52)

次で終わります。



前回

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読んだ本

  • 駒田隼也『鳥の夢の場合』(講談社

読んでる本

9/16

バイト行きたくない学校な朝。体に疲労を溜め込んだまま電車に乗る。

最後ぐらい読んどくかと、溜め込んでいだ『文學界』の8月号を読む。
特集は「24人のショートショート」ということで砂川文次、市川沙央といった文學界作家もいれば、上坂あゆ美、のもとしゅうへい、市街地ギャオ、伴名練、俵万智などなかなか珍しい人選も……というか異色率のが高いなこれは。そういう企画なのだろう。
全て見開き完結で素晴らしい。せっかくなので全て感想を書いてゆきたい。

多和田葉子「契約違反」は、「私」が友人の麻里恵から、離婚した話を聞いている場面。夫婦は慎重に結婚生活に関する契約書を交わしていたのだったが……という、過剰さのユーモア。あるあるとアイロニーが絶妙で、オチ含めて綺麗にまとまった作品だった。

円城塔「ニュー・ナンバーズ」は、数の概念が新たに発明し直され、「旧数」に対して「新数」が誕生した世界。「新数」の発明により有人超空間航法が可能となり、「私」はその最初期の被験者の一人であった。
テクノロジーが男性に占有されてきたことへの批判でありつつ、それはそのままSFというジャンルに対する批判でもありそうだ。

青柳菜摘「関係名デモンストレーション」は、「関係名制度」が施行された社会を描く。関係名は人対人に限らず動植物や法人格とも可能という懐の広い制度で、行政に届け出ることで適格関係の申し立てもできるらしい。
そんな「関係名」をめぐる、革命の物語。名付けというのは思ってる以上に関係性を規定するんだろうなあ。


note.com

話題になっていた記事。NHKの某子ども向け番組とかでよくあるやつだな〜と思った。
動的平衡、利他とかの本はいくつか読んでるので、たぶんどこかで援用されてただろうな。文系の本で理系的な知識が出てくると無批判に受け入れちゃうなあと思う。



9/17

ほぼ寝ていたせいで、夕方以降にやることを詰め込んでしまうことになった。
町というか村唯一みたいなバイク屋で原付のライトを交換してもらう。腰の曲がったおじいちゃんが、ぽんぽん音の鳴るディーゼルエンジンみたいなやつでネジを外したり空気を入れたりするのを見ていた。


9/18

文學界』の続きを読む。

豊永浩平「姉蚕」は起きたら姉が蚕になっているというカフカ的な冒頭から始まる物語。ただしカフカのよくわからなさに対してこの作品は割とはっきり書かれていて、家父長制的な家庭に閉じ込められた結果の変身である。
最終的に姉蚕は飛ぶ。蚕は飛べないが、アネコは飛ぶことができた、というところに希望を見る。

田中慎弥「鍵は消えずに」。定位置に置いていたはずの鍵がなくなってしまい、部屋の中のあらゆる場所を探すが見つからない。もっと思いもよらない場所にいるかもしれない、と本棚の小説を手に取ると、そこは戦争中の城で……。果たして「鍵」とは何だったのか。

上坂あゆ美「睫毛の角度」は、美容、とくに睫毛に並々ならぬ執着を持つやえと、彼氏である吉田の一コマを描いている。これも何かしらの闘いなのかもしれないと思った。

朝比奈秋「垂直方向へ」。なぜか「私」は卒業したはずの大学にいて、階段の踊り場で寝転んでいる。同級生たちは次々と階段を上がってゆく。しかし「私」はなぜか起き上がることができない……。
これはもう限りなくあり得る悪夢だ。分かりやすいと言えば分かりやすい。自分は夢でもリアルでも全然起き上がれませんけどね。。

伴名練「箍」はエセ書評もの(?)。高知の伝承を集めた『〈塞縄手物語〉全記録』という本を評する形で書かれているが……いやラスト! そっから!! 先を読ませてー!
おそらくこれ、因習村的なやつでは? 「箍」というタイトルも意味深。誰のタガが外れたのか。

