別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

240117雑感

10時、いい加減体が痛くなってきたあたりでベッドから起き上がる。今日は休日。予定は……めっちゃある。気怠さを引きずりながらも最初の予定である「対談あそび」へと向かった。一対一で話して、そこから感じたことを「手紙」にして渡してもらえるというサービス? 取り組み? いや、あそびらしい。

1時間対話をした中で特に盛り上がった(色々つっこまれた)のは、「ホンモノへのコンプレックス」についての話。私が抱えている音楽や勉学へのコンプレックスには、「自分は正規ルートを通っておらず、邪道であることへの罪悪感」みたいなものである。要は然るべき場所で学んだり研鑽したりしていないということなのだが、果たして正規ルートを通ることが正しいのか? とか、はたから見る分にはできてるように見えるとか(自分ではそれに満足できていないのだが)、他人から出てくる視点は面白くて、考えさせられた。やっぱり閉じこもってるだけじゃなくて、人と話すって大切だ。もちろん、心理的安全が十分保障されている環境においてという前提は必要だが。
ホンモノとか才能とか気にせず、楽しく続けるだけでそれなりのところまで行っちゃう坂口恭平さんみたいな方に憧れる。(そう書いていて、やっぱり「それなりのところには行きたい」んだなと思った)

午後は一箱古本市の準備をしようとした。しようとはした。だが、小冊子を作っていたら夕方になっていた。不思議である。
そして夜からは、『鬱の本』読書会へゆく。40分前に出たのに、渋滞で開始時間ちょうどについてしまった。そういうゆるさを受け入れてくれる場所ではあるのだけれど、やっぱり申し訳なくて、時間に関しては色々な意味で自傷的だなと思ってしまう。

『鬱の本』はちょうど今日から重版が出荷されているみたいで、集まった4人中読めていたのは2人だった。なので、本自体についての話もしつつ、それぞれの個人的経験について話す時間に重きを置いた。
私が紹介したのは土門蘭さんの『死ぬまで生きる日記』と坂口恭平さんの『躁鬱大学』。どちらもしんどい時期になんとか読むことができた本だった。そして、図書館でじっと本を読んでいたことで生き延びることができたというような話をした。
参加者の方からは星野道夫さんの『旅をする木』や映画『グッド・ウィル・ハンティング』、バンドのくるりなど、様々な「しんどい時にそばにあったもの」を伺うことができた。面白かったのは、自分はしんどい時に曲の歌詞が響いてくるのに対して別の方はしんどい時は歌詞が入ってこなくなるという話で、全く真逆だなあと思った。
『鬱の本』からは、落合加依子さん「多摩川で石を拾おうとした」、トナカイさん「沈黙のオジオン」についての話があって、偶然どちらも川に関する話だった。やっぱりしんどいときって無性に河原とか行きたくなるよなあ。

最後の方は雑談タイムだったが、話はだんだん「書くこと」や「作ること」に関するものになっていって、詩を書くことについて色々お話しした。自分は詩を書けないと思っていて、それは文章を書く際にあまりにも説明を入れすぎるからなのだが、とある方によると例え散文でもそこに「詩性」が宿っていれば詩と言えるのではないか、とのこと。そして詩とは「誰にでもわかる言葉で、自分にしか分からないことを書く」らしい。受け売りの受け売りの受け売りぐらいの情報なので定かではないのだが、自分ももう少し、己の感覚に耳を澄ますことができれば、詩を書くことができるのだろうか。

うまくまとめることはできないのだが。本、詩、音楽、映画、そして鬱というものがどこかしらで繋がっている……というより、繋がることができるものなのだということを認識した。そう、鬱という極めて個人的なことであっても、人は繋がることができる。『鬱の本』に書かれている鬱の経験はまるで自分のことのように感じられ、そこにちょっぴり救われるような気がする。そういうものは、大切にしたいと思う。


読書会が終わる頃に気づいたが、芥川・直木賞が発表されていた。芥川賞は九段理江さん『東京都同情塔』が受賞とのこと。もう一度読み返してみよう。