別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

240409雑感

外食はめったにしない。お金がないからだ。

普段はお弁当に冷凍食品なんかを詰めているし、外で食べる必要があるときは、事前にスーパーで80円とかの菓子パンを3つぐらい買って食べる。安いスーパーに行くとついつい他のお菓子なんかも買ってしまって、全然節約にはなっていない。

ただ、やっぱりたまには「食べてる」って感じのものを食べたい。おうちご飯はどうしても同じものばかりになりがちで、食を味わうというより単純な栄養補給になってしまう。
で、今日はたまたま仕事の合間に時間があったので、久々に外食をした。外でパンか牛丼以外を食べたのはたぶん、5ヶ月ぶりぐらいかもしれない。(本の市の打ち上げを入れたら1ヶ月になるが、あれは食事というより飲みなので)

今日のお昼はあんすぱでした。味がでら濃いので、たまに食べるぐらいがちょうどいいんだ。
食を味わうっていうのは味ももちろんだけれど、カウンターの向こうで忙しなく動く店員さんとか、程よくガヤガヤした店内の音とか、お冷から垂れる水滴とか、そういうのをひっくるめて食なんだと思う。だから車の中でパン食っててもカロリー以外の何かが抜け落ちてるんだな。
たまにはこういう豊かな食をできるぐらいの収入、というのが目指すべきところなのかもしれない。(無計画に本で蕩尽しなければ十分できるはずなのだが)

食堂を出ると朝からどんよりしていた曇り空はスッキリの青空に変わっていて、桜がめちゃくちゃ映えていたので写真を撮った。

うん。これで今年も十分春を摂取しました。よきかな。


なお、帰路においてブックオフに寄ってしまい、散財の限りを尽くしたことは言うまでもない。

240408雑感

本日から新学期が始まり……と朝のニュースで言ってて、ああこれは、来てしまったかと電車に乗るとやっぱり混んでいた。
受験や新生活への準備が始まる年末年明けぐらいから四月にかけて、実に3〜4ヶ月続いたちょっと電車の空いている季節が終わってしまった。人が多い場所はしんどいので、また朝から疲れるのが大変だなあと思った。
そうやって一年が過ぎてゆく。

自分自身の一年を思い出してみると、去年の今ごろはまだバイトをしていなかったけれど、本屋さんを巡って一箱古本市の準備を始めていたような気がする。つまりそんなに変わらないということになるが、そういえば昨年は真剣に「広辞苑の読破」を目指していたのだった。
毎日3〜5ページ読んで、気になる言葉を拾ってnoteに投稿するというルーチン。これはバイトを始めしばらくして挫折してしまった。ちゃんと続けていたら今ごろ1/4ぐらいは読めていたのかなあと思うと惜しい気もするが、目と肩がすんごい疲れる作業なのでおすすめはしない。広辞苑、「たほいや」をプレイするときに開くぐらいでちょうどいいんだわ。

note.com

広辞苑を読むのは結局楽しさよりも大変さが上回ってしまったけれど、こんな風に全く関心のない方面の知識が入ってくるというのは、生活にちょっとした豊かさを与えてくれるような気がする。疲れたって言って読みたい本だけを読んでいると、どうしても思考パターンも似通ってきて、窮屈になってくる。気に入りそうな投稿だけ見せてくるSNSアルゴリズムなんて最悪だ。フィルターバブル崩壊してしまえ。

最近友人が「毎日読む教養365日」みたいな懐かしい本をシリーズで買って喜んでいるのを見て、内心(今?)と思わないでもなかったのだが、日々にちょっとした変化をもたらしてくれるという点ではいいのかもしれない。
ただ安易な「知識コレクター」みたいになってしまうのはちょっと嫌だけど。

だから自分も読みたい本ばかり探していないで、たまには冒険してみる必要があるのかもしれない。手芸とか料理本とか大相撲とかオカルトとか……いや、やっぱりそんなに興味のない本を読むにも、それなりの体力が要りそうな気がする。結局疲れていたら何にも読めないんじゃないか。


