別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

240914雑感

行けるかな〜と思ったらダメだった。降られた。慌ててレインコートの上だけ羽織ったけど、濡れた。二輪と雨は相性が悪い。
そんな滑り出しだったからか、一日中なんとなくぼーっとした感じで、張り合いがなく、消化試合的な土曜日だった。

8月に燃え尽きてコロナになって以降ずっとぼーっとしてる感じは続いている。


一箱古本市の歩き方』を読んだ。来月は久々に出店するし、ここいらで文脈を振り返っておくかー。という動機で。
光文社新書の2009年の本だが、いまだにブックオフで見たことがない。人気なのか、そもそも少ないのか。

本屋を巡ったり、本屋本を読んだり、イベントに行ったりしてなんとな〜く「本界隈」みたいなものを知ってきた気がするのだけれど、その黎明期の様子が描かれているのが面白かった。今や独立系書店の代表格であるTitleの辻山さんがまだ名古屋リブロにいて、そこからBOOKMARK NAGOYA、現在の「円頓寺 本のさんぽみち」につながるイベントが始まったとか。その共同企画者だった黒田さんと岩上さんが今はON READINGを開かれていて、一箱に参加していた当時はオンラインだった徒然舎さんが今は店舗を持ち、そしてその二組が「岐阜駅 本の市」を運営されている……といった感じで、形を変えつつも脈々と続いてるんだな〜!っていう感動がある。
ところで、著者で一箱古本市提唱者の南陀楼綾繁さん、実は地元にも来ていたらしい。
一度だけ一箱古本市が開催されたらしいけれど、当時は本のイベントに全然興味を持っていなかった、というか完全に自分の中に閉じこもっていたので知らなかった。それはこの本が出た後のことなので、残念ながら書かれていない。

本書が出た15年前と今ではさすがに色々変わっているところも多いと思うが、その中でも特に大きな変化なのが「シェア型書店」の登場ではないか。一応本の中にも岡崎武志さんとか浅生ハルミンさんが「店舗内店舗」で本を売っている、というような話は出てくるのだが、書店の棚が著名人以外にも開かれたのはここ4、5年ぐらいなんじゃないかなーという気がする。
他にも小出版社の開業とか、文フリなどで本を作るハードルがぐっと下がったこととか(本書では「ミニコミ」という言葉が多用されているけれど、これもほぼ死語ではないか)、色々な変化はあると思う。
(ちなみに円頓寺は今年から瀬戸でのイベントも増えて、そちらでは自主制作系の即売会もあるとか。やっぱり売るから「作る」へシフトしてるところはあるのかなあ。一箱古本市も本を売ると言いつつ「自己表現」っぽいところはあるし、根本では似たようなものなのか?)

その辺を踏まえて、もう一度いまの本界隈を俯瞰するような本が出てくれたら嬉しいな。田舎にいるとそういう情報は全然わからないんだもん。



続いて、『文學界9月号』はだいぶ苦戦している。もう10月号が出て2週間というのに、まだ先月の半分のところ。
短歌特集だから楽しく読めるかな〜なんて思ってたら大間違い。短歌だからこそ、難しい。短歌自体を読むことの難しさもあるし、短歌批評を読むのがさらに難しい。今までどれだけ頭空っぽで短歌読んできたんだ、と殴られるようだ。
25日までには読まねばならない。

240912雑感

音楽中毒なので、ぼんやりしている時は大体頭の中で音楽が流れている。今朝の通勤中も昨晩聴いてきた曲を無意識に脳内ヘビロテしていたのだが、ある瞬間になぜか別の曲に変わっていた。なんだかいつもこの場所らへんに来ると曲が変わるような感じがするけれど、何かあるのだろうか……

……というようなことを書こうと朝の時点では思っていた。いたのだが、帰りにもっと衝撃的な出来事があって全部吹っ飛んでしまった。

百均に寄ろうと思ってショッピングセンターへ行った。このショッピングセンターには昔ながらの古本屋が入っていて、カートを押したおばあちゃんが一人で店番をしている(たまに食品売り場の方へ買い物にも行って不在)ような店で、メインはご年配向けの雑誌やら漫画やらだが、たま〜に最近文庫化したばかりの本とかがちゃっかり入っているという、掘りがいのあるお店だった。

そんなお店が、今日行ったら、無かった!
ぽっかりとあいた空間だけが広がっていた!
小さい店だなあと思っていたが、本棚も何もなくなると意外と広いな、と思った!

