昨年9/30から一年間の予定で始めた読書日記、最後です。
明らかに今年の6月ぐらいから失速してるし、20日分ぐらいは当日書けなくて翌日以降に思い出して書いたりするし、というか365日中40日ぐらい読めてない日もあった気がするけど、まあ終わったのでよし。

最初(めっちゃ読んでる)
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前回
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9/23
『文學界』2025年8月号より、小川洋子×n-buna「すべてのものが移り変わり、歌だけが残り続けてゆく」を読む。
いつの間にか単行本が出ていた『サイレントシンガー』について。これは買わなきゃ。
日常会話を書くのは難しいから家族は苦手というようなことを小川さんが仰っていて、意外だけれど確かに言われてみればという感じがした。
そしてこれは読む方としても興味深いテーマだと思う。自分は疲れてダメになってる時のほうが日常会話が飛び散らかってるようなものを見たり読んだりしている気がした。逆にある程度落ち着いているときは、小川さんみたいな落ち着いた会話をじっくり読みたい。
9/24
生活リズムが完全に壊れてしまい、日中はほとんど寝てて、夜中まで動画を見て、3時ぐらいに風呂入って4時前に電気消すみたいなことになっている。
神前暁さんが「God Knows…」解説してる動画を見た。サビがあの形になるまでの変遷が見られてすごく興味深い。
だいたいサビって伸びやかになって音数が減ったりするけど、あの曲になぜそれが合わないのかというのが非常によく分かった。
あと楽器(特に鍵盤)で作ったメロディは歌に合わなかったりするというのもすごい実感がある。
youtu.be
9/25
2時間ほどしか寝てないので当然死にそうな朝。いつも以上にふらっふら。
ついに彼岸花を観測。一昨日の通勤時にはまだ気付いてなかったので、昨日ぐらいで一気に咲いたのだろうか。一年が回ってきたなという感じ。それにしても今年はいつも以上に雑草が刈られておらず、あちこちボーボー。暑すぎて誰もやりたくなかったのかもしれない。
日中はまだ半袖でいけるけど、原付乗るときは何か羽織りたいぐらいの気温。寒暖差にやられて鼻炎はぴえん。
文學界。大森静佳『あらゆる「迷子」に捧げられた鎮魂の物語り』を読む。『サイレントシンガー』の書評。
この作品の持つ独特の空気感を「寓話性」というところから読み解いている。特に、「アカシアの野辺」の人々の大人しさと対比的な羊たちの振る舞いについての考察はなるほどなぁと思った。
最後に和歌と結びつけて「共有」するための歌という話に持っていくのはさすが。
9/26
文學界より、町田康「覚書」を読む。気に入らないことがあるとすぐ殺したり爆破したりする兄と、彼に振り回される弟のロードノベル的な何か? いつもの感じではある。
9/27
文學界より、鳥飼茜『今世紀最大の理不尽「今日から法律が変わりました」』を読む。目次を見るとロングエッセイというくくり。
法律婚で二度苗字が変わり、二度目の離婚後に前の夫の苗字に戻そうと思ったら、手続きに行った日に法律が変わって書類が使えなくなっていた……という著者。
自分はおそらく死ぬまで苗字もなんも変わらず行く人間なので、この境遇を想像したことはなかった。名前を変えるってこんなに大変なんだ。
苗字を変えた側だけがあらゆる面倒な手続きを一手に引き受け、その相手の家の中に新参として「お邪魔させてもらいます」プレイが始まり、離婚すればまた同じ手続きを一からやり直す。
(P110)
選択的夫婦別姓は本当になんでこんなに進まないんだろうなと思う。
9/28
休みの日はいつも天気悪い……と思っていたら晴れたので洗濯をして図書館に本返して借りて部屋の片付けと掃除をした。ようやくという感じ。ここ1ヶ月ほど、虚無すぎて換気すらしていなかった。
最低限休まるほどの整理ができたので、文學界を読む。
小野正嗣「空き家の妊婦」。ものすごーく田舎の閉鎖感を書いた作品だった。いやここで終わるの!? もうちょっと、救いを……。
中心人物である祐介と視点人物?の「私たち」というのがどうも違うような気がするが、最後まで読んでもあまり分からなかった。謎が多い。
頭木弘樹「痛いところから見えるもの」は最終回。もう単行本も出てるし。早いな。
ラストは様々な著名人の痛みについて。最後が笹井宏之で締めくくられているのも良い。