そんな疲れの中でも本を読める工夫が「文チャレ」ということなのだろう。もし一人で文芸誌を読んでいたら、間違いなく二月ぐらいで挫折していた。
四月の報告会を今週日曜日に設定してしまったので、今日も必死に文學界を読んだ。

恒例の「ビブリオ・オープン・ダイアローグ」、架空のキャラだけに扮するのかと思っていたら今回はなんとヴォネガット。私はヴォネガットを一冊も読んでいないし、本人の語り口も知らないのだが、石田さんのヴォネガットはすごかった。これはぜひヴォネガー(というのか知らないけど)には読んでいただきたいです。
評論の連載からは、江南亜美子さんの『「わたし」は一つのポータル』が気になる。物語の悪い面と良い面(スーパーボウルイスラエルプロパガンダ的なCMが流れたというのには驚き)という出発点から、近代文学における言文一致の歴史を掘り下げ、小説の「リアリズム」とは何かを探る。物語のリアリティに批評的に取り組む作家として乗代雄介さんの『それは誠』が紹介されていた。乗代さんもわたしは未読だが(じゃあ誰なら読んでいるのか)、この紹介を読んでいるとなかなか面白そう。
というか分かったように要約してるけれど、「自然主義」も「リアリズム」もそんなに理解してないので、完全に背伸び読書である。

文學界四月号はあと100ページほど。なんとか水曜ぐらいには読み終えて、感想をまとめつつ五月号に入りたい。
前々回の報告会でおすすめされていた町田康さんの『宇治拾遺物語』の文庫も出てしまったし、先日買った『センスの哲学』と一箱で手放す前に少しは目を通したい本もある。……死ぬんか?

読書環境の整備が最重要事項であるのは間違いない。

240407雑感

たまには予定がないダラダラするだけの休日が欲しいと言っているくせに、いざ休日になると、そわそわして全身全霊が不快になっていてもたってもいられなくなり、思わず家を飛び出してしまう。もうなんか病気じゃないかと思う。

家を出てしばらく行くと、桜並木が満開になっていた。
桜なんて別にいつでも見られるんだし人多いし、わざわざ見に行かなくてもいいかなぁと思っていたけれど、薄ピンクに染まっている川沿いを眺めると不思議と気持ちが落ち着いてくる。心の不快感がすうっと抜けていくような気がした。
このまま60km離れた古本屋まで行こうと思った。

自動車専用道を法定速度で走るトラックについていると、横からビュンビュン追い越されていく。晴れの休日、みんなはやくどこかへ行きたいのか、あるいは帰りたいのか。
自分も普段は移動なんて早い方がいいと思ってしまうタイプなのだけれど、ゆっくり移動することでしか得られないものがあるのではないか。例えば標識は法定速度で走った時に読みやすいことを想定して作られていると思うし、周りの景色や状況にも少し気を配る余裕が出てきたりする。そして何より、思索が捗る。

陳腐な表現だけれど、自分の心にはポッカリと穴が空いていると思う。
その穴を、人間関係とか情報とか色々なもので埋めようとするけれど、いつまで経っても穴は埋まらない。
それはきっと、自分自身でどうにかする寂しさなんだと思う。

目的の古本屋さんは、もしかしたら一年ぶりぐらいだったかもしれない。店内のレイアウトがガラッと変わっていて、模様替えがかなり大変だっただろうなあと思った。
古本屋さんのいいところは、某新古書店チェーンとは違って、独特の分類をされているお店が多いというところ。地元作家や店主のおすすめが固められていたり、なんとなく文化的な、でも硬くないエッセイ(赤瀬川原平とか、寺山修司とか……)のコーナーがあったりとか。こういう並べ方はブックオフではまず見ない。だからこそ古本屋でしか出会えない一冊というのがあると思うんだ。
ということで、悩める私に刺さりそうだった串田孫一さんの『生きる思索』などを買った。お名前は存じているが、著書を買ったのは初めて。教養文庫も初めて(バーコードがないのでブックオフには売っていないのだ)。