砂川文次「floating」はパッと誌面を見た時点でなんか詰まってるなと思ったらひたすら読点で繋いで最後まで句点がない文体だで、こういう文章って読むときに息が詰まったりするよなぁと尻込みながらも読み始めると、まさにそんな詰まるような「不安」がテーマの作品だったわけだが、しかし最後の最後でふわっと解けていくような感じは良かった。

高山羽根子「夜を漕ぐ」。初めて自力でパンク修理をした「わたし」が夜の街に漕ぎ出してゆく。昼じゃなくて夜なのが良い。静かな心地よさ。

ちょうど最寄駅に着いたので、同じように夜の街に(原動機付)自転車で漕ぎ、はしないけど出していく。明らかに風が涼しくなっている。羽虫も少ない。秋、来たか〜


9/19

野崎有以「夕霧の中で」から読む。「僕」は叔父の墓の前で咽せていた女は、叔父にピアノを習っていたという。叔父はその才能を妬んだ両親にピアノを取り上げられ、苦心してキャバレーのピアノ弾きになった人物だった。
なんだか昼ドラの始まりそうな展開。

近藤聡乃「死ななかった私」。ミサキちゃんは忘れっぽくて、今日も「私」と放課後に遊ぶ約束をすっぽかしてしまった。仕方なく「私」は校庭で門限まで遊ぶことにするが……。
なんかこういう記憶、誰にでも一つぐらいありそうな感じがする。不思議だ。

児玉雨子「紙幅の時間」はなんかもうタイトルで完成してそうな雰囲気もある。「読書感想文進級制度」なるものが導入されており、「感想文指数」が四十を下回るとリジェクトされ、コンクールに通れるまで指導員のもとで感想文を書き続けなければならない……悪夢か?
「あなた」の「どうして『浦島太郎』が面白くないのか」はリジェクトされ、「私」はその指導を行なっている。ああ、なんかトラウマが…。
最後は微ホラーだけど、ウラシマが見事に回収されていた。

柴田聡子「つばめのねえさん」。歳の離れた人と付き合っている弟を問い詰める姉。揺さぶったり突き飛ばしたりしている一方で、弟からやり返されることも期待している。情緒がよく分からない。「つばめ」というのも何かの隠喩なのだろうか。

島口大樹「一〇四の夏」は、百四歳の曽祖母のお見舞いに行く話。ところどころ記憶が曖昧になっている曽祖母だが、その身体に刻まれた戦火の跡は消えることがない。家族でも決して交わらない時間のことを思う作品。

のもとしゅうへい「朝の牛」。夜勤明けの「私」は、二〇五号室の田代さんが飼っている仔犬を見せてもらう。生まれて間もない仔犬はまるで小さな牛のようで、群馬県に似た模様があった。
のもとさんは漫画も描かれているからか、身体感覚の捉え方が視覚的で面白い。

文月悠光「角砂糖の家」。母子家庭に育った「私」には印象的な記憶がある。出張の母について泊まったホテルで、角砂糖を食べさせてもらったことだ。大人になり結婚した私は、その甘い呪いに苦しめられる。

ニシダ「LOVE」。起き抜けの「僕」は、昨晩体を重ねた相手、コト子さんから、胸元に「LOVE」と書くよう頼まれる。彼女はこれからデモ行進のパレードへと出かけるのだった。


9/20

雨。

文學界』のつづき。
吉田靖直「激しい競争」は死後の世界(天国?)で繰り広げられる逆デスゲーム的なものを描く。そのゲームに勝ち残ったものだけが生を得て地上に生まれることができるのだ。

戌井昭人「天井をなめたい」はそれ以上でも以下でもなく、ただただ天井を舐めたい話。舐めることに異常な執着を持つ人物が描かれている。なぜ天井……?

