別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

240620雑感

服が肌にベタつく気持ち悪さ。もうすぐ降り出すであろう雨は、遅れに遅れた梅雨への入り口になるのだろうか。除湿機が欲しい。

昨日寝過ぎたせいか、あるいは夜にショコラバターサンドなんてカロリーの高いものを食べたからか、一睡どころか0.5睡もできなかったので、朝方の地震にも気付いたわけである。昨日買った突っ張り棒はまだ取り付けていない。土曜日までは大地震が来ないことを願う。

今日はお給料が入る日で、無事銀行の残高が少し増えていた。相変わらずあちこち散財しまくっているものの生活に全くお金をかけていないので、一年間のバイトでようやく7桁を通帳に刻むに至る。今年はあと車検などを乗り越える必要があるため十万単位での増えたり減ったりは見込まれるが、なんとかなる見込みが立ったらようやくパソコンを買って、再び金欠になるであろう。こういう計画性なのでお金がないんです。


今週末に「文芸誌を一年間読んでみるチャレンジ」の報告会が控えているので、2週間以上放り出していた文學界を急いで読み進めている。
朝の電車は眠すぎて無理だったけれど、帰りは急いだら席が取れたので、ずっと読んでいた。

『今日があったという響き』は上半期同人雑誌優秀作。同人誌からも掲載されるんだというのが驚くだったのだが、これは応募制なのだろうか?
なんといってもそのタイトルの響きが好きなのだが、すれ違い別居中離婚寸前の夫婦の物語である。ただそういう状況だけれど重過ぎず、「人と人ってどうしてこんなに分かり合えないんだろうね」というのが、主人公(夫)と妻の弟との交流などを通して描かれている。
ところどころ男二人の距離がけっこう接近していて、そこに何か別の関係を見出しそうになってしまう瞬間もあったが、傷を抱えたもの同士のたどたどしい触れ合いということだったのだろう。
個人的には又吉さんの『生きとるわ』より関西弁が自然で読みやすく感じた。(やはり日常的に東京にいるか関西にいるかの違いだろうか?)


リレーエッセイ「身体を記す」の第五回は田中慎弥さんの『蛇を飼う』。川端や三島の作品における肉体など文学的な話も絡めつつ、自身の希死念慮について語っているところが大いに刺さった。死を意識する一方で命への執着もあって、毎日散歩をしている……という下りはものすごく身に覚えがある。散歩をすることで、「ほんの一時的にでも、この体でこの世に留まっていていいのだと思」える。生きていたいと思えるほど前向きにはなれずとも、死なないでいることができる。
だから、ここ2、3ヶ月散歩も体操もできなくなっている自分は、緩慢な自傷の中にいるのだと思う。


机の上のゴミをちょっと捨てた。これで生きるポイント0.3。掃除機を2週間ぐらいかけられておらず、床に放置した掃除機にうっすら埃が溜まっていて生きるポイント-0.8。間食をしなかったから0.2。
微妙なバランスを保ちながら日々をやり過ごしている。

240619雑感

生命力というか生きることへの希望がプラスとマイナスのちょうど境目ぐらいに立っている感覚があって、今日はけっこうマイナス寄りだったと思う。昼まで寝て、起きて食べて、また寝て、午後の日差しが暑過ぎて起きたら4時だった。
部屋の片付けと掃除と借りてる本の読書を延々と先延ばしして、机の上にはレシートと飲みかけのペットボトルが溜まっていって、そこから目を逸らして都知事選前でいつも以上に分断と排除が渦巻くタイムラインに辟易して、生きる希望のかけらもありゃあしない。

そんな自分が今日唯一できた生きるための行動は、本棚の転倒防止の突っ張り棒を買いに行ったことぐらいである。
もういっそ全てを失ってゼロから人生始めたほうがいいんじゃないかと思う時もあるのだけれど、実際地震が来たら怖いには違いないので。

図書館に本を返して借りた。これも生きることを前提とした営みかもしれない。積読はどうだろうか?