もちろん、わざわざこっちの方に来たんだから、近くのブックオフにもちゃんと寄る。均一本コーナーに村上龍とか辻村深月とかが揃っててびっくり。たまにくるとすごい。「いらっっ しゃいませ どうぞー!」と独特のイントネーションの店員さんも健在で安心する。

帰る前にもう一軒の古本屋さんへ。木と和室の香りに包まれた店内にやわらかいピアノ曲が流れているのが最高で、思わず何の曲か聞いてしまった。CDを見せてもらったけれど、洋盤なのでほとんど分からず。タイトルが多分「Circle」で、ブラジルで製作された、ということぐらいしか分からなかった。どなたかわかる方いらっしゃったら教えてください。

ここでは均一コーナーに安部公房がたくさんあってびっくり。『カンガルーノート』『死に急ぐ鯨たち』などを購入。後者はまだ新装版が出ていない貴重な評論集だ。来てよかった。

今日買った本。多分14冊。
もちろん一箱古本市用の在庫も含んでの冊数ではあるが、それにしても多い。最近の一ヶ月あたりの読書冊数が文芸誌+1〜2冊なので、どう考えても読むペースに対して買う量が多すぎる。そして来週ぐらいには買ったことを忘れている気がする。ソシャゲのアイテムに課金する、みたいな感覚で本を買ってしまうのは、やっぱり先の「心の穴」のせいだと思う。

帰りしに、行きに通った桜並木に立ち寄った。桜のいい香りに包まれた河川敷で、家族づれやカップルなど多くの人が写真を撮っていた。
花は少しだけ、心の穴を埋めてくれるような気がした。こういう休日が欲しかったのかもしれない。

240406雑感

自己啓発系の本を読んでいると「朝は作業効率が高いので、朝に仕事すべし」みたいな話がよく出てくるけれど、最近は朝にすんごい弱くてダメだ。
よくないとわかっていながらも、食後すぐに横になりたくなってしまう。せめて座るぐらいに抑えられたら良いのだけれど。
ともかく、まだ体が十分に目覚めていない感じが強い。一時期散歩に加えて筋トレとかやろうとしていた頃のエネルギーが全然出てこない。少しずつ運動の強度を上げなければいけない気がする。

まあ食後すぐに運動するのは無理なので、せめて横にならないように、こうして朝から文章を書いている。

さて、今日もお外は曇り空だ。遠くの方は霞んでいて湿度が高そうな感じ。今年の桜シーズンは全然スッキリしないなあ。
明日の雨予報だけどっか行ったので、「休みの日は雨」のジンクスはなんとか免れそうでよかった。


お仕事。職場の床がフローリングで木目っぽい感じになっているのだけれど、溝がめちゃくちゃ細かくて汚れが溜まるので困る。クイックルとかかけても繊維が引っかかるし、モップがけはしょっちゅうできないし。ウエッティとかで擦るのが一番手っ取り早いのだけれど、面倒だし。何かいい方法はないものだろうか。

一日の実働時間7.5時間、うち1時間確保されているお昼休憩の間にいつもの駅ナカ書店へと足を運んで『文學界5月号』と『センスの哲学』を購入。文學界はずっと同じ値段だと思っていたのだけれど、5月号は新人賞が載っていて分厚いので100円高かった。市川沙央さんとか京都作家仲良し組(綿谷さん・万城目さん・森見さん)+辛酸なめこさんが「コックリさん」をやるという謎企画もアツい。早く四月号を読了して五月にいきたい!!!(なお課題本……)
『センスの哲学』は『勉強の哲学』の復習としても、センスださださ人間としても気になる一冊。せめて文庫化されるまでには読み終わりたい。いやもっと早よ読め。

