別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

240323雑感

雨の日を楽しむなんて悠長なことを言っていられるのは、お寺の縁側に座って濡れた庭園を見てるようなときであって、仕事の日の雨はやだ。できるだけ降らないでいてほしい。
徒歩や自転車や原付で通勤・通学をする方には概ね同意いただけるだろう。ついでに風邪によるデバフもあるので、今日の雨はけっこうしんどかった。

まだ喉は痛むし鼻もズルズル。本当に手強い風邪だ。
明日一日休めば治せるかもしれないのだが、仕事関係で遠方に出なければならない。うぁー。
休みとはいったい……

そう、休みとはいったい何なのだ。それを真剣に考えなければならない。
最近の自分は、端的に言って過活動気味なのではないかと思った。

一時期自分の中で「過活動」という単語がしっくりきていた時期があって、その頃は坂口恭平氏の影響もあって「躁と鬱」という二極での自己理解を試みていた。
とっても落ち込んでいて、ずっと横になっているような日もあれば、ある日突然、求められてもいないことを次々とやり始める。何かを作り始める。そんな極端な行動を「躁鬱」という言葉が的確に表してくれているように、感じたのだった。(もちろん自分は双極性障害などの診断を受けたことはないし、精神科医による正式な診断は高校以来仰いでいないので、これはあくまで自己理解としての「躁と鬱」である)

ただ、そんなしっくりワードもだんだん使う頻度がなくなっていって(生活スタイルの変化か、読書の変化か?)、最近ではめっきり「過活動」なんてことも感じなくなっていた。
けれども今日、久々に「過活動なのではないか?」という問いが自分の中に浮かんできたのだ。

自分が今、忘れかけていたこのワードをわざわざ引っ張ってきているのは、言い訳をするためなのかもしれない。最近、けっこう色んな人に無茶なお願いをしている。あのときの写真を早めに送ってくれだとか、いついつまでに文章を書いてくれだとか。どちらかというと自分の娯楽的な領域での創作活動に、周りの人を無節操に巻き込んでしまっている。
もちろん「書いてくれ」なんて直接は言えないので、遠回しに「できれば」とか「気が向いたら」とはしているのだが、それでもかなり自己中なお願いであるのは変わりない。それをわかりつつも突っ走ってしまう自分に対する言い訳が、過活動という言葉なのかもしれない。

そして、そもそものきっかけとなる「娯楽的な領域での創作活動」が活発化しているというところも、掘り下げて考えると、やや病的な回避行動にも思えてくる。まず、創作活動に他人を巻き込んでしまうというのは、「自分が自分だけで何かを作ることへの不安」によると思われる。自分に対する不安定さが、書いたり作ったりするものに対しても現れてしまう。端的にいうと、自分のことを愛せないように自分の作ったものも愛せない。それを誤魔化すために、他人を利用してしまっている面があるのではないか。
そしてその創作意欲というのも、元を辿ると作ることへの意欲というより、単なる構ってほしさなのではないか。

……という感じで自分を痛めつける思考パターン。何回目だこれで。
「じゃあ純粋な創作意欲とは何か」ということになってくる。
問題は創作意欲とか構ってほしさではなくて、「自分はけっこう周りに迷惑をかけているのではないか?」「それで嫌われるのではないか?」という不安だ。
自分を痛めつけているというアピールをして(実際に痛めつけられてはいるのだが)、他人の反応を試すみたいな行動パターンはいい加減やめたい。
ただ、先のような疑問を人に問いかける、というのが難しいのだ。

「自分は迷惑をかけているのではないか?」というのを他者の反応から読み取れない人は、空気が読めないとみなされる。そういう姿は「こうあるべきではない」と否定的なイメージで何度も拡散されている。空気が読めないヤツは批判される。
そしておそらく、自分はそういうのが苦手だ。空気が読めない。「読めていないのではないか?」と疑問は抱くが、そこでどう振る舞えばいいのかがわからない。それで否定されることへの恐れが、強い。

この辺が、自分が抱えるコミュニケーションへの根深い問題の一つだと思う。