別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

240426雑感

彼女ができた友人が変わってしまったことに文句を言うのは筋違いだ、みたいなツイートを見かけてそうだよなあと思う一方で、自分の中にもそんな気持ちはちょっぴりあるなとも思う。友人が結婚したときに、おめでたい気持ちがある中で、ちょっとした寂しさも感じていたはずだ。もちろんそんなこと本人には言わないけど。(たぶんここも見ていないし)

先の投稿かその反応には「人が変わらないことを期待するのは自分勝手」みたいなことが書かれていたけれど、自分はまさにそうやって他人を理想化したり期待したりしてしまう部分が大きい。自分を下げるのとセットで。
そんな卑屈な依存癖も三十年近く続いてきて、これはもう今後の人生でもそう簡単に抜けないんだろうなと思う。だから一対一の深い関係性とは極力距離を置いて、ふわっとした知り合いの輪っかの中でだらだら生きていければいいなあ。

昨今は、色々な関係性がどんどん社会的でクリーンなものになっている気がする。
親しき中にも礼儀ありってことだけど、究極にプライベートな恋愛的な関係性にも、倫理が問われる場面が増えているのでないかと。
めんどくさいとかつまらないと思う人もいるかもしれないが、個人的にはそういう方向へ進んでくれることはありがたい。

240425雑感

電車で席が空いたとき、目の前ならあまり迷わずに座るのだが、少し離れた場所だったらちょっと周りの様子を伺って、座らなさそうだな……と思ったらいそいそと歩いていって座ったりする。
そうやって確保した座席でタブレットを開いてカタカタキーボードを叩いている人物をお見かけしたとすれば、それはおそらく私である。

日が長くなって、帰宅の電車に乗る18時過ぎごろにちょうど夕日が差し込んでくるようになった。背中にオレンジのぬくたさを感じながら、線路沿いの家の壁に投射される自分の影を見ていると、指で人型を作って走らせたくなることもあるよね。いつまでも少年だから。

こんなことを色々考えているのは、通勤用に持ってきていた本を朝の電車で読み終わってしまったからである。もうすぐ終わるなあと思っていたけれど、やっぱり片道だけで終わってしまった。だからといって、少ないから家で読もうなんて思っていると、その十数ページがなかなか進まないのだから、困ったもんである。
ともかく、こうやって本を読まずに電車に乗っていると、40分の道のりがものすごく長く感じてしまう。本を読んでいると、だんだん没頭できてきたなーというぐらいで最寄駅に着くので短いのだが、読むものがないとまあ長い。かといってこの神聖な、一日のうちもっとも読書に集中できる時間帯をタイムラインに溶かすのは嫌だ。だからせめてもの抵抗として、書く。

読書のことを考えていると、今月まだ1ページも文學界を読んでいないことを思い出してしまい、軽く絶望した。漠然と一箱古本市で店番しながら読もうかな〜というのはあるのだが、それにしても。帰ったら読もう絶対読もう。最初の1ページを開くことが肝心だ。


いつもの如く時系列が混乱しているが、昨晩のことを少し。
人生で初めて戯曲を読んだ。お題目はチェーホフの『かもめ』だった。今までの人生で演劇をやったのなんてそれこそ小学校の六送会だったかなんかで十年以上前のことになるはずで、そんな演劇から縁遠い自分が戯曲を読むことになったのは、周りの人々が嗜む戯曲や舞台というものに憧れがあったからだ。

何かを演じるということには、複雑な思いがある。なんか前にも書いたような気もするし、長くなるので割愛するが。

———ここで駅到着。20分原付に乗り帰宅———

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240423雑感

引っ越しを終えたはずの知人がこちらに戻ってきていた。なんでも引っ越し中に処分できなかったものを整理しにきたとか。そんなこともあるんだなあと思いながら、不要なものを頂いたりして、そのあと一緒に王将へ行った。
引っ越し先には大阪王将しかないらしい。これからしばらく食べられなくなる王将の味を十分に味わいながら、知り合ってからの二年ぐらいのこととか、ちょっと先の予定のことなんかを話した。以前にお別れしたときにはもっとたくさんの人がいたので、今回は一対一でじっくり話せたのが良かった。

意外とアイドルが好きとか、学生時代はどんな学部にいたとか、今の今まで知らなかったことも多くて驚いた。自分は誰のことも全然知らないんだなあと思った。


そんなちょっとした青春みたいなことをやっていたのが昨日で、今日は特に何もなかった。雨が降っていたので傘を持っていったら、職場のあるあたりでは全然降っていなくて結局使わずだったりした。

