別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

聖なる一箱古本市と、健診前夜の飲み会

二度寝しつつも何とか八時過ぎぐらいに起床。まさかの雨。準備が大変になりそうなことに辟易しつつ、古本市に持っていく荷物を車に積み込んだ。
スーパーで買い物を済ませ、会場となる教会へと向かう。他の出店者の姿が見えないことに不安になりつつ、礼拝堂の中へ。しばらく縮こまっているとようやく知人の姿が見えて一安心。そのまま日曜礼拝に参加する。

毎週聖句を選び、説教を考え、1時間弱の礼拝をする牧師さんってすごいなあと思う。時事にも詳しくなければいけないし、それらを聖書の言葉と結びつけて自分なりに解釈していく必要があるのだろう。
今回は一箱古本市開催ということで、創世記のノアの方舟と結びつけた題目の説教であった。牧師自身がコロナ禍で感じた閉塞感と箱舟で40日を過ごしたノアたちの孤独、そして解放。またアウグスティヌス『告白』における母の存在と、本という「言葉を運び伝えるもの」についての牧師自身の考えなどが滔々と語られる。私はつい最近読んだツヴァイクの『第三の鳩』を思い出していた。聖書(新共同訳)を読んでみると、もしかしてこれは同じ鳩を三度飛ばしたということなのではないかと思った。
最後の讃美歌が歌われて礼拝が終わると、窓の外には青空が広がっていた。

お昼を手頃に済ませ、主への祈りが捧げられたのち、いよいよ古本市が開幕する。お知り合いが多くなりそうとは思っていたけれど、一つの空間にこれだけお知り合いが集まった絵面を見るのはなかなかないことなので、面白かった。

ところで、教会にはピアノと足踏みオルガンがある。私は楽器を見ると体がウズウズして指先がプルプル震えて涎を垂らすぐらいの勢いで触りたくなってしまう人間なので、牧師にお願いして弾かせてもらった。ここが今日一番のカタルシスだった。カコカコと足を交互に踏んで、鍵盤をそっと押し込むと柔らかーくなってくるオルガンの音色が教会の天井にまで届いて、礼拝堂に降り注ぐ。ああ、これこそが祝福……。まあ私レベルの下手くそさでは、讃美歌が演奏される時のあの厳かさはどうやっても出ないのだが、それでもアメイジンググレイスを弾いてみるととても場にマッチしていて泣きそうになった。ちなみに礼拝でも讃美歌としてアメイジンググレイス(プロテンスタントでは「われをもすくいし」と訳される)を歌ったのだった。
ピアノは、アップライトなのだけれどめちゃくちゃ鍵盤が軽くて驚いた。多少調律はズレているようだったが、それがまた年季の入った鍵盤とマッチしている。触るだけですごく幸せな気分になって、ついつい手ぐせ的なものをたくさん弾いてしまう。正直今まで触ったピアノの中で一番気持ちよかった。そんなにピアノ触ったことないけど……。うーん、また触れる機会がないかなぁ。
そんな感じで、出店者なのかBGM要員なのか分からないことをやっているうちに、古本市はお開きになった。どれだけ準備が大変で、前日億劫になっていたとしても、やはり終わってしまうととても寂しい。どちらも正直な感想なのである。

夜には、とある送別会がとあるキャンプバーのとある隠れ家的な2階にて行われた。お酒は飲むつもりだったので、一度家に帰って送迎してもらった。
集まったメンバーの中で私は一番年下、かつ新参者である。だからいわゆる「昔の話」(といっても5〜6年前のことだと思うが)はあまり分からず、適当に愛想笑いをしていた部分もあるけれど、でも大人たちが楽しそうに話しているのを見るのはとてもよろしかった。
知らない街の居酒屋で盛り上がった話だとか憧れる。私にはそういう冒険心とかが全くないし、というか根本的な人見知りと不安のために友人づきあいでさえも距離感が分からず死にたくなったりするので、遠い世界の話のように聞いているのである。(聞く分には憧れるのだが、それを自分は絶対にやらないだろう。知らない土地に行ったら真っ先にすき家とかを検索するタイプの人間だ)
そんなつまんねー自分でも気にかけてくれる人たちがいることは、とても恵まれているのだなあとしみじみする夜。あとタイトルに書いたけど明日健診だけどこんな油物食べて飲んだりしてていいんか?