しごおわ、帰り。踏切を渡ろうとしたら電車4編成通過の開かず状態で、レアだった。
いつもの部室(新年度なので補足:有志により運営されている書庫兼貸本棚兼遊び場。別に隠れてない隠れ家。ボドゲ・映画感想会・文庫本交換会など誰でも自由で思いつきなイベントをふらっとやれるのが売り)に立ち寄ると、勝手に教えを乞うている音楽の先生と勝手に内心で師匠と仰いでいる書店員の方がいて、気分が上向いていく。寂しがり屋なんだよな。
こういうことやりたいよねーとか文フリ出たいなーとか色々お話しして、なんだかいい感じで一日が終わった気分。地元に未だ「ザ・ダイソー 百円館」の看板を掲げ続けているお店があると知って驚く。今度行ってみたい。

あと昨日も書いたけれど、「忙しいと本が読めない」という話もした。書店員さんは絶賛繁忙期である(去年より大変らしい)。
わたしが「自分なんてめちゃくちゃ時間あるはずなのに本が読めない」と話すと、「時間のあるなしじゃないのかもしれませんね」と。
「だったら逆に本を読んでしまえば仕事の忙しさとか忘れられるんじゃないか」という感じのことを(たぶん)言われていて、ああこの人は「本物」だな、などと思った。

自分の読書欲は実際、背伸び的なところが大きい。周りにすごく読む人がいて、そういう人たちに憧れて読もうとたくさん買っているけれど、実際そこまで早くも多くも読めやしない。だから積読塔は伸び続ける……。
昔の人は背伸びの読書をしていたから賢かったとか、大学生はこんな本を読んでいるとか。アカデミックな素養のない自分はそういううわべのかっこよさに憧れてしまう。
まあ、別に本は置いといて腐るわけでもないし、どんなモチベーションで読もうが知識や考えるきっかけは得られるわけなので、マイナスになったということは(お財布以外)ないと思う。気の持ちようかもしれない。
でも、死ぬまでには目を通したいともちょっとは思っていて、そんならやっぱり「周囲に振り回されず、目の前の本を読む」ということもやっていかなければ何ない。
これ、考え始めると自分の承認に対する渇望とか寂しさの根源とかの話になっていって長いので今日はこの辺でとどめておきたい。

240405雑感

椿の季節って二月ごろだと思っていたのだけれど、近所や駅の駐輪場の椿がざんざか咲いていて、品種によっていろいろあるんだということを知った。

今朝も3分ぐらいじーっと葛藤したけれど、起きて体操できた。たぶん眠るタイミングを調整しないと、眠たい時間帯に無理やり起きることになっちゃうんだと思う。ノンレムに落ちていく最中とか。横になってから寝付くまでの時間もあるし、やっぱりスマートウォッチとかで管理するのがいいのだろうなあ。今年は買えそうにないが。

まあ、起きる瞬間はめちゃくちゃ眠くとも、腕を上下にのばす運動のあたりで意識もはっきりしてくるので、なんとかなる。
体操が終わって少し散歩して、帰ってご飯を食べてダラダラして出勤。本当はダラダラ時間を読書に回せればいいのだが、食べた直後はなぜかあまり読書できない。

仕事は今日も可もなく不可もなく。ただ、やることが多いと作業場の周りをめちゃくちゃ汚くしてしまう。いろいろ積みすぎて身動きが取れない。昨日書いたような理由による。
明日もどうせ自分しか使わんからええか、とちょっとだけ片して置きっぱなしにしてきた。明日出勤してからが大変なのに……。(明後日は社員さんが使うので、全て明日中に撤去しなければならない)
そんな有様なので、早乙女ぐりこさんの新刊エッセイの冒頭は読んでいてめちゃくちゃ共感してしまった。仕事や趣味のことと、暮らし(家事・掃除・健康のための取り組み)などを両立させるのは本当に難しい(なんて自分が言えた話じゃないのだが。全世界のワンオペをする人に怒られる…)