破壊衝動がある。壁を突き破りたい。ペットボトルに水を満タンにして放り投げたい。そんでそのまま飛び出したい。
この部屋とか暮らしとかの中で感じている抑圧感と、先の見えないことへの絶望と、その他色々言葉にできないよくわからない感情でおかしくなりそうになる。
でもそういうものをうまく外に出せないから、寝ることしかできないでいる。適度に発散する方法をもてないでいる。

240618雑感

本棚から本を取ったら小さい虫がさこさこ駆け回っていてうべぁ!ってなった。そりゃあ古本をたくさん買っていたら紙魚とお友達になってしまうのは仕方ないのかもしれないが、昔部屋の中でカマキリと蜘蛛を孵化させてしまって以来、小さい虫が若干トラウマである。もうちょっとメンテナンスしないとダメだなあ。
あるいは覚悟を決めて手放すか。


そんな覚悟も一瞬で吹き飛んでしまう、年に一度の古本市へ行ってきた。

今のところ県内で唯一っぽいこの古本市は、古本屋さんが10軒ぐらい集まって共同主催しているイベント。今年で3回目ということで、会場に漂う本の香りや本を抱えてひしめく人々、そして6月になるたびにドカンと増える積読は地元本好きたちの風物詩になりつつある。
ちなみに一昨年、昨年と行っているが、買った本の読了率に関しては触れないでおきたい。

市にはブックカフェのお店も出店されていて、かなり古い本だけでなくお菓子も売っていた。このお店のお菓子がうめんだこれが。
写真はドーナツカヌレ。午前中に行かないと売り切れ御免の一品である。本棚を周回する人々を眺めながらカヌレを食べるほど多幸感のある瞬間はないで。


余談だが、このイベントでの知り合い遭遇率は以上に高く、まるで自ジャンルの即売会か同窓会の様相を呈することに定評がある。歩けば知り合いに当たる。マジで。それもこれも、地方の本好き界隈の良くも悪くも狭さゆえである。

そんな知人たちと夜に集まって、買った本を自慢もとい紹介する会をやった。

さすがに買ったその日に読了は無理なので、最初に1時間の読書タイムを設けてからのフリートーク。一緒に開催してくれた方がタイムタイマーで時間を測ってくれたので、久々に集中して読書できた気がする。
とりあえずこれで「開かずに積む」というのは回避できるので、罪悪感もちょっと減るわけだ。

いや読めよ。


古本市の熱気に当てられて、ついつい本を買い過ぎてしまう。最近巷では「自制心ロスト」なるものが流行っていて(?)、積読は増える一方である。
今回自分が買ったのは『群像(昭和30年代の)』『罪と罰(光文社3巻セット)』『小説の読み方、書き方、訳し方』『幻想の未来/文化への不満』『失われゆく娯楽の図鑑』そしてヴォルフガング・ティスマンス展の図録である。うん、年始のブックオフツアーと東京書店巡りよりは少ないから大丈夫だね!(感覚麻痺)

ティルマンスの図録に関しては値段が値段なので、正直迷った。そんなに詳しく知っている作家でもないし、どちらかというと写真より現代アートなので自分の理解度を超えている(ただ表紙になっている「Freischwimmer」シリーズはかなり好きだ)。
そんな迷いを抱えていたのだが、知人が深瀬昌久を買っているのを見て私のタガも無事ぶっ飛び、購入の運びとなったわけである。自制心ロストしてゆけ。

240612雑感

日々の暮らしに追われているとでっかくて漠然としたことを考えなくなりがちなので、今日はちょっとそういうのを考えてみたい。

愛とは何か。

 

……という書き出しが昨晩眠る前のメモに書いてあったのだけれど、これは続きを書かなきゃいけないのだろうか?