市街地ギャオ「wet dogs」はパートナーに誘われてGMPD(ガチ・ムチ・ポチャ・デブ)専のスペースについて行った「僕」が、彼との温度差に冷めていくような話。一方通行の愛って感じ。

南翔太「欲しがった」は不条理系。突然女から「橘真司さんですか?」と声をかけられた「俺」は嘘をついて彼女についてBarへゆく。するとそこに本物の橘真司が現れるのだが……。アイデンティティクライシス。

市川沙央「運」。送別会の帰りに偶然「矢車先輩」を見かけて立ち止まった「僕」は、すんでのところで飛び降り自殺に巻き込まれずに済む。矢車先輩はポラロイド研究会の元副会長で、彼女の撮った写真をお守りにすると就活がうまくいくという噂が広まっていた。僕は命拾いしたお祝いに、矢車先輩に付き合ってもらうことにした。
誌面の中央を基点としてグラフに見立てると、第一象限から第四象限まで全部違うことが書かれていて、短いのに密度が濃い。そして市川さんらしい、解釈の難易度高めの終わり方だ。「先輩の顔を、僕はもう思い出せない」というのは、ここまで全て回想ということなのか、あるいは目の前にいるのに見えなくなっていくのか。ポラロイドが色褪せるみたいに。
結局「僕」も先輩を都合よく利用しているような気がする。

俵万智「葉っぱと小石」は癒し。文字通り言葉の葉っぱをならせる木があり、その落ち葉はさまざまな言葉そのものである。その言葉たちを、必要としている人たちに届けてゆく物語。
最後の短歌も俵さんらしい軽やかさ。

そしてトリはもちろんこの方。筒井康隆「車椅子の男」。ショートショートと言われて御大が普通に書くわけもなく、戯曲形式である。
九十歳の作家、片山宗一のもとを訪れた担当編集者の藤代と、友人の歌手、浪川。宗一の息子は亡くなっており、藤代は出版社に託された手紙を届けに来たのだった。
なかなか起きてこない宗一のため、浪川は「帰れソレントへ」を歌い上げる。最後はようやく起きてきた宗一にスポットライトが当たり、息子の手紙を読み上げてゆく……。
どう考えても作家自身のパロディ的な作品なのだけれど、まあ食えないお人だ。この人はまだ百本ぐらい書かれるんじゃないか。

9/21

寝た。それ以上も以下もなく。

9/22

うわあいきなり涼しくなるな
電車の混み具合からするに、大学が本格的に始まったのだろうか。いまの状態で人混みは本当に辛い。。

駒田隼也『鳥の夢の場合』(講談社)を読む。四人暮らしのシェアハウスから二人が出ていき、残された初瀬と蓮水。それまであまり関わりのなかった二人だが、ある日蓮見が唐突に、自分は死んだので殺して欲しいと初瀬に頼む。初瀬が確認すると、確かに蓮見の心音は聞こえなかった。
そこから初瀬が蓮見を殺すまでの55日間が描かれてゆく。

言語化しづらい感覚の描写がとても秀逸だった。たとえば焚き火を囲んだ場面を回想するシーン。

火の粉がときどき爆ぜるのも、煙が暗がりに消えていくのも、何だか神がかった世界秩序の陰影をみているみたいに思え、焚き火はそれと向き合っているような気分をわたしたちからおびきだし、あいまいな会話がむしろ真に迫っていくふしぎな高揚をさそった。
(P10)

直接的に描写するわけではなくて、場の空気感を文章に落とし込んで伝えるのがすごい。


作中で特に重要と思われる要素が身体感覚。作品自体はずっと半覚醒みたいな、夢と現実の間をふわふわしてる空気感だけど、そんななかでも感覚描写は登場人物たちの実体感を主張している。

個人的に今刺さったのはこんな箇所。

わたしはここから一日かけて疲れていかなければ、回復もできない。
 なのにわたしがいつまで経っても起きなくて疲れられないから、身体がむりやり疲れさせてきた。
(P68-69)

最後の方は若干ドタバタしてたけど、全体的にはモラトリアムな雰囲気だった。

読書日記一年分予定(50/52)

まもなく終わります。



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今週読んだ本

  • 小川和『日常的な延命 「死にたい」から考える』(ナナルイ)

9/9

最近そっち方面は全く聞いてなかったから、Liquid Tension Experimentのサードが出ていたのも、マイク・ポートノイがドリムシ復帰してたのも今知った。
あとイエスのKeys To Ascensionもいつの間にかサブスクに入ってた。
なにこれ、自分が来て欲しかったやつが急に色々来てるぞ、と思って調べたらYMOのGREEK THEATREライブ(「公的抑圧」の渡辺香津美カットされてないやつ)も来てた。マジで何?? 
残念ながら坂本龍一未来派野郎はまだだった。来てほしい。



