別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

読書日記一年分予定(12/52)

本格的な冬って感じの年末直前。
体調は割と治ってきて良かった。


前回
himasogai.hateblo.jp


12/17

やけに交通量の多い朝だった。みんな寝坊した?
いろいろなことに気を取られていたらメーターがEに振り切った状態で駅まで来てしまい、詰んだ。帰れるか以前にスタンドまで走れるか。しかも何気に駅から遠い。まあ原付だからまだ押していけるものの、交通量多い道路の真ん中で止まったら…。

『思考の教室』を引き続き読んでいく。論理的思考ではないものとして同語反復やわら人形論法(ストローマン)などいろいろな詭弁が紹介されている。この辺は『大人のための国語ゼミ』でやったところとも結構被ってくるな〜。
戸田山さんの語りかけるような文章は、慣れるまでに少し時間がかかる。というか、「わかった気」にさせないようわざとこうしてるんじゃないか、と思える。シンプルな説明でわかったと思っても丁寧に説明されると「?」となるということは、つまりわかってないじゃんということになる。勢いでわかった気になっちゃわないように、懇切丁寧に書かれているんじゃないかしら。


12/18

ぐっすりn度寝をキメようと思っていたが、諸般の事情により起こされ眠い中出かける。ついでに昨日忘れたお弁当箱を回収したり、図書館に本返したり。いつも停めている立駐が3月ぐらいまで工事になってて驚いた。だいぶ長いな。

用事を済ませて朝から『思考の教室』を読み進める。朝だから頭が働いてスーッと入ってくる、なんてことは全然なくて、相変わらず目がつるつる〜と滑っていく。果たしてこれは読んでいると言えるのか。ただしこんな一文だけは強く刺さった。

だから、「オレ、アタマ悪いから数学勉強しません」というのは間違っている。数学を身につけないからアタマ悪いままなんだ。
戸田山和久『思考の教室』P334)

この本の中では数学含む「ガクモン」は、バイアスに左右されやすい人間の思考力を補強するための制度として捉えられている。特に数学はさまざまな事象を抽象化して、その構造・パターンについて考えることができることを可能にする、というような話。
やっぱ数学って論理的思考の極致みたいなもんだから、数学ができる人は当然論理的思考も得意だし逆も然り。数字を読むのさえためらってしまうようなところで挫折していては何の話にもならない……。


とりあえず(練習問題をちゃんと解いていないので解答編以外は)目を通したので、放置していた『文學界』の飛ばしていた「読むためのトゥルーイズム」3号分(4月、5月、9月号掲載)にも目を通していく。よく見たら課題本3回読めって書いてあるし、毎回課題が出てそれに取り組んでから次号に進んでいるので「ちゃんと読んだ」ことには全くもってならないのだけれど。とりあえずこれが何をやろうとしているのか、という部分をほんのりと読み取ろうとする。
この連載が目指しているのは、究極の精読だと思う。一冊の本を章、段落、文単位にまで分解して、それぞれがどういう構造で組み合わされているのかを読み解いていく、という流れで課題が設定されている。だから課題も「著者が本や章の目的を述べた部分をマークする」とか、「目次とマークした部分を対応させていき、本全体の構造を図式化する」みたいなトレーニングになっている。

これが個人的に、壊滅的に片付けられない人間に対して「すべてのもののサイズを測ってそれに見合う場所に収納しろ」って言ってるようなレベルのハードルに感じてしまう。つまりそもそも「みんなこれなら当たり前にできるよね」という前提の時点でつまづいているわけなので、そりゃ辛い。
中学生の国語とかでやる、教科書の接続詞に丸をして主述関係に傍線を引いて、みたいなことのめちゃくちゃハイレベル版。その中学の課題でさえ今の自分にできるかどうか。脳が恐ろしく劣化している……。