趣味と仕事といえば、今月は三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』も発売を控えている。もともとWeb連載なので集英社のサイトでも読めるが、本の本はなんとなく紙で読みたい。

shinsho-plus.shueisha.co.jp

ただざっくり目次を見てると、あまり「働いてて本が読めない」と悩む人むけの本でもないような気はしてくる。どちらかというと日本における読書の歴史の話だった。もちろん「本が読めないという悩み」の裏には「本を読むべきだ」みたいな社会の価値観があったりして、そこを深掘りすれば、より根源的な問題と向き合えそうな気はする。ただ、本が読めない状態の人にいきなりそれを突きつけるのもちょっと酷かもしれない。
だからとりあえず、さいきん本が読めないとお悩みの方は、長田弘さんの詩集とかから読み始めればいいと思います。
あるいは、読める場所と時間を一つでも見つける、とか。自分も最近電車でしか読めないし。

Amazonで三宅さんの本を見ていたら、「よく一緒に購入されています」のところに千葉雅也さんの『センスの哲学』が出ていて、ちょっと怖い。なんで買おうと思ってるのがバレた? いや、実際にそういう人が多いのだろうけれど。やっぱりどうしても読書の傾向って似通ってくるんだろうなあ。
謎に反抗して、絶対にこの本を読む人が手に取らんやろ、みたいな組み合わせで読んでみたくなる。

まだ読書の話で続けるけれど、今日も通勤中文學界を読む。『大転生時代』は思わぬ展開になり始めて驚いた。そんなあっさり改心するんかい、だった。短期集中連載だからなのか、展開がすごい早いぞ。村田沙也加さんが今スイスで滞在制作していることを知る。六ヶ月も海外にいるっていうのが、極力この田舎の街でぬくぬくしていたい自分からは到底想像もできない。リレーエッセイ『身体を記す』は今回中村文則さん。ジェンダー関係の問題がいろいろ告発される現代。それはもちろん社会にとって有益なのだけれど、行き過ぎると性に関してめちゃくちゃ保守的になる側面もあるよね、という話(だと理解しました)。自分もおそらくそこはすごい保守的、というか、genderの話はよくてもsexの話は極力考えずに生きていきたい、と思っているところがある。それはたぶん、自分の中の男性性とかに向き合いたくないというのもあったりして……って感じで理性的に考えるのはいいんだけれど、下ネタとか直接的な話は無理ですね。
そういう話題をする人がいない環境に身を置けている今は幸いだ。(盛り上がったり連帯できる話がなくなっちゃうじゃないか! とか思う人もいるかもしれませんが、もっと他にあるでしょうに話)

てな感じで、ようやく半分。明日5月号発売なんだけど……。
読書時間を拡張していくしかない。

そしてこれを書いている途中、文芸誌に寄稿されている作家さんが文チャレの記事を拡散してくださっていてびっくり。(たぶん二次創作が原作に捕捉されるときの気持ちって、こういう感じなんだろうなあ)
決して「よい読み手」ではないので恐縮してしまうけれど、気軽にゆるっと読んでみるというところはそのままで、今月もぼちぼちやっていきたい。

240404雑感

集中力がなくてあちらこちらに次々と手を出してしまう割に、マルチタスク能力はないので、にっちもさっちも行かなくなることがよくある。目の前にいろいろな方向へ分岐する道が伸びているイメージで言えば、どれかを選んでちょっと進んでまた戻って……と繰り返して、延々と前に進めないでいる感じだ。

日常的な状況でいうと、何度でも書くけれど、掃除ができない。机の上を片そうとものをどけてベッドに置いたら、今後はベッドの上のものを別の場所にどけて……と、ただ場所が移動するだけ。机の上にはまた別のものが置かれて、何も綺麗にならない。

そんなふうにあちこち中途半端に手出しして思考がフリーズしているこちの影響で、最近あまりブログも書けないでいる。ピアノの練習も、日記も、読書も、できていない。じゃあ何をしてるのかといえば無意識にスマホを触ったりしているので時間がないわけじゃないのに、それを認知できないぐらい思考も衰えている。やっぱり一度極限まで減らしてリセットしなきゃダメな気がする……。