先日のヴィヴィアン・サッセン展で、スライドのBGMに流れていたのが“Boards of Canada”というアーティストだと知った。聞けば聞くほど展示に合っていたなあと思う。ご本人が選曲したのだろうか。


www.youtube.com

読んでいる本に「書店を開くならば二年ぐらいは心配しないでいい貯金があったほうがいい」みたいな話が出てきて、じゃあ無理やな、となった。二年どころか二ヶ月持つかどうかという雀の貯金……(なお、開業にかかる経費は考えないものとする)。結局世の中金なのか。

そんなことを考えていると全然辛くなってくるので、昨日始めたウクレレをポロンポロン爪弾く。ギターは指が痛いしちゃんと抑えられなくてガスガス鳴っちゃうけど、ウクレレはなんとなく抑えてたらそれっぽい音が出るので楽しい。『風になる』とかを弾きたい。

240421雑感

ヴィヴィアン・サッセンについて書かねばならない。私が今日費やした5000円前後の交通費、700円の食費、1500円のチケット代は全てサッセンのためであったと言っても過言ではない。それぐらい強烈な体験だった。ヴィヴィアン・サッセン。


休日の朝なのにいつもより早く家を出なければならないというのがもう憂鬱すぎるのだが、行くと決めたら行く。その程度の意志力はかろうじて残っているらしい。
ただ毎度の如く何かを忘れる自分は今回モバイルバッテリーを不携帯。私のスマホはすでにバッテリー容量80%で、家と職場を往復する分では特に問題ないが、遠出をすると一日は厳しい。いや、なんか行きの電車の中ですでに50%代になっている。無理じゃん。

出鼻をへし折られつつも、なんとか京の地を踏んだのは11時前。近鉄から地下鉄の乗り換えは初めてだったのだが、向かい側の電車に乗るだけだったので楽ちん。やはり観光客は多くて大変だあと思ったけれど、東山で降りると思ったより人通りは少ない。
何度か歩いているはずの坂道を上り、でかい鳥居を目印に神宮方面に向かう。ちっちゃいギャラリーなんかには何度か来ていたものの、京セラ美術館は初めて。向かいの近代美術館では富岡鉄斎、そして京セラ美術館はではお目当てのKYOTOGRAPHIEの他にジブリ展をやってたもんだから、どえらい人がいた。あの行列は絶対並びたくないなぁと思いながら、写真の方はすんなりと入れる。

京セラでは川田喜久治展と、川内倫子潮田登久子の展示を観た。
川田さんは御歳91歳でありながら、バリバリ作品作ってインスタなんかにも投稿していてすごい。初期の作品からインパクト強めで社会派のものが多いのだが、近作はカラーの多重露光やコラージュ的なスタイルで、これがすごい。言葉にするのが難しいのだけれど、スナップ的な感覚の延長にありつつ実験性とメッセージ性が高い作品。

続いて潮田さん。以前「日本の写真家100」的な展示を観たときに知ったのだが、代表作は冷蔵庫の定点観測シリーズである。様々なご家庭の冷蔵庫の外観と、扉を開いた様子の写真がセットでズラッと並んでいる。冷蔵庫のトポロジーだ。
ざーっと観ていて何となく法則性が感じられたのは、「書類をベタベタ貼っている冷蔵庫の中身はだいたい汚い」という、まあそうだろうなというもの。実家のも……。
作品が撮られたのがおそらく四十年ぐらいは前なので、微妙にレトロな冷蔵庫のフォルムや中身の食品がかわいい。今の冷蔵庫って、かわいくないよね。
またインスタレーション的に、子どもの遊んでいたおもちゃなんかが飾られていて、これも刺さる人には刺さるだろうなぁと思った。

続けて川内倫子滋賀県美の『M/E』以来だが、今回は祖父が亡くなるまでを撮影した「cuicui」と、子どもの成長を撮った「as it is」に絞られた展示だった。
個人的にas it isは結構好きなシリーズで、他の作品では「生と死」の「死」の生々しさが結構あったところが、このシリーズぐらいからは「生」の方に重きが置かれていて、見ていてすごく幸せになれる。
そして展示方法。ただでさえキラキラしてる川内さんの写真を光らせるのはもう、ずるいよ。最強だよ。

