別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

数学の10歩ぐらい手前で考えたこと

「数学をやってみる会」というイベントに参加した。場所はいつもの部室的スペース。
初回は理系院卒免許持ちというガッツリ数学の先生が用意してくれた問題を解いてみて、解説を聞きながら今後やっていく分野を決めよう、という回だった。

イベント参加とはいえ、自発的に数学をやってみようと思ったのはいつ以来だろう?
西成活裕さんの本を読んだときと合わせて、人生で2回ぐらいしかなかったんじゃないだろうか。とにかく数学(と算数)に良い思い出がない。中学数学はギリギリついていけていた(とはいえ、塾でやらされた受験問題なんかは出題文を読む時点で苦痛だった)が、高校数学はもーうダメ。高校時代の数学に関する思い出は、教員室でめちゃくちゃ怒られていたことと、半泣きで宿題の答えを写しながら「死にたい」と思っていたことぐらいである。本当に、いい思い出がない。
(人生で初めて授業中に寝たのも、たぶん数学だった……)

今日のイベントに参加して良かったなあと思えたのは、まだギリギリ分数の計算と円周の長さの公式を覚えていたこと、数学の話を楽しそうに話している理系を見るのは面白いこと。人が楽しんでるのを見るのは楽しい。

一方で「やっぱ数学、苦手だなあ」と思ったのは、解説を聞きながら理解がどんどん迷子になっていく感覚を覚えたときだ。一緒に頭を悩ませていた文系同志も「どこが分からんのか分からん‥‥」状態になっていて、やっぱりここが数学(というか、論理的思考)の難所だなあと思った。勝手に自分が迷子になってるだけなんですが。

私はたぶん、物事を理解するのが遅い。で、それが授業形式の複数人が参加する場になると、先生は理解の遅い方に合わせて解説してくれる。これがすごく申し訳ない気分になる。「どれだけ解説してもらってもなぜか分からない!」「自分のせいでみんなが進めなくなっている!」みたいな、軽いパニックになってしまう。そこに気を取られて、余計に分からなくなる。
だから「分からない」と言えなかったり、疑問に思う部分をスルーしてしまう。
これが、数学に対する苦手意識を高めてしまう大きな要因なのではないかと思う。(もちろん全然数学に限った話ではないのだが)

あと、「たぶんそんなに頭を使わなくていいところで引っかかってしまう」というのも大きなつまずきポイントである。例えば「m²は3の倍数だからm=3kで……」みたいな解説が出てきたとき、k? 2乗? mも3の倍数? みたいに一つ一つが引っかかる、というか「今これは何をやっているのか」が分からなくなってくる。
つまりどこを「そういうもんだ」で処理して、どこを丁寧に証明する必要があるのかが分からなくなるという感じだ。(ちなみにこれは√3が無理数であることの解説で出てきた話なのだが、「k」が登場したあたりで「有理数の定義」が抜け落ちてしまっているので迷子になっていた。有理数の説明を振り返ると今度は「互いに素である」が分からなくなってきて……という沼)

巷でいうところの「数字アレルギー」というのは、抽象的な記号だけで論理構造が表されている状態が苦手なのではないか(つまり「シンプルな数式こそが美しい」と真逆の感性である)。「=」は「等しい」とか「<」は「より大きい」とか、一つ一つの意味はわかっても、それがずらっと並ぶと急に頭に入ってこなくなる。そういうものあると思う。冗長性みたいなのが足りないのかもしれない。
だから学校とかで、もうちょっと記号の少ない論理学的なことをもっと教えてくれたら良かったのかもしれない。演繹も帰納も数学でばかり出てくるけれど、それを国語でももうちょっとじっくりやってたら、両教科の理解度が上がったんじゃないかなあ。


私もできるならば数学(と論理的思考)の苦手を克服したい。数学を乗り越えることは、過去のトラウマを乗り越えることにもなるんじゃないかと思っている。
ここまで書いてきたことをまとめると、自分みたいなタイプは

  1. まず国語力を高める
  2. 次に論理的思考力を高める
  3. そして数学の問題に取り組む

という順序がいいのかもしれない。簡単にできてしまう方には見えない階段を、一つ一つ登っていく必要がある。

同志の皆様、今後も10歩ぐらい手前で程よく頑張りましょう。