またこの連載がとっかかりにくいのは、かなりアカデミック寄りの読書会になっているというのがあるだろう。自分が参加したりしているゆるい読書会(それこそ本に書かれていることからどんどん離れて連想したエピソードがポンポン飛び交うような)とは180度違う。
そして課題や進め方の方法論として人文学哲学社会学的な方法論がかなり参照されていて、言い回しや図表の作り方、記号の使い方の法則なんかがよくわからない。たぶん論文とかをちゃんと書いたことのある人ならば理解できるのだろうけれど……。

とひたすら読めない言い訳を並べてもしょうがないので、読めそうな時にもう一度チャレンジできたらいいな。。。


12/19

最近では比較的ちゃんと寝られた気がする。昨日結構歩いたからだろうか。朝のニュースで風が冷たいって言ってたけど、日差しの中にいたらあったかいなぁ、と思ってたら午後から普通に寒かった。

ようやくいよいよ『GOAT』をゴーッと読んでいく。それにしても”Greatest of All Time“なんて随分強気なネーミングだと思ったが、西加奈子市川沙央小川哲……と初っ端から読み応えは十分である。マジでどうやってこの販売価格を実現したんだ。

最初から細かくみていこう。カバー見返しはエリエールの広告。なぜ?と思ったが、本誌は「紙」を大切にするというテーマが貫かれてるので、その関係かな。
扉はNTラシャの濃赤に銀インク印刷(最後に全ページの使用紙一覧が載っている)。510円でしていい造本じゃないぞ?
そこから目次ページ(長いので折り込まれている)があり、『読者のみなさんへ』、連載作家の口絵写真が続く。すべてフルカラーである。しかもただ撮ったプロフィール的な感じじゃなくて、ちゃんとデザインレイアウトされている。この辺はWebとの連動も意識してる感じか。
そして「愛」という特集テーマの扉ページがあり、連載小説ゾーンが始まる。

西加奈子『ディヴァイン』は現代的な「働く母」としての女性が新たな搾取の中に陥ってしまう話。主人公はサヴァティカル中の文学研究者で、シングルマザー。職場での性差別やセクハラで休職を余儀なくされた過去があるが、身体的なトレーニングや瞑想により持ち直し、今では「もの言う女性」としてさまざまな理不尽を退ける強さも持ち合わせている。
これだけ見ると実に理想的な生き方をしている人物のように思えるのだが、なぜか主人公はどんどん新たな搾取構造に巻き込まれていってしまう。その原因というかきっかけになっているのが表題の「ディヴァイン」だ。瞑想の師匠曰く「神聖な存在」であるところのディヴァイン(インナーチャイルドとかハイヤーセルフとか、たぶんそんな感じ)と出会った主人公は、ディヴァインとの対話によってさまざまな苦難を乗り越えていく。モラハラ気味であった父、親子関係が逆転してしまっていた母、働かず実家に居座り続ける兄、環境活動家に憧れさまざまな不正に物申すようになった娘。彼ら彼女らを主人公は許そうと務め、身を粉にして彼らの要望に応えようとする……。
という具合に、理想的であろうとするあまりに雁字搦めになってしまっているのだ。搾取から抜け出そうとした女性が新たな搾取に取り込まれてしまうというなんとも皮肉な構図。
何より面白いのはこの小説がとある視点で書かれていて、めちゃくちゃコントになっているという作り。

続いてコラムとチョン・セランのエッセイを挟み(ドラマとかで出てくる純粋で一途な愛ってなんかあれだよね、みたいな話)、市川沙央『音の心中』。市川さんは毎度何かしらの「世間的に良いとされているもの」を抉ってくるところがあるが、今回もそこは健在。
主人公は脚本家志望だがWebライターで糊口を凌いでいる。編集長との雑談がきっかけでトンデモ記事を書くことになり、図書館で資料を調べていたところ、本棚に挟まれていた謎のCDを見つける。そのCDには誰かの心音がレコーディングされており……。という流れが結構わくわく。
主人公の書くことになる記事というのが婚活やマッチングアプリに関するもので、架空のインタビューをでっち上げながら自分