以前の展示の時に知って驚いたのだけれど、川内さんは写真を撮る際にほぼ動画もセットで撮っている。あのキラキラの画面がそのまま動く映像で残っているのだ。これがもうすごい。
今回は「as it is」のお子さんが生まれてから3歳ぐらいまでの成長の映像が投影されていて(所々に虫とか自然とかが挟まれるあたりが実に川内さんらしい)、これがもう本当に良かった。こんな幸せで美しい映像があっていいのか。猫と戯れるこども、羽化するセミ、木々の中を舞う綿毛……こんなふうに世界を見ることができたら、ずっと生きていたいと思えるんだろうなあ。センスオブワンダー。

自分はすぐ影響されるので、美術館を後にして歩きながら撮った写真がさっそくもう川内さんっぽかった。

そしていよいよ、語らねばならない。ヴィヴィアン・サッセン。今調べたところ、自分が展示を見ていた時間にちょうどご本人によるワークショップが行われていたようだ。ヴィヴィアン・サッセンから直に教えを乞うの、贅沢すぎる。(もちろん、お値段や参加条件も贅沢である……)

まずすごいのは、会場の京都新聞地下である。九年ぐらい前まではここで新聞を刷っていたらしいが、新聞工場ってこんなにメタルでサイバーパンクなのか!? という無機質な感じ。そこにサッセンの原色バリバリの作品が並んでいると、もうとにかくインパクトが強い。映像インスタレーションの重低音や朗読の声が響く地下空間は、完全に日常から切り離された異界である。

正直に言うと、そこまでヴィヴィアン・サッセンという写真家について知らなかったし、あえて写真を見ようとしたこともなかった。だから実際のプリントを見たのは初めてなのだが、もうとにかくめちゃくちゃ写真が上手い。

ハイライトは飛んでおらず、シャドウは潰れておらず、なのに眠くなくて引き締まっている。一体どうしたらこんな写真が撮れるのだろうか。機材がいい、というのももちろんあるだろうけれど、何よりも光と色彩への微細な感覚がすごいんだと思う。ギリギリ埋もれない色の対比。暗い背景に肌の暗い人を置いているのに、こんなに分離されている。

そしてその色彩感覚は、ペインティングの領域において神がかったセンスを発揮している。
たぶん、今まで見てきたフォトペインティングの中で一番上手い気がする。これぐらいじゃないと、あえてペイントする意味が出てこない感じ。

そして展示の中ではプロジェクターもフル活用されている。ソニーのめっちゃ良さそうなプロジェクターをたぶん10台ぐらい使っていた。贅沢である。

これ、すごいのは2台のプロジェクターを交差するように九十度の壁に映しつつ、映像が左から右に流れて、かつ角のところで全く途切れずにシームレスに動いているという技術。そしてその展示方法をフル活用する、写真の繋げ方。この場面だと影のフォルムで3枚の写真が繋げられている。

これなんかもうどこにどう投影してるのか全然分からない。こんなごちゃごちゃしたところに映しても作品として完成できてしまう色彩の豊かさ。

とまあここまで技術的なことばかり書いてしまったけれど、ハイレベルなアート作品ってもはやコンセプトとかなんとか以前に圧倒的な美があるんだと思う。もちろん作家としてはなんらかの問題意識を持って制作に取り組んでいるのだと思うけれど、日頃アートに親しんでいない人間には、刺激が強すぎる。


今日は結構頑張って歩いた。東山から歩いて堀川御池まで行ったら、案の定スマホが充電切れして、コンビニで充電器を買う羽目になった。まあ、乾電池式は防災用に一つ欲しかったから……。
で、堀川御池のギャラリーにはKG+の展示に加えて、SIGMAマーケティング部が所蔵している1970年代〜2024年までの写真集が閲覧できるコーナーが設置されていて、ここもすごく良かった。なんならここだけで一日いられるで。
写真集が見たかったらカメラメーカーのマーケティング部に就職するというのも一手なんだなというのがわかった。(都写美とかの図書館も充実してるはずだけど)

写真文化に関しては本当に都会と地方の格差がすごい。田舎の図書館にある写真集ってさ、自然か歴史系だけじゃなん。あれ本当にどうにかならないものか。(自然や歴史写真集が悪いんじゃなくて、それしか選択肢がないのが)
確かにアートブックは高いし、選書するとなると知識も必要なのだろう。でもさ、もうちょっと頑張って文化度を上げてくださいよ。
そんだから、いずれは自分なりのアートブックライブラリーなんかを作れたらいいな、という夢はある。お金はない。

サッセンの図録、会場では売り切れてたけどAmazonにはあるっぽい。……買っちゃうか?