そうやってぐるぐるしている自分を置き去りにするように、春がものすごいスピードで進行している。桜は一瞬で咲いて散りそうだし、畔にはつくしが生えているし、水を張り始めた田んぼから蛙の鳴き声が聞こえてくる。春ってこうだったよな、というのを思い出していく。なんかもう、今年は春が来ないんじゃないかと思ってた気がするけど、ちゃんと来たんだね。

伸びていく日の長さが、夕方に原付を走らせる自分にとってはありがたい一方で(虫が増えるのはありがたくない)、起きたときにはもう十分明るいこの頃、「夜明け」はだんだん遠くなっていくような感じがする。早起きすれば見られるんだろがね。
夜明けからしか得られないものを得ようとして、『ここはすべての夜明け前』を読んだ。(前置きが長い)
先月の読書会でも先々月の読書会でも紹介されていた(文チャレ効果もあるが)話題作。「令和版アルジャーノン」とか「20年代を代表する」とか言われるけれど、アルジャーノンもそもそもSFもあまり読まないので、その凄さみたいなのはあんまりわからなくて残念だ。

主人公は2023年に「融合化手術」なるものを受けてサイボーグ化した女性。25歳で手術を受けたことで、家族たちが老いたり死んだりする中で一人だけ25歳の外観を保ち続けて、2123年に至る。その100年の間に地球は結構やばいことになっていて、端的にいうと終末ものということになる。終末もの特有の静かな寂しさみたいなのが全編を通して感じられて、良い。
読んでいて驚いたのは、ボーカロイド(と永瀬九段)ががっつり出てくるところ。ボカロノベライズや二次創作ではない小説で、しかも初音ミクじゃなくてIAの描写が出てくるって、たぶんないよなぁ? 文脈的には病に苦しむ主人公(まだサイボークでなく人間の頃の)が救われた楽曲が「アスノヨゾラ哨戒班」だった、という感じで出てくる。自分はもう少しだけおじさんなのでギリギリ世代ではないのだが、世代直撃だったらこれはグッとくるだろうなあと思った。

小説自体の大きなテーマは「家族」で、掘り下げられている問題は現代的だった。どちらかというとSFよりそちらに重きを置いているようにも感じられた。おそらく一番SFっぽかったのは第二章で、個人的には村田沙也加みを感じる。村田さんも二作ぐらいしか読んでないから的外れなこと言ってるかもしれないけど。


SF繋がりでいうと、今必死に読んでいる文學界四月号の島田雅彦『大転生時代』も佳境に入ってきた感がある。この作品においての「転生」は自分の意識のみを異世界の別人物に転送(上書きではなく二つの意識が同居するようになる、が、融合することもある)みたいな設定になっていて、つまり転生前の本体と転生先の人格の二つの自分が存在して同時並行で行動していく……と説明するのがちょっとややこしい。
先月号ではその辺の設定が明らかにされてきて、量子もつれを利用した転生技術〜みたいなSF感満載だったのだが、今号では「VS資本主義の魔窟」みたいな対立軸がはっきりしてきて、ちょっとメッセージ性が濃くなったりした。どの辺に決着して行くのかが楽しみである。


最近の曲。岸政彦先生のRPで知った、町田康が絶賛している「すずめのティアーズ」。日本の民謡にブルガリアの民謡をミックスした独特の響きが、聞いてるうちに癖になる曲だ。


www.youtube.com

最初聞いた時は「しっちきじゃぶじゃぶ」のところですごい鳥肌が立って苦手な感じだと思ったのだけれど(セリフのある曲とかで、こういう鳥肌を感じがち)、歌詞を見ながら何度か聞いているうちに、もうこれなしではいられなくなってしまった。
というか何気にセリフでもハモってるのすごくないか。

アーティストを調べているうちに、民謡界隈的盆踊り界隈なるものがうっすら見えてきた。何にでもシーンがあるんだなあ。
個人的に日本って民謡と現代ポップスの距離が遠めな国なんじゃないかという気がしているのだが、こういうふうに入りやすい入り口を提供してくれるのはありがたい。民謡アレンジでいうと姫神の方向性も好きなのだが、あの方向性も現代的に追求してくれるアーティストがいないだろうか?