あああああああああ(泣)


夜と霧の新版も、坂本龍一のエッセイも、文庫版の大阪も、茨木のり子詩集もここで買ったんだよ……。
これを売りに来る人となら仲良くなれそうだなあ、なんて思って。
高校時代は全く見向きもしなかったお店だったけれど、二年ぐらい前に知ってからは、ちょくちょく帰り道に立ち寄っていたんだよ。

そんなお店が、消えちゃった。
というか、自分が知っている地元唯一の(チェーン店以外の)古本屋が、無くなっちゃった。
悲しい。


もっと、月一ぐらいで行っとけば良かった。
……いや、月一で在庫が回転するぐらい盛り上がってるお店ではなかったな。やっぱりなぁ、厳しかったかなあ。
というかおそらく一番の問題はご年齢だったのではないだろうか。最近おばあちゃんしか見てなかったし。

でもある意味で、あのお歳まで古本屋を続けて畳むって、理想かもしれないなあ。いつからやられてたのかは知らないけど。

そして、昔ながらの「街の古本屋」というあり方も、今が潮時ということなのかもしれない。

240908雑感

今週は古本市に2回行って、20冊の本を買い、12,200円の出費をした。

それ以外でもブックオフやらなんやらに行っているので、この2ヶ月の書籍代は下手したら3〜4万円になるんじゃないかと思う。贅沢な一人旅ができる金額じゃないか。怖い。
まあその分、衣服美容食事娯楽備蓄投資にお金を全くかけていないため、安月給でも成り立っているのだ。
一人旅する気力と時間もないし。

こういう蕩尽をするたび、絶対自分は「本を買うこと」中毒になっているなあと思う。本中毒ではない。本を買うこと中毒。買った本の8割はそのまま読まずに詰んでいるし、おそらく今後10年で読む確率も20%ぐらいだろう。なぜなら10年後には別の本を買っているから……。
ソシャゲに課金しすぎるとか、ジャンクなものを食べすぎるとか、そういうのと根っこは同じなのだと思う。


ただ、本は消費しても物理的には消えない。状態が良いまま保存し、ちゃんと売ったら値段がつく。まあ買値の20%ぐらいにはなってしまうだろうが、メルカリとかでちゃんと売れば値段は付く。だから、多少安全な依存とも言えるかもしれない。健全なのかどうかはともかく。
「こんな新しい本がこんな安く!?」で買ってしまうものほど、後々高く売れるかもしれない、という下心があったりするわけだ。でも、そういうのは現代では割と普通なのかもしれない。リセールバリューという言葉もあるのだ。

webtan.impress.co.jp

逆にマンガとか雑誌とか、一度読んで満足する可能性が大きいものほど電書では買わないよね。(電子書籍自体、プラットフォームの何やかんやで消えてしまうかもしれない問題も言われてるし)

ぶっちゃけ、古本よりも新刊で買った本の方が読む確率が高い。高いお金出して買ったんだし、というものあるし、その出費をしてでも今読みたかった本でもあるので、優先度は高くなる(なお、「勧められて買った本」は除く)。
それでも古本を買うのはやはり、「こんな良い本を安く買えた」という満足感、「これはどこかで聞いたことがあるから持っておこう」という所有欲、「本棚に違う本が並んでいる状態にしたい」という情報の新規性への欲求……と言ったところだろうか。

本当にめちゃくちゃ読みたくて買っている方には申し訳ないような理由だが、それでもやっぱり自分は本を買い続けてしまうのだろう。
これは一種のアディクションである。自分の抱える寂しさ、欠乏感、その他諸々の不安と死にたさが、本を買う瞬間には消える。だから、本を買うほど、おそらく私の寿命はちょっと伸びる、かもしれない。
そうであれば、3万円の出費もやむを得ない、ということで納得させていく。