小川和『日常的な延命 「死にたい」から考える』(ナナルイ)を読み始める。
序章が「承認欲求社会の生きづらさ」というところから始まっているように、現代のSNS社会を前提とした、若者の「死にたさ」を中心に据えた評論だ。

第1部第2章「安心欲求論」によると、「死にたい」のつぶやきには二つの方向性がある。ひとつは「承認への願望」、もうひとつが「安心への願望」である。
「死にたい」と発言することは、特に親密な人間との関係性を破綻させてしまう恐れがある。それゆえに、ネット上の安心できる場所で発言されることが多い。

あらかじめ相手に自分がどのような人物かを、それもできるだけ神経質に周知することで、いちど関係が形成されてから自身が排除されるようなリスクを軽減する。
(P48-49)

というのはプロフにスラッシュで色々入れてるアカウントに対する分析。このセルフハンディギャップ的なやつはすごいわかる。というか最近は拡散→炎上の流れが嫌でも目に入ってくるので、なるべくまともに受け取られないように、広がらないように……という方向性で予防線を張るパターンも多いのではないだろうか。

第三章ではこのような指摘がなされている。

日本社会においては、本来承認欲求と安心欲求という2種類の意味合いに分けられるべきものが「承認欲求」というひとつの言葉の中へと吸収されてしまっているのではないか。
(P55)

確かになぁと思った。そもそも承認欲求って言葉が曖昧すぎる。

では安心欲求を満たすために、どのような方法があるのか……というところで引き合いに出てくるのが坂口恭平の「制作」だ。たぶんこの辺は坂口さんの本を読んでないと理解しづらかっただろう。読んでてもなんか分からなくなってくる。
個人的には、坂口恭平的制作論の効果は確かにあるけどそれを難しい人もいるよね、という部分は大いに賛同。制作が承認目的に回帰してしまってはしんどいし、気にかけてひたすら受け止めてくれる人が常にいてくれるとは限らない。
ではどうするのか、ということで次なる選択肢に出てくるのが海外移住。……いやハードル高くない?? と思ったんだけど、よくよく考えたら自分も鬱が極まった結果みかん農園に期間バイトしに行ってるので、「物理的に移動して環境を変える」というのの効果は確かだと思った。
ただ、その効果が一時的であることは念頭に置かねばならないだろう。結局環境を変えても、行った先の環境でまた「これでいいのだろうか…?」とか考え始めちゃうと泥沼なのだ。何かもっとこう、根本的な解決を欲してしまう。



9/10

近所で古本市が始まったので初日開幕で行った。なんとなく開店前の百貨店のエントランスに入るのもためらわれて、外で20分ぐらい待った。
どこの古本市もそうなのか、リュックや大きなカバンを持ったおじさんたちがつらつらと列をなしてエスカレーターに運ばれてゆく。絶対普段百貨店に来ない層だろうし、古本以外にお金を落とさなそうだなぁと思った。それはまあ自身そうなんだけど……。(若者向け雑貨とかあればまだしも、完全に地方の奥さま御用達店舗なので)

昨年より古本は増えたらしいのだが、個人的にはちょっと回りづらかった。狭いスペースに人が集まりすぎていて、棚が全然見えない。
それでも2.5時間ぐらい粘って10冊程度を購入。五千円ぐらいを目指していたが、某古本屋店主氏のバンドのファーストアルバムまで売っていたので倍ぐらいになってしまった。探していたシオランとかは無かった。

終わった後に知人と少し見せ合いっこして帰った。雨は降りそうで降らなかった。


9/11

『日常的な延命』の続きを読む。第2部は「バーチャル/アクチュアル主体論」ということで内容もなんだか難しくなってきて、正直あまりついて行けてない。
ベケットの戯曲では絶望が極まったところからの折り返しがあるが、現代ポストモダン社会では情報過多によってあらゆる物事が相対化され、主体は「バーチャルな主体」になってしまう……。
現代社会はこれこれこうだから、希望のメッセージを素直に受け取れない、という感じなのは分かる。これこれこう、の部分が微妙に分からない。