240401雑感

新年度が今年もやってくる。桜舞う電車に飛び乗る。
文學界四月号をぎゅうぎゅうに詰め込んで
さあ、Let's Go!

春ですね。
家から職場までの道程に桜があんまりないもんだから、実感がなかったけれど、
職場から少し歩いたところには桜が咲いていた。
こんな暖かかったら咲くよなあ。

五年前の春。緊張と興奮を抱えながらの初出勤の日、公演に咲いている桜を撮った。
一年ももたなかったその仕事についてはあまり思い出したくないのだが(そんな思い出ばっかりだ)
桜を撮るとどうしても連想してしまう。
別にだから春や桜が嫌いというわけでもないのだが、かといってすごく良い思い出があるわけでもなく、
じゃあやっぱ辛いのかもしれない。うん。世間が春という季節にもつ、(社会的な)スタートみたいなイメージは、あまり好きじゃない。

とは言いつつ、正月と新年度というのは何かをリセットするのにはちょうど良い機会かもしれないとは思う。
かれこれ数ヶ月やっていなかった朝のラジオ体操と、短めの散歩を久々にやった。

以前にも書いたかもしれないが、このルーチンをするかしないかで一日のパフォーマンスがかなり変わってくる(パフォーマンスって言葉も好きじゃないけど)。
何より「寝過ごしてしまった」という罪悪感を抱かないでいいのが、いい。

もう一つ、今年度はピアノと読書という部分を軸にやっていきたいと思っている。キーボードを買ったとか、読書会や一箱古本市などに出る機会が増えたとかもある、けれど大きな理由として、今年は色々出費が嵩みそうだから……。お金のかからない娯楽をやっていきたい。

昨日の読書会で、やっぱり日々の読書メモをどっかに書いておくのは大事だなと思ったので、まとまりはないけど文學界四月号のことも書いておく。
「まだ半分も読めてない」ということは覚えていたけれど、実際に確認したらめっちゃ序盤で辛い。あと5日で五月号出るんですが(新人賞の載っている号なので楽しみ)。それに図書館本もある。やべえよやべえ。

四月号の序盤は短編がたくさん載っているが、今日は沼田真佑『三脚の椅子』・井戸川射子『並ぶ連なり歩み』を読む。前者は日常の気掛かりなことが不思議とリンクしているような作品で、読んでいてちょっと不安になった。部長は本当に猫になったのか、それとも……。休日に「猫が戻るご利益があるお稲荷さま」に参拝に行くシーンが印象的。
井戸川さんの作品は言葉選びがとても独特である。ストーリー的には仮装行列が山越え海越え歩いていく(いや、海は超えてないが)というだけなのだが、その仮装と言うのが、犬を運ぶ「犬持ち」、全身を苔で覆った「苔貼り」、あえて何の動物か特定せず四つ這いになっている「獣真似」などなど、まあ普通に思いつくような仮装じゃない。そんな面々が行列を作って野山をゆくイメージは結構ファンタジーなのだが、一方で話したり考えている内容はそれぞれの日常生活や仕事のことだったりして、シュールだ。登場人物たちのプロフィールはかなり省かれていて、性別や年齢もはっきりとは語られないのだが(そもそもみんな全身を覆うような仮装でかなり匿名になっている)、やりとりや行動から少しずつ人物像が垣間見えるのが面白い。

そんな感じで、流石に文芸誌に載る短編は癖つよつよだ。私はリテラシーが低いので、その背後に込められた意味とか文学論とかは全然わからない。だから表面的なイメージでしか読めないけれど、どの作品も不思議な余韻(ちょっとモヤモヤした)を残して終わっていく感じがする。

これでようやく短編ゾーンは終わったので、あとは連載とエッセイと九州芸術文学賞受賞作とその他諸々だけだ。だけ?
今ペラペラとめくっていて、トゥルーイズム読書会のページに円グラフとかリストがたくさん入っているのが見えて戦慄した。やばい。課題本、やばい。

今年度も追われる一年になりそうです。