高瀬隼子「鉛筆の瞑想」。派遣の試験監督として私大の受験会場で働く主婦・工藤。仕事仲間には毎年の顔馴染みもいる一方で、今年は呼ばれていない人もいる。どうやら鉛筆を忘れた受験生に筆記具を貸してしまったことが問題とされたらしい。
何事もなく試験が終わるのを望む工藤だったが、ある女子生徒から話しかけられ……。
試験の緊張感がリアルに描かれていてきゅっとした。
9/29
『文學界』の続きを読む。
今月のエッセイは駒田隼也「カメパンはまだありますか」。今年で30になる著者が平成という時代を振り返る。同い年だ。
何だかよくわからない平成という時代に育てられ、それは天皇の生前退位と共にそっけなく去っていった。そのインパクトさえ後のコロナ禍ですぐに上書きされて、平成という時代自体がそこで隔離されたみたいに、思い出すことに実際以上の距離が生まれてしまっているような気がする。
(P166)
音楽とかでは割と平成っぽさってあるけど、それ以外ではなかなか思い浮かばないよなー。
ビートルズの「Free As A Bord」発表の話とかも出てきて嬉しい。
ちなみに駒田さんといえば先週読んでた『鳥の夢の場合』だが、そのオマージュ元の一つが「トンビにカメパンぬすまれた」らしい。……どのへん!? たぶん直接的なオマージュではないだろうけれど。
ちなみにカメパンはこれ。
youtu.be
大木芙沙子「篝火」はファンタジー感もある作品。天から降りてきた「火」であり、動物や人間、岩などさまざまな「かたち」に姿を変えながら長い時を過ごしてきた「わたし」のパートと、ときおり誰かに名前を呼ばれたように夢から覚めることのある「あなた」のパートが交互に綴られてゆく。
まず神とか妖怪とか精霊じゃなくて「火」そのものというのが斬新。ときには誰かの胸を温め、またあるときには無理やり犯してきた男を燃やし尽くしてしまう。神話的スケールだが、女性の受ける痛みという部分にフォーカスされているのが現代的だと思う。
現代を生きるシングルマザーであるところの「あなた」のパートは、初めはどこか不安な暗さも感じるのだけれど、最終的に命を肯定するような温かみがあってよかった。というか「あなた」はぜひやゑの生まれ変わりか別世界的存在であってほしい。
計算違いで一日足りなかったので明日はアディショナルタイムとする。
9/30
仕事で一日中移動の日。かばんに文庫入れていたけど、運転してたら当然読めるはずもなく。
22時ぐらいに帰宅して諸々をし、23時前に『文學界』を開く。
恒例の文フリレポは古賀及子さんと坂崎かおるさん。毎度すごい。
そして今回はなんと行ったイベントのレポということで、あの空気をこの方たちの文章で読める幸せ。たとえば古賀さんはこんなふうに書く。
天井がやけに高く、頭の上の空間は無のまますかすかで、地面の雑多さとの差異があまりに激しい。
(P214)
光景が甦ってくるなぁ。
それにしても毎回各々10冊ぐらい紹介してるのに、自分が買った本と被らないのがすごい。そして「うあー、そんな本があったのか!!」と悔しくなるのもお決まりである。
リレーエッセイ「身体を記す」は済東鉄腸『もしかして「体育」と「運動」って違うものだったのか?』。このシリーズは久々というか、もう終わったものだと思っていた。どうやらまだ続くらしい。
動画で見た懸垂にチャレンジしたく、まずは公園で逆上がりに挑む話。子どもの頃の「体育」のトラウマに苛まれる件は非常に共感がある。
鈴木涼美「小さなひと」は娘を預けるシッターや一時保育を利用する話。親の最期の時期に優先順位を間違えたから今度こそ間違えたくない、という決心が印象的だった。
生後間もない子を預けたり見てもらうのってかなり大変なんだと知った。
宮地尚子「痛みからの解放」。山からの下山時に小指を痛めてしまっていたが、改善方法を調べ始めて色々なことを知った話。
「痛みは、学びを促すシグナルである」(P242)。調べた一つのことから色々広げていけるのがすごいなぁと思う。
九段理江「AIの心、作家の体」は台湾とトリノのブックフェアに招待されたルポ。芥川受賞後「AI小説家」とみなされているという話が面白い。ちなみに『広告』の95%AI作品はAIという部分だけに注目され肝心の内容に言及が少ないと……。ごめんなさい、積んでました。読みます。。
台湾には「命運交織的旅店」なるプロジェクトがあり、操作者がいくつかの質問に答えることでAIが小説を出力し、レシートみたいなので出てくるらしい。これはめちゃくちゃ面白い。文フリでレシート出力やられてる方はいたけど、このパターンはまだ無さそうかも?