昨晩の自分が言いたかったことは

  • 矢野顕子の『PRAYER』は良い曲である
  • 恋の歌って多いけど、普遍的な愛を歌う曲ってあまりないよね
  • 恋はしたこともされたこともないから分からないけれど、何となく愛の方が大切そうな気がする

という感じで三行で収まってしまったので、ここからどう展開させるつもりだったのかを全く覚えてないし、眠いから適当に考えてただけだと思う。

 

こんなくたびれた夜にでっかいことを考えるのはハードルが高い。

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自分が何となく恋を下げて愛を上げてしまうのは、恋に対して自分勝手なイメージがあるからだと思う。盲目になるとか、若さゆえの過ちとか、そういうのってだいたい恋じゃん。愛って感じではない。

もちろん愛は愛で歪んだ愛みたいなのもあるわけだけれど、でも自分の中で理想的な愛というのは「祈り」みたいなイメージだ。

PRAYERの歌詞にもあるように、

 

祈ることだけ

今 強く願うことだけ

あなたが 今日も 明日も いつまでも

愛に包まれているように

 

という、極めて個人的な想いだと思うんだよな。

恋っていうと相手に伝えなきゃいけないとか、伝えなかったら伝えなかったで「破れた」みたいな寂しさが付きまとうけれど、こういう愛ってもう完全に自分だけの話じゃん。もちろん伝えた方がいい場面もあるとは思うんだけれど、基本的には相手の顔が見えなくても、あるいはもう会えない人に対してでも、こういう祈りは捧げることができる。そこが何となく崇高に感じられるんだ。

これまでもこれからも恋はできなくても構わないけれど、誰かや何かに対して心から愛を祈れるような瞬間があればいいなあと思う。おそらくそのためには、自分がもっと世界に対して心を開けるようにならなきゃいけないんだけど。

 

来週がもう夏至らしくて、一年って早すぎるなと思った。

240611雑感

毎日毎日眠たい中、立ちながら電車に揺られて運ばれて、バイトして、駅まで急いで乗った電車でまた運ばれて帰ってきて、帰ってくるともう何の余力もなくてTwitterをダラダラ見て結局12時ぐらいになって寝て疲れもあまり取れなくて

という不毛ループから抜け出せない。なぜ本が読めないのか?なんて疑問を挟み込む余地もないぐらいに消耗している。
そんなループのせいでこの半年ぐらいゴリゴリ削られてきた体力がもう限界だ。

もちろん官僚とかバリバリ出世コースのビジネスパーソンとかエッセンシャルなお仕事に携わる方々みたいに命を削って働いているわけじゃないし、世間の同業者の人たちよりもずっと暇な職場で過ごしているのは間違いない。だからこれは仕事が大変というより、自分の体力気力がなさすぎる方の問題なのだ。
誰か自分よりもっと効率よく働けて体力もある人が入ってくれれば、自分なんてもう即御役御免である。でもこんな状態で今の仕事を辞めても他にできることが何一つない。猫の抜け毛を集めて球体を作る仕事があったら辛うじてできるかもしれない。そんなレベル。

仕事の内容で言えば、嫌いよりは好きな方面だと思う。でも好きだからこそ、理想系みたいなのが大きい。一日職場でぼーっと過ごしてやり過ごせればOKぐらいの低めの心持ちでいられない。もっとこういう人に働いててほしい、こういう人材が求められている、みたいなのが薄っすらわかってしまうけど、自分はそういう理想に辿り着けそうもない。

やっぱり黙々作業系の方が向いてるんだろうなあ。少なくとも表に立ったり業界を盛り上げていくタイプの人間じゃないので、裏でひっそりと手を動かすような仕事をポツポツしてるのがいいんだろう。倉庫とか、農園とか。クリエイティブ系は死ぬほど比較して落ち込むので仕事にするのは向いてないかもしれない。

生きるためには働かなきゃいけないんだけど、辛く働いてまで生きていたいともあんまり思えない。
なんかもう、安楽死とか合法にならないかな……という感じで視野狭窄に陥っていく前に今日は早く寝れ。


誰か旭川とか連れてってほしい。ジメジメしてないところにいたら多少はマシになるだろうか。

240610雑感

Q.弊県名物な〜んだ?