240907雑感

t.co

朝の電車の中で聞いていた。9月1日の深夜に放送されたローカルFMの特別番組。翌日2日から二学期が始まる学校が多いので、そのしんどさに悩む人たちへのメッセージ。
ローカルなので普段はこんな時間に独自番組を配信していることもないし、というかそもそも独自番組自体もそんなに多くないのだけれど、それでもこうやって特別枠を作ってこの番組を配信したというのは凄いことだと思う。県内だけじゃなくて、もっと幅広い人に聞いてほしい。

番組では中学時代に不登校だったアナウンサーの代田さんが自身の経験を語ったり、届いたメッセージを読み上げたりしていた。「学校に行けないのはダメなことじゃない」というメッセージを、多くの方が寄せられていた。
自分自身が学校に行けなかったとき、こういうラジオを聞けていたらよかったなあと思う。

いや、もしかすると今でもずっとそういう言葉を求めているのかもしれない。


人生のあらゆるフェーズでドロップアウトを繰り返してきた自分には、「でもあの時のおかげで今があるんだよ」みたいな過去の肯定はまだできそうにない。
今から考えると、どうせついていけないと分かっているのに、なぜそこまで社会にしがみつこうとしたのか。その時はそうせざるを得なかったのだけれど。それでも、あそこで無理やりレールに乗ろうとしていなければ、こんな傷つくこともなかったんじゃないかと思ってしまう。


『平熱のまま、この世界に熱狂したい』を読んだ。すごくサラッとした文章。カバーの爽やかさとマッチしている。
解説で「距離の取り方が上手い」と書かれているけれど、これはやっぱり宮崎さんが自身の「寂しさ」を受け止められているからこそ、自己愛が過剰になるのをセーブできているのではないかと思う。狂気でごまかさず、正気で世界に向き合うこと。自分なりにしっくりくる言葉で言い換えるならば、躁の勢いに任せず、鬱の穴の底に陥らずに生きるということ、だろうか。
私はまだガッタガタ。1週間の2/3は鬱で、残り半分が躁である。「平熱」と言えるような状態は、本を読んでいる時ぐらいしかない。結局それは自意識が後退している場面なんじゃないかと思うんだけど。もう一生自意識とか出てこなければいいのに。無我。悟りてえ。

240906雑感

ここに一つの哲学的問題がある。

すなわち、「私は記憶を失っても私なのか?」

頭、大丈夫ですか?

先日とある会で台本を読んだ時に、私が読むべきだったト書きの部分を飛ばしてしまうということを何度も繰り返してしまった。
確かにそこにはト書きが書かれているのだけれど、流れを追っていてもなぜか飛ばしてしまう。読めない。
というか、台本に書かれた文字と周囲から聞こえてくる音声が一致しない。視覚と聴覚がつながらない。

脳機能、大丈夫か? とちょっと不安になってしまう感じだった。

そう考えてしまうのは、「脳を全然使ってない」という後ろめたさを常々感じているからだろうか。ここ一二年、ほとんど「頭を使う」的なワークをやっていない。
パズルとか、議論とか、工夫とか、課題解決とか、そういうことをぜーんぜんやってない気がする。全てその場その場のノリ、というか場当たり的な対応と、極力面倒なことはやらない。嫌なことがあったら寝る。みたいな、超低負荷な活動を行っている。それはそれで幸せなのか?

二年ぐらい前まではSwitchの脳トレとかやってたんだけど、「脳トレしても脳トレが早くなるだけだよ」みたいな言説でモチベーションを削がれてやめてしまった。
全く何の役にも立たないってことは、ないと思うんだけどな。

ともかく、そんなんだから自分の脳はかなりパフォーマンスが落ちちゃってるんじゃないか? という疑問があるのだった。

私とは何かを巡るぐるぐる問答

体力に比べると、思考力というのは変化を捉えるのが難しい。体力が落ちてできなくなったことは思い浮かぶが、思考力低下でできなくなったことはパッと思い浮かばない。それは思考力が落ちていないということじゃなくて、今これを考えている自分自身が、低下した思考を持ってこの問題について考えているからだ。
つまり思考力が落ちることで、思考の限界外にある物事については考えられなくなってしまうのではないか。(なおここでいう思考力とは「記憶力」とは別のものとして考えている)
たとえば認知症の人が自身の認知症について認識できない、とかいう話を聞いたことがある。それって結構怖くない?

