別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

240507雑感

今日も私は死んだ方がいいなぁという気持ちを抱えながら退勤していたのだが、そもそもの発端は勝手な自爆なので救いようがない。
いや、そもそも自分はそんなにやらかしてしまったのだろうか。誰かに咎められたわけではないし(今後咎められる可能性はある)、世間の価値観に照らし合わせて非常識な振る舞いをしてしまったのかも分からない。
ただ自分の中で「やってしまったのではないか」という不安だけがずもずもと大きくなっているだけだ。

失敗を先取りしすぎている。本当は失敗じゃないかもしれないものにまで過剰に反応している気がする。『東京都同情塔』の主人公は頭の中でNG表現の検閲をしていたが、自分の失敗レーダーはガバガバである。
坂口恭平氏が「失敗はどんどん重ねるべき」と書かれていたが、自分の場合、失敗に対して過剰な恐怖を抱いて正視できなくなってしまっている。

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失敗恐怖の裏側には承認欲求が付き纏っている。
私だって一端に認められたい。たまたま書いた文章が誰かの目に止まったり、考えへの共感を表明してもらったり、写真や動画を褒めてもらったり使ってもらいたい。知り合いのつくるZINEとかに寄稿したい。
でも実際そういうお願いが来たとしたら、嬉しさが一周回って「自分なんか全然全然相応しい人間じゃないのでほっといてください!!!」となってしまいそうでもある。
これを「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」と言わずしてなんと呼べようか。博学才穎でも虎榜でも江南尉でもないので、虎にすらなる資格はないが。


今まで何百回と繰り返してきたこの思考について考えていて思うのは、以前より「なんとかしよう」という抵抗をしなくなったな、ということだ。
数年前の自分は本当に迷走していて、自己啓発アドラー心理学、マインドフルネス、ブッダ、禅、精神医学……と手当たり次第行ったり来たりしていたのだが、今はそういう「足掻きまくる」みたいなことをしなくなった。心身ともに体力がなくなったのかもしれない。(激しいアップダウンが減った代わりに、微妙な低調が続いている感じだ)
まあ実のところ、大きな要因は人間関係を構築できたことだろうな、と思う。たまに暴走する私を暖かく見守ってくれて、時には一緒に楽しんでくれる仲間、お兄ちゃんやお姉ちゃんみたいな人たち。それと、しんどすぎない程度のバイトによる定期収入。どれだけ理論的なメソッドも、神秘的な教えも、結局そういう「生活の礎」的なものには勝てないんじゃないか……と思う。
だからさ、ボーナスとかの出るような定職について(※私が未だかつて手にしたことのない、あの幻のボーナスである。棒茄子ではない)、休日には細やかだけどちょっとした旅行とか映画とかを楽しめるようになって、あわよくば恋人なりパートナーと出会ってたくさんお喋りしたりカフェとか行ったりできるようになればさ、自分のクソ矮小な悩みなんて吹っ飛ぶんじゃないの?
ただ私のセルフ遠ざかりマインドは、ひたすらオールを前向きに漕ぎ漕ぎして、そういう宝島からどんどん遠ざかっていってしまうわけである。正社員なんて責任だらけの役を負えるわけがない。お金の管理なんてろくにできてないくせに、収入が増えたって豊かになれっこない。そもそも私を正規雇用してくれる場所なんてない。パートナーなんていたら甘えすぎて愛想を尽かされてしまう。依存しすぎてしまう。親の代わりにしてしまう。そもそも人と一緒にいるのがこれほど苦手なのに、密接な関係なんて築けるはずがない。
うーん、生きづらそうだ。他人事。他人事にしないとやってられんわ。

そういうのが無理だってこと、自分が一番分かっている。いや、分かってないのかもしれないが、分かっていると思っている。
だから周りからあれこれ口出しされるのが死ぬほど嫌である。文字通り死ぬほど。分かっとるわい、死んだろか。と思う。復讐として死にたくなる。
頑固だよな。自分のことに関しては、人一倍頑固だ。祖父の頑固さを変な形で受け継いでしまっている。これが私の醸し出すめんどくささの根本的な部分である。だから人付き合いができないんだよ。

でも、できれば復讐として、という形では死にたくないよな。
自然に、足を滑らして、コケて頭打って、とかで死にたい。