別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

240408雑感

本日から新学期が始まり……と朝のニュースで言ってて、ああこれは、来てしまったかと電車に乗るとやっぱり混んでいた。
受験や新生活への準備が始まる年末年明けぐらいから四月にかけて、実に3〜4ヶ月続いたちょっと電車の空いている季節が終わってしまった。人が多い場所はしんどいので、また朝から疲れるのが大変だなあと思った。
そうやって一年が過ぎてゆく。

自分自身の一年を思い出してみると、去年の今ごろはまだバイトをしていなかったけれど、本屋さんを巡って一箱古本市の準備を始めていたような気がする。つまりそんなに変わらないということになるが、そういえば昨年は真剣に「広辞苑の読破」を目指していたのだった。
毎日3〜5ページ読んで、気になる言葉を拾ってnoteに投稿するというルーチン。これはバイトを始めしばらくして挫折してしまった。ちゃんと続けていたら今ごろ1/4ぐらいは読めていたのかなあと思うと惜しい気もするが、目と肩がすんごい疲れる作業なのでおすすめはしない。広辞苑、「たほいや」をプレイするときに開くぐらいでちょうどいいんだわ。

note.com

広辞苑を読むのは結局楽しさよりも大変さが上回ってしまったけれど、こんな風に全く関心のない方面の知識が入ってくるというのは、生活にちょっとした豊かさを与えてくれるような気がする。疲れたって言って読みたい本だけを読んでいると、どうしても思考パターンも似通ってきて、窮屈になってくる。気に入りそうな投稿だけ見せてくるSNSアルゴリズムなんて最悪だ。フィルターバブル崩壊してしまえ。

最近友人が「毎日読む教養365日」みたいな懐かしい本をシリーズで買って喜んでいるのを見て、内心(今?)と思わないでもなかったのだが、日々にちょっとした変化をもたらしてくれるという点ではいいのかもしれない。
ただ安易な「知識コレクター」みたいになってしまうのはちょっと嫌だけど。

だから自分も読みたい本ばかり探していないで、たまには冒険してみる必要があるのかもしれない。手芸とか料理本とか大相撲とかオカルトとか……いや、やっぱりそんなに興味のない本を読むにも、それなりの体力が要りそうな気がする。結局疲れていたら何にも読めないんじゃないか。


そんな疲れの中でも本を読める工夫が「文チャレ」ということなのだろう。もし一人で文芸誌を読んでいたら、間違いなく二月ぐらいで挫折していた。
四月の報告会を今週日曜日に設定してしまったので、今日も必死に文學界を読んだ。

恒例の「ビブリオ・オープン・ダイアローグ」、架空のキャラだけに扮するのかと思っていたら今回はなんとヴォネガット。私はヴォネガットを一冊も読んでいないし、本人の語り口も知らないのだが、石田さんのヴォネガットはすごかった。これはぜひヴォネガー(というのか知らないけど)には読んでいただきたいです。
評論の連載からは、江南亜美子さんの『「わたし」は一つのポータル』が気になる。物語の悪い面と良い面(スーパーボウルイスラエルプロパガンダ的なCMが流れたというのには驚き)という出発点から、近代文学における言文一致の歴史を掘り下げ、小説の「リアリズム」とは何かを探る。物語のリアリティに批評的に取り組む作家として乗代雄介さんの『それは誠』が紹介されていた。乗代さんもわたしは未読だが(じゃあ誰なら読んでいるのか)、この紹介を読んでいるとなかなか面白そう。
というか分かったように要約してるけれど、「自然主義」も「リアリズム」もそんなに理解してないので、完全に背伸び読書である。

文學界四月号はあと100ページほど。なんとか水曜ぐらいには読み終えて、感想をまとめつつ五月号に入りたい。
前々回の報告会でおすすめされていた町田康さんの『宇治拾遺物語』の文庫も出てしまったし、先日買った『センスの哲学』と一箱で手放す前に少しは目を通したい本もある。……死ぬんか?

読書環境の整備が最重要事項であるのは間違いない。