本屋巡りに関しては、北の善行堂さんと恵文社さんには今回も行けず。それ専用に時間を作っていかないと厳しい、片道3時間の県民。
ただ誠光社さんには行けました。『本のある空間採集』を読んで思っていたよりは小さな空間だったけれど、やっぱりすごく選ばれてるなあと感じさせる選書でした。街の本屋でありつつ、カルチャーの拠点としての自負みたいなものも感じられるお店。

ついでに三条のブックオフにも。やっぱり歴史系がすごい充実しているし、普通ブックオフに売ってない箱入りの本とかバーコードのない本も置いてあるあたり、実に京都の古本屋。この方向性で続いていってほしい。

240420雑感

椿が終わったと思ったらツツジのシーズンが始まっている。なんかもっと五月のイメージがあったのだけれど、こんな時期から咲いてたっけ?
白やピンク、あるいはその両方がわんさか咲いているのを見ると、爽やかな春から賑やかな春への移り変わりを感じる。

街角でも色々な花が咲き乱れている。職場の周りは飲食店(飲み屋)ばかりなのだけれど、10分ぐらい歩いたら程よい住宅街。家と職場の往復だけしていると田んぼか飲み屋の風景しか見ない日々なので、たまに住宅街を歩くと良い。こういうお天気の日は特に。


ところで最近の悩みは、この流れで書くのもなんだけれど、足の汗と臭いである。毎日足洗い用のソープでちゃんと洗っていても、汗をかくとすぐに臭ってしまう。靴を履いている分には大丈夫なのだけれど、脱ぐと臭い。なので脱ぐ必要のある場所に行けない。困る。
たぶんお金をケチって防水の靴と長い靴下以外買ってないのも悪いので、いい加減通気性のいい靴も揃えるべきなのかもしれない。

そんなわけで、仕事終わりにウエッティでしっかり拭いて、靴下にリセッシュを噴霧しまくった上で、そのまま読書会へと向かった。

バイトなので別に固定曜日の出勤というわけではないのだけれど、最近は大体水曜日と日曜日に休んでいる。前に他の曜日に休みを移動させたら、代打で入ってくれる方が忘れていてワンオペの職場は休業になってしまったことがあるので、休みを移動させるのをちょっと躊躇ってしまうのもある。
まあ、用事を入れたい時はちゃんとシフトを入れないのだけれど、それも1ヶ月前ぐらいにはなんとなく決まる感じである。よって臨時の休みは取りにくいという事情もあって、今回は読書会のために休みを取る余裕がなかったので、職場から直行になった。

そうまでして行った読書会では、『なぜ働いていると本が読めないのか』に『夏葉社日記』、『宇治拾遺物語』、『キャラメル工場から』といった今注目の新刊がずらっと並んでいて、これだからやめられねんだわと思った。もちろん聞いたことのない掘り出し本との出会いも多分に求めてはいるのだが、それはそれとして話題の本の感想も気になるところ。積読とか文芸誌でいっぱいいっぱいな中、誰かが読んで感想を聞かせてくれるのは非常にありがたやありがたや。


さて、明日は日曜日なのでちゃんとシフトを入れずに休みを取っているわけなのだが、例年行っている京都国際写真祭ことKYOTOGRAPHIEが始まっている。

www.kyotographie.jp

近畿東海にはしっかり傘マークが付いているけれども、今を逃したらGWに入って余計に混雑してしまう京都。いくなら明日しかない。行く。
電車のお供には文庫本。毎度の如く大量のDMとチラシと下手したらブックオフの戦利品を持ち帰ってくるのはいい加減学んでいるので、行きの荷物は可能な限り少ない方が良い。片道およそ3時間、行きは眠くて帰りは疲れ。となると、なるべく薄くて、かつ引き込まれるタイプの物語が良い(エッセイは軽すぎて逆に集中力がいるし、評論とか人文書は頭に入ってこなさそう)ということで、ついに積読から『老人と海』を引っ張り出して、持っていく。

KYOTOGRAPHIEの会場は京都市内のあちこちに点在しているので、どう回るかを考えないと時間がいくらあっても足りない。今回メインで行きたいのは京セラ美術館と堀川御池ギャラリー。ほぼ東西のラインに位置しているので、なんとか雨で徒歩でも回れそうだ。
書店は……誠光社さんは行けそう、善行堂さんは離れてるけど行きたい、恵文社さんは……うーん、厳しいか? 
時間がいくらあっても足りないのだ。