この「怖さ」について掘り下げてみると、どうもそれは「知らない間に自分が変わってしまっている」ことの怖さなのではないかと思う。
知らない間に思考力が落ちた。
知らない間に怒りっぽくなった。

自分のことは自分が一番知っている……というのが成り立たなくなるわけだ。コントロール不可な存在としての自分。他者としての自分。なんかそういうの。

しかしよくよく考えてみると、いったいいつどこに「不変の自分」なるものが存在したことがあるだろうか?
幼稚園の頃の自分と今の自分は同じか? 違うやろ。
中学二年の自分と高校二年の自分は同じか? 否。
どちらも「自分」ではあるが、その間には大きな隔たりがあるように思う。すなわち不変の自分は存在しない、ということになる。

「私」は一体いつ変化しているのか?

では、いったいどのタイミングで以前の自分は今の自分になったのか?
そりゃ毎日少しずつ変化しているには違いないのだが、しかし5分前の自分と今の自分は「同じ」感じがする。少なくともこの文章を書き始めてから30分ほどの間、自分は変化していないように思う。というか、「変化」って認識できるものなのか?

ここで一つの仮説というか妄想を提示してみたい。人は、意識を失っている瞬間に変化するのではないか?説である。
わかりやすいのは睡眠時だ。寝る前の自分と寝た後の自分。ここにはものすごく小さな断絶があるような気がする。
夜はめちゃくちゃ死にたくて、存在しない方がよくて、周りにとっても迷惑でしかなくて、何の価値もない自分だったのが、朝になったら「まあ生きてるなあ」ぐらいの自分になっている。人から見ると違いが分からないかもしれないが、自分の捉え方としてはやっぱりちょっと変わっている。まあ、夜になったらまた死にたくて(略)だが。

いや、もう少し細かく考えることもできるだろう。そもそも「私」という自己イメージについて認識するのは、自分が自分について考えている瞬間、すなわちメタ認知を行うタイミングである。逆にいうと、それ以外の時間、「私」という存在は意識の奥の方に後退しているのだから、そこで変化が起こっていたとしても認識できないのではないか。

「私」とは刹那にしか生きられない存在なのではないか?

そろそろ自分でも何書いてるのか分からなくなってきたので、もう一度最初の問いに戻りたい。

「私は記憶を失っても私なのか?」

いろいろ考えたけれど、今の自分がこの問いに対して答えるならば、答えはYes だ。
なぜならば、「私」というのは今ここにしか存在できないから。

自分は変わった、と感じる時、その比較対象は必然的に過去の自分である。もちろん過去のその時点において「私」は「私」であり、今現在であっただろう。しかし、それは今の「私」からすると過去なのである。今の自分が過去の自分を実感として感じることはできない。今の自分は今の自分であり、それが「私」である。
ややこしくなってきたが、もし仮に自分が記憶を失ったとしても、その時に感じられる実感がその時の「私」の全てだろう。

だからね、変わるとか思考力が落ちるとかを不安になったりしても、あんまり意味ないんじゃないか。という感じの結論。

本当に怖いのは、もう若くないのに若いと勘違いしてしまっているおじさんになることである。
つまり変化を認識できているならまだ大丈夫、なのではないか。知らんけど。


240903雑感

そうか、今の自分に足りないのは「安心」なんだ——というようなことを帰宅中に考えていたら無性に悲しくなってきて、原付に乗りながらちょっと泣いた。

朝、起きられないのも、体を動かそうと思えないのも、人に会ったり話したりするのが不安なのも、今までできていたことが続けられなくなったのも
そのどれもが「安心」あってこそ、つまり健康があって運動ができるように、安心があって初めて社会ときちんと関わることができるのではないかと思う。