重要となるのは、やはり生を終わらせないことの方である。終わりの一歩手前、絶望の一歩手前でほぼ自動的に「折り返される」という感覚が機能するからこそ、ベケットの表現は「死にたい」に対して希望を提示し続ける。
[…]しかし現在の世界を生きる人々にとっては、頭ではわかっていてもこの「折り返し」自体にバグ、不都合が生じてしまう
(P168)

そもそもこの「折り返し」も分かるような分からないような、微妙さがある。確かに絶望はどこかで底をつくかもしれないが、そんなはっきりと分かるものだろうか、折り返しって。気付いたら過ぎているもののような気がする。


9/12

金曜日は電車が混んでいてつらたんである。と思ったが二駅目からちょっと空いたので良かった。

『日常的な延命』の続きを読む。
第3部は「死にたい」の発生源を探っている。
「死にたい」には存在論的な不安から来るものがある一方で、なんとなく死にたい、みたいな「幽霊的死にたい」があるという。それは確率論から来る「郵便的不安」によるものなのではないか、と指摘されている。
見慣れない言葉がいろいろ出てきて混乱するけれど、要は「これだけ自殺しているのだから、自分も自殺するのではないか」というタイプの不安のことらしい。たぶん。

個人から生まれる個人的な「死にたい」、社会から生まれる個人的な「死にたい」、社会から生まれる社会的な「死にたい」。それらすべての「死にたい」にうまく対応していくことこそ、最も重要なことである
(P228)

この「社会的な」死にたいというのはやっぱり、自殺報道とかに関わってくる部分なのかな。


9/13

ものすごい雨の中本を買いに行き、買ってきた本をパラパラと読んだ。
大前粟生『私と鰐と妹の部屋』(書肆侃々房)は最初の一行目を読んで買った本。読書会に参加するようになってから、こういう変な買い方が増えた気がする。


9/14

ほぼ寝て過ごした。夜になってようやく起きて初めてトイレに行くという、末期的生活。
これが「バーチャルな主体」状態なのかもしれない。ただ、身体感覚が希薄になって死にたくなるというより、死にたくなるからどんどん身体をバーチャルにしていってしまう……という方向もあるのではないかと思った。何も感じたくない見たくないみたいな。

『ざつ旅』の伊勢回を見た。一度白子で降りてるのが面白かった。まずそこに直売所があるというのを初めて知った。いわゆる観光地ではないだろうし。
たぶんこれは地方がアニメやドラマに取り上げられた時のあるあるなんだろうけれど、地元だからこそ分かる微妙な方言の違和感を感じて、それを感じられるということはやっぱり地元なんだなぁと思った。
具体的にいうとたぶん伊勢の人は「〇〇やに」とは言わない。そして「やに」って、意識してつけるとだいたい変な感じになる。というか本来はたぶん「に」の部分が方言で、「や」は普通に関西弁のそれなので(「〇〇やで」が「〇〇やに」になる)、「〇〇で」は「〇〇に」になるはず(「早よせなあかんでー」は「早よせなあかんにぃ」になる)

という感じで、ツッコミ始めるとキリがないのが方言問題である。


9/15

『日常的な延命』の続きを読む。
最終章はカフカ論。『変身』と『訴訟』をカフカの自殺観の表明として読み解く。
カフカもまた自殺をしなかった人だけれど、それは作品を通じて様々な角度から考え抜いたからではないか、というようなことが書かれていた。

夜分に読了。
なんでここでこの話が? という部分がいくつかあったのだが、本書自体が著者の「延命」の過程を辿るような一冊だったということか。しかし概ねの方向性としては自分の興味範囲と近しいところもあって面白かった。というか、承認欲求の探索・坂口恭平・筋トレ・旅……というのはもしかしたら、現代を生きる死にたい人にとっては王道だったりするのだろうか。

死にたさの只中にいる人が、その気持ちを社会との関係の中で批評的に捉えていくのはなかなか難しいところがあると思うので、こういった本を読むのは視野をちょっと広げるのにもいいかもしれない。