エビ? No
肉? No
神社? No

Yes,渋滞。

そう、渋滞である。北からちょっと南寄りの中部ぐらいまで、県内を走る幹線的国道およびバイパスは平日朝と夕をピークにめちゃくちゃ渋滞する。これだけ広く渋滞するのだから、もはやこれこそが真の名物と言っても過言ではないだろう。故に「つんどる」などという、おおむね渋滞に対して使われる方言も存在するわけだ。我が県を通る者は一切の(定刻到着の)希望を捨てよ。

自分はいつも電車通勤なので、そんな渋滞とは基本的には無縁な日々を送っている(電車も電車で混雑してて疲れるが)。
ただ、たまーに荷物を運んだりで車を使う必要があるときは車で出勤し、無事caught in trafficしてしまうわけである。

渋滞にハマったときのGoogle Mapsくんほど頼りにならんものはない。「より早い経路が見つかりました」つって案内されて行ったら、狭い道をジグザグ走った挙句に別の渋滞に捕まったりする。あのまま渋滞の国道走ってた方が早かったんちゃうん?

youtu.be

今日は行きはゆっくり出たからちょっとマシだったものの、帰りが大変だった。10m先に見えてる信号を3回曲がれなかったときはうにゃーってなった。

でもそんな渋滞を潜り抜けた先で、YMOのBGMを聴きながら夕焼けの下を走っている時間はなんとも言えないものだった。

もうこれで今日は終わりって感じなのだけれど、帰ってからも仕事のことがあって今週は休まりそうにない。
諸々が終わったらさ、1週間ぐらい休み取りたいよな。

240608雑感

なんか今泣けそうだな…という瞬間がさっきあった。今日も効率の悪さゆえの残業を終え、空いた電車に乗って、冷えたおかずを一人食べながら情報番組のテーマパーク特集を見ているときだった。
別に「テーマパークに通う人々の明るさと自分の人生の暗さとを比べてしまって泣きそう」とかそういう意味ではなく、なぜか涙腺が一瞬ゆるまった気がするのだ。何かが悲しいわけじゃなくて、ただなんとなく泣けそう。エモい音楽とか聴いたら泣けそう。
普段めったに泣かない、というか本当に半年に一回映画を観て泣くか泣かないかのレベルなので、泣けるときに泣いておきたい気持ちはある。泣いたらリラックスできるというのは本当なのかどうなのか知らないが、感情の波に任せる気持ちよさみたいなのはあるだろう。怒りとか不安は別として。

『映画を早送りで観る人たち』に「感情を使うと疲れるので避けている」というような話が出てきたが、自分もそういうところがある。映画とか観れば普通に泣けるし。日常に感情移入できる対象が無さすぎて泣かないだけで、安っぽい展開でも普通に泣ける時は泣ける。でもあえて泣きに行こうとかはしない。だから、できれば泣ける事象側からやってきてほしい。
泣くことについてばかり書いたけど、笑いとかも同じくそうだ。笑えることからやってきてほしい。

ただ笑いに関しては感度がちょっと低めなので、日常のちょっとしたことで笑える人はいいなあと思う。みんなが笑ってるのに合わせて無理に笑おうとすると「フッ」て乾いた感じになってしまって、面白いのか冷笑なのか分かんない感じになってしまうのが嫌だ。

歳を取ったら感情が出やすくなるという話もあるが、それって要は前頭葉が衰えて感情コントロール力が低下するから、感情が出やすくなるってことでしょ。自分の場合そもそも前頭葉で感情を押さえつけているって感じじゃなくって、無なんだよな。前頭葉まで衰えてしまったら本当に空っぽになってしまう。もうだいぶキてる感じもするけど……。
誰でもいいから、感情を教えてくれ〜。