しかし、こうやって予定を考えているときが、一番楽しい。

240419雑感

電車に乗る。満席。しょうがないので壁に凭れてリュックから本を出す。20分ぐらい読んだところで席が空く。座る。

その瞬間に一日の疲れがどーーーーっとくる。しんどい。

職場を出る瞬間は「ようやく帰れる」という開放感があるし、本を読み始めるときも「しゃーないなぁ読むか」というのがあるので、疲れはあまり意識されない。それが、最寄りまでちょうど半分の20分のところで座った途端に来る。体が重い。ねむい。このまま電車がお布団になってほしい(??)
ヘトヘトになりながら家に帰ってくると、今度はまた開放感が高まって、疲労感がちょっと薄れる。だから、あの電車に座った瞬間こそが、そのまま電源オフにするのに最適な時間なのだ。


ちなみに今日の通勤で読んでいた本は『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』である。連作短編的な物語かと思っていたら、なんだか書店エッセイみたいな感じで面白い。ヒュナム洞という場所にある個人経営の書店の話なのだが、お客さんに本をお勧めしようとして悩む場面とか、トークイベントで作家と向き合って緊張する場面とか、個人書店主あるあるみたいな話が綴られている。読んでいると韓国も日本もあんまり変わらないんだなという気がしてくる。(韓国の方が、国の支援は多いらしいけど)
なお、書店員しか共感できないみたいなことはなくて、店主のヨンジュは書店経営者である以前に一人の本好きの女性なので、本が好きな方には色々共感できる作品だと思う。あまり本を読まない人には……ちょっと本の話すぎるかな。まだ序盤しか読んでいないので全体としてはどうかわからないけれど、書店エッセイ特有の内輪感(読むこととか、本が好きなこととかが前提になっている)みたいなのはややあるかもしれない。


今日の田んぼ

耕されたり水が張られたりしてきている。そのうちまたn毛作が始まりそうだ。

240417雑感

様々な活動をされているお知り合いが「対談」のイベントをやっていたので、じっくり話してきた。ブログにはこんなに色々書き綴っているのに、身の上話を人とするのが苦手である。だから「話してもいいよ」という前提の場所があるのは、とてもありがたい。

まずは1ヶ月前に参加したときに書いてもらったお手紙を受け取る。そう、前回は「休日に予定を詰め過ぎてしまう」みたいな話をしたのだった。
そうやって自分に厳しくすることが癖になっているけれど、それを選択するのは結局自分自身。自分にもう少し優しくするためには、より身体的なアプローチがいいのではないか、という提案をいただいていた。

確かに、体のことが全然わかってない。体の感覚に意識を向けることがほとんどない、といっても不快感は結構感じるのだけれど、心地よくしていくことには、無頓着なのかもしれない。

今日の対談ではまた同じような話もしたのだけれど、最近ちょくちょく考えていた「昔の記憶」だとか、「嫉妬をしないための方便としての『死んだ方がマシ』という口癖」みたいなことを話したりした。こうして書くことももちろん思考の整理にはなるのだけれど、相手がいて話しているのとはまた違う気がする。
人に伝えようとして表現をちょっと変えたり、相手から予想外の解釈が返ってきたりして、それはある意味では「正確に伝わっていない」ことなのかもしれないが、一方で何かが広がっているような感じもあるのだった。


話すことで何かがパッと解決するわけでもないが、少しだけ風が吹くような心地よさを感じたりもする。

夜にはパントースターで焼いたトーストを食べたり、ボドゲをした。こういう休日が「詰め込み過ぎ」じゃない休日なんじゃないかなと思う。

一つ懸念なのは、これを書き始める直前に起きた、愛媛九州の地震である。震度6のマークが、ちょうど自分が出稼ぎに行っていた地域のあたりに光っている。
農家さん、大丈夫かな。愛媛の南の方はマジで斜面と石垣なので、仮に家屋は大丈夫としても、農地などの被害は出てしまうだろう。

そして、これだけ毎週のように全国で地震が起こっていると、そろそろうちのあたりもヤバいんじゃないかという気がしてしまう。直接的因果関係はなくとも、不安になる。本棚だけはほんとに今月中にでもなんとか対策しないとな……。