別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

240216雑感

今日は暇だった。仕事中こんな暇しててええんか。多分よくない。

昨晩、久しぶりに暇倫——暇と退屈の倫理学のことを思い出した。4回ぐらいに分けて読書会をやったにもかかわらず、もうけっこう忘れちゃっててやばい。
「本気になることに憧れる」という話を一昨日書いたけれど、それはつまり暇倫でいうところの「奴隷状態(退屈から逃げるために自由を放棄すること)」に憧れているだけではないのか。退屈に耐えられてないだけじゃないのか、ということを考えていた。

しかし一方で、自分は奴隷になることを恐れてもいる(文面だけ見るとすごく物騒だ)。ソシャゲ、YouTubeといった明確に集中リソースを奪おうとしてくるコンテンツからは距離をおいている。SNSからはおけてないが。
自分はのめり込むと他のことをかなり犠牲にしてしまうタイプで、「ちょっと休憩」が全然できなくなる。強力な外的圧力(トイレの我慢限界とか)がないと中断できず、中断してもその間ずっとふわふわしている。思い出すのは中学時代にナウシカ漫画版を読んだときのことで、一週間ぐらいずっと心がどこかへ行ってしまっていた。
そんな状態に身を置くと、かなり疲れる。だから「簡単に集中してしまいそうなこと」をけっこう避けて生きているような気がするのだ。

暇倫は、人は大体「暇つぶししながらも退屈を感じている」みたいな状態を生きている、ということを肯定する。むしろ熱狂とか本気とかばかり礼賛する社会に警鐘を鳴らしている感じだ(政治的な意味合いが大きかったと思うが)。だから、本気に憧れちゃうのは仕方ないとして、そうなれないことを決して悲観する必要はないのかもしれない。


(中断)


考えることに疲れたので、手元にあった、『その夜とこの世』を開いてみた。すごい本じゃん。なんで今まで読まなかったのか。
ブレイディみかこさんの現実を眼差すエッセイと、谷川俊太郎さんの一歩引いて描くような詩の文通。セッション。

同じものを見ていても、見えている景色は違う。そんな当たり前のことを思い出す。自分の近くにも詩を書く人はいて、普通に世間話などするのだけれど、それでもその人の詩を読むとやっぱり見ているものが違うなあと思う。
ただ、普段は全然そんなことを忘れちゃってて、まるで同じものを見て同じことを考えているように錯覚してしまっている。詩じゃなくてエッセイやブログ的なものを書く人に対しては余計にそうなっていると思う。

自分じゃない誰かになりたい。明確に意識することはないけれど、心の底ではずっとそう思っているのかもしれない。自分というフィルターを通して感じること、考えることから自由になりたい。解放されたい。
だけれども、自分らしくなく振る舞うことを自分が許してくれない。検閲されてしまう。


箱男』を読み終わったので、それについてもメモしておく。
難解だった。明確なストーリーがあるというよりは、メタ的に読まなければいけない小説っぽい。途中から誰視点で書かれているのかがすごくややこしくなっていって、軍医殿は一体どこから出てきたのか? とか、ノートに書いていた病院での出来事は妄想じゃなくて本当にそうなっていたのか? とか、考察すべきポイントが多い。ミステリーとか謎解きをせずに読んでしまうタイプなので、苦手かも。