トリノのフェアではめちゃくちゃインフルエンサーからインタビューを受けていて、読書系インフルエンサーがそんなポジションにいるんだなぁと思った。というか日本の文学界隈はインフルエンサー的なものへの抵抗感がまだ強いのかもしれない。
片岡大石「時間という公然の謎を生きる——坂本龍一と時間の問い」は、坂本龍一が晩年に発表した舞台やインスタレーションから、時間を解体しようとする試みを読み解く。たぶん実際の作品を見たとしてここまで考えられないだろうし、夏目漱石の時間論と絡み合わせて様々な時間観を思索するなんて無理なので、やっぱり批評って凄いなぁと思った。
松尾スズキ「家々、家々家々」は2010年代ごろの話。ほどほどに波風のある人生を歩まれていて面白い。
渡辺祐真「世界文学の冒険」。今回は詩経について。四書五経の一つということぐらいしか知らなかったので勉強になった。儒教の経典となったことによる解釈の限定(遊び歌みたいなものまで教訓として読まれるようになってしまった)とかの話はなかなか興味深い。
王谷晶「鑑賞する動物」は今回もキレッキレで良い。『サブスタンス』という映画についてだが、映画知識が多いほど楽しめる一方で何かを見落としてしまう、という凄い作りなんだなと思った。
江崎文武「音のとびらを開けて」はブラッド・メルドーについて。名前はかろうじて聞いたことがあるぐらい…だったので、読みながら聴く。
藤野香織「でももうあたしはいかなくちゃ」は映画館の個性的な人々が書かれていて面白い。エンドロールだけ見る人とか、暗い中で新聞読んでる人とか…。もったいないとも思っちゃうけど。
ショートエッセイ「窓辺より」に野口理恵さんが書いている。今号、あまりにもエッセイ界隈すぎるぜ。「母の顔」という題なのだが、英語では“Remembrance”と書かれていて、やっぱりここは英題というよりサブタイトルなんだなと思った。
金川晋吾「でもだからこそ日誌」は日記を書くことについて。同居人の映像作家・斎藤玲司さんはずっと日記を書かれているらしいが、なかなかそれはできないよねという話。日記は誰でも当たり前にできることじゃなく、「記録することへのよくわからない執着をもっている人」しか続けられないというのは確かに。
井戸川射子「舞う砂も道の実り」はワオスリ病気回。
仕事とは自分より人のことを気にかける時間だ、それゆえ子育ては仕事だった
(P302)
と考えるダエ。確かにそうなのかもなぁと思った。
そしてまさかのここでイフンが離脱。また戻ってきそうな気もするけれど……。
久々すぎてあんまり覚えていないのは、松浦寿輝「谷中」。傷心の画家が谷中という地に癒される場面だった。物語の展開よりも哲学的な内省に重きが置かれている感じがする。
新人小説月評はグレゴリー・ケズナジャット(三田文學)、清水裕貴(すばる)、坂崎かおる(GOAT)の三作。竹永さんが書かれているが、この作品数ってその月に新人が発表した作品数そのものなのか。編集部が選んだ数とかじゃなくって。というか「新人」の定義ってなんだ……?
褒めの菊間さん、指摘の竹永さんという感じでバランスが良い選者になっているなと思う。
福永信「円城塔の日本史的自由自在」は『去年、本能寺で』評だが、相変わらず紹介されるあらずじだけでは全く内容が想像できなくて良い。今度はAIブッダじゃなくてAI細川幽斎らしい。分からん。
この文章自体が真面目な書評かと思ったら途中からだんだん軽くなってきて最後はオチた。ツッコまんぞ。
松浦寿輝「遊歩遊心」、今回はものすごくタイトル回収な回だった。散歩中に出会った石碑により初めて知った画家、月岡芳年について。
ということで時間はかかったけれど『文學界』は読了。ショートショートで色んな作家の文章を読め、創作も読み応えがあり、エッセイや批評も面白かった。間違いなく当たりの号。電子で買えるのでぜひお勧めしたい。
で、一年間続いた読書日記と私の20代が終わる。10代最後の時みたいな感慨もなく、まあそんなもんかという感覚だけど。最後の年に何やってたか? 本をほぼ毎日読んでた。というのは分かりやすいし達成感もあって良かった。
正直30までには死ぬと思ってたけどな。生きたな。
そんなもんなんだろうな。