個人的には「安心欲求論」のところがもう少し詳しく知りたい。承認欲求の方向へ逸れずに安心欲求を満たしていくには、どうすれば良いのだろう。「個人×日常」の領域だから、個別具体的に考えていくしかないのかもしれないが。

読書日記一年分予定(49/52)

する気力が起きない。
寝るか、同じ音楽や動画を繰り返すか、しかない。本は通勤中以外読めない。

それでこそ善良な人生とシオランならば言うだろうか。



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今週読んだ本

9/2

キム・エラン『外は夏』(古川綾子 訳/亜紀書房)の続きを読む。
「沈黙の未来」は今までと毛色の違う作品。外界と隔絶された「少数言語博物館」で、消滅寸前の言語の話者サンプルとして生きる人々の孤独、を見つめる言語の精霊的存在。永方(祐樹)さんとかが書かれそうなテーマだ。


9/3

免許の更新に行った。なんか映像がちょっと良くなっていた気がするが、流石に5年もあればそうなるか。特定小型原付の映像がもろLUUPで、そこはええんか? と思った。
まだ圧倒的に通常免許で申し込んでる人が多そうだった。マイナ免許、どうなんだろう。


9/4

『外は夏』のつづき。

「過去」は通り過ぎて消え去るものじゃなくて、積もり積もって漏れ出すものなのだと思った。これまで自分を通り過ぎていった人、自分が経験した時間、押し殺した感情などが現在の自分の眼差しに関わり、印象に加わっているのだという気持ちになった。
(キム・エラン『外は夏』古川綾子 訳/亜紀書房 P180)

仕事や家族の間で揺れる男性、ジョンウの視点で描かれた一編「風景の使い道」より。教授であった父のスキャンダルにより離婚した両親。自身も大学の講師として働きながら教授の任用試験に挑むが、発言権のある教授が起こした事故の責任を押し付けられた上に、不採用を突きつけられる。
本人に全く責任のないところで様々な不幸が降りかかってくるという、ひどい話だ。


最後の作品「どこに行きたいのですか」もまた印象的な、余韻を残す物語だった。夫に先立たれたミョンジは、バカンスに行く従姉夫妻に代わってエディンバラの家に住むことになる。
夫がよくやっていたようにSiriに話しかける以外はほとんど誰とも関わらずに暮らすミョンジは、留学していた知人ヒョンソクと会うが、夫が死んだことを告げられない。

なんとも言えない微妙な空気が漂っている。エディンバラという舞台がまた絶妙だと思う。

全編を通して、どうすれば良いのだろうと途方に暮れる人々を描いている作品集だった。


9/5

台風が来るとまた一つ季節が進んだなという感じがする。しかしあまり台風感のない15号だった。風が全く吹いてないからか。


大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミストシオランの思想』(星海社)を読む。死にたい死にたい言ってる以上シオランは避けては通れぬはずだから……。

序章はその生涯について書かれているのだが、あれだけ悲観的なことを言ってるくせしてなかなか健康志向なのが面白い。パリで自転車乗りまくって不眠が改善したとか、2、30キロの散歩をしてたとか。

実のところ、シオランは自分の書いていることを生活でそのまま実践しているわけではない。彼はとても暗い本を書くけれども、日常生活では明るく、よく笑い、人と話をするのが好きだった。
(大谷崇『生まれてきたことが苦しいあなたに 最強のペシミストシオランの思想』星海社 P66)

今の世の中じゃ批判されそう。いや、当時もされたのかもしれないが。


第一章はシオランの考える「怠惰」について。怠惰は悪行を犯さないから美徳というのは、「地球環境に一番優しいのは引きこもり」理論と同じだなと思った。


明らかに真ん前から自分に対して話しかけている人をスルーしてしまったことにあとで気付いて、そろそろ認知がヤバくなってるんじゃないかと一瞬思った。一年前とかよりは明らかにできることが減っているような気はする。そのせいで死にたいのか、死にたいからそうなってるのかはわからない。