安心とは、自分が自分らしくいるために保証されているべきものなのではないだろうか。


自分自身の安心を考える

安心というのは、健康のように何らかの観点から数値化できないものごとだ。自分にとっての安心は自分にしか分からない。巷に溢れる「リラックス法」を試したところで、それが安心をもたらしてくれるかどうか、判断できるのは自分だけだ。
適温のお風呂に30分ゆっくり浸かったらリラックスはできるだろうが、それで今の自分は安心できそうにない。

不安の無限ループ

安心できていない、つまり不安な状態になっていると、それがどんどん深まっていってしまう。
たとえば自分は不安な時ほど、「理想状態」から外れることに耐えられなくなる。計画が思い通りに行かなかった、誰かの行動が自分の思っていたものと違った、そういった些細な「イメージとの違い」にダメージを受け、全てを投げ出したくなってしまう。そしてより一層不安に落ち込んでいく。
あるいは、不安な時ほど片付けができなくなって、物を溜め込んでしまう。心理的な不安を物理的な密着で補おうとするのだろうが、結果的にそれはまた別の不安を呼び込んでしまう(失うことへの不安、地震などの不安)。
つまり、不安に陥っているほど不確実性への耐性が弱くなるとも言える。

ずっと寝ていたいと思ってしまうのは

不安な時ほど寝ていたくなるというのは、意識を失って不安な思考を止めたいというのもあるけれど、寝ることで布団や床に「触れる」ことから得られる安心感を求めているのも大きい理由だと思う。物理的な接触はが生む安心感は大きい。
本当は人と人との触れ合いが最も効果的なのだろうが、あいにく仕事的にも個人の人間関係的にも、触れ合う要素がほぼない。
ふれあいの機会があるとすれば、マッサージを受けるぐらいだろうか。

安心の詰め合わせを作っていくしかない

安心とは比喩的にも実際的にも家や寝床のようなものだろう。十分に寝られる環境があってこそ、日中の活動を満足に行える。
たとえ安心安全な睡眠があったとしても、それが一回きりでは意味がない。安心は持続されなければならない。そして、「これをすればすぐに安心!」というような手段もない。あったとしてもその効果は疑わしい。
だから、少しずつ安心を構築していく必要があるのだと思う。

自分はよく「ルーチンがうまくいっている/いっていない」という話をしているが、それも安心の一つの要素だろう。ルーチンや習慣を作るというのは、日々の不確実性を下げていくということ、つまり安心である。

240831雑感

人生で9月1日が楽しみだったことがない。子どもにとっては夏休みの終わりだし、大人にとっては特にこれがあるというわけでもないので、やっぱり楽しみじゃない。

夏休みの終わりは子どもの自殺率が上がる、というようなことを樹木希林さんが書いていたような気がする。一応文科省の統計を確認したが、やはり9月1日は突出している。

18歳以下の日別自殺者数

自分も夏休みの終わりは死ぬほど辛かった。結果的に死にはしなかったけれど鬱になったり学校辞めたりしたので、満身創痍にはなっている。
人間が勝手に決めた日付とか学校とかのシステムに殺されかけるなんて、よくよく考えたらめちゃくちゃ理不尽だなと思う。

オルタナティブがあり、いつでもそれを選べるという実感があるということ、あるいは周囲がそれを示せるというのが大事なんじゃないかなと思う。
今めちゃくちゃ死にたくなってる自分が言っても全然説得力がないけど……。


『ウォーキングの科学』を読んでいると、鬱って結局生活習慣の問題による「慢性炎症反応」なのではないかみたいなことが書いてある。もちろんブルーバックスだから実際はそんな短絡的な感じじゃなくて、化学式とグラフてんこ盛りで関連性が示唆されているわけなのだが、生きるとか死ぬとかどうでもいいからやっぱりウォーキングはやったほうがいいよなあと思える。

筋力低下→動けない→余計に鬱になる→さらに動けない

そんな泥沼に入っているのは十分承知している。
本当にだるい。動くことがものすごい億劫。そんな状態からでも始められるインターバル速歩があるんですか。

徒歩圏内にブックオフがあれば毎日続けるモチベーションになるんだけどな