9/6

土曜の朝のひそかなお楽しみ、「ゆる山へGO!」。今回は静岡の玄岳に登っていたが、お天気はあいにくの霧で、ふもとの展望や富士山は見えず……と思ったらだんだん晴れてきて景色綺麗!! という展開、なんか前にも見た気がする。ほんと今村アナ、持ってますわ。

『生まれてきたことが苦しいあなたに』の続きを読む。

行為の拒否である怠惰を自らのなかで大切にしている人は、行動が至上であるという前提を持っていない。それゆえ、怠惰な人は、横になってゆっくりと考えることができる。
(P95-96)

何かを「する」ことだけが重要なのではないのだ。
(P96)

というのはシオランの怠惰観を考察した上での著者のまとめ。リフレーミングというか逆張りのようにも思えるが、怠惰に自責してしまうような状態のときにはこの言葉は沁みる。


第二章はいよいよ「自殺」について。
「俺は自殺するつもりだと考えるのは健康にとってよいことだ」ということで、やはり健康なのだ。
もちろんそれはシオランが実際に自殺してないからこそ言えることで、あくまで「自殺の観念」についての話である。

いつでも死ねるという気持ちを持つことで逆に肩の力を抜ける、みたいなことだと思う。


9/7

昼まで寝てしまった。午後から予定があったのでなんとか家を出る。

久々に会う知人と話したりお菓子を食べる。無気力な状態だと本当に会話とかまともにできないなと思う。

Ruslan Sirotaの“In The Beginning”ばかり聞いている。Pat Metheny Groupっぽすぎるから好きなんだろう。
鬱状態のとき、ひたすら同じものばかり摂取し続けるのあるある。

In the Beginning

In the Beginning



9/8

朝からだるだる。意識があるのがつらい。


『生まれてきたことが苦しいあなたに』の続きを読む。

「誰がなんと言おうと、死は自然が、万人を満足させるべく見つけ出した最上のものである。[…]なんという利益、なんという特典の濫用だろう!」

死は「特典の濫用」って。面白い言い方。


「三十歳を過ぎて自分は生きていないだろうと思ってました」

シオランでさえそうなのか。やはりこの考えはある程度普遍……?


第3章「憎悪と衰弱」もだいたい今までの延長線上にある内容だった。人間を生き生きさせるのは憎悪とか反発心で、逆にそういう闘争心とかを失って衰弱することで善良へと近付くのだ、という理屈。
結局私なんかはもう何もしないほうがいいんでないかと思うことは度々あるけれど、何もしないことにも、まあそういう良さがあるのかもしれない。

シオランは、勇気ある人も臆病な人も、「物ごとに対する明察力ある蔑視」が欠けていると言う。世界のすべての物事を自分に関係づけてしまい、自分の人生は祝福されているとか、呪われているとか思ってしまう。自分の人生を特別なものだと思ってしまう。
(P232)

第5章「人生のむなしさ」より。執着を手放せってことかな?


第二部はシオランとペシミズム批判。解脱の不可能性とペシミズムの限界について書かれていた。
この世の苦しみから逃れるためには「解脱」をしなければならないのだが、そもそも解脱とは執着を手放すことで、苦しみへのこだわり(ペシミズム)もまた執着なのだ。

うーん、なんとなく納得のいかなさがあるけれど……。仏教というのは理屈より実践だという気がするし、解脱とか悟りもそれを目指すなかで少しずつ近づいてゆくものなのではないだろうか。理論的に不可能と言われても、という。


全体を通して思ったのは、シオランの人間くささとか。ペシミストだけど健康志向だったり、あっちの立場をとるかと思いきや今度はこっちの立場だったり。そういう矛盾は読む側としては混乱するけど、人間なんだなっていう親しみが持てるかもしれない。
あとやっぱり本人が自殺してないから、シリアスになり過ぎないというか。自分含めてシオランに惹かれる人、共感して救われたいみたいな部分もあるんじゃないか。逆に健康で元気なときには響かないだろうなぁと思う。
そういう都合の良いつまみ食いみたいなのを許してくれる思想なのかもしれない。



帰ろうと思ったら事故で遅延していた。この時間に……?
1時間ぐらい待って、折り返しになった電車に乗る。特急が全部無くなってるので通過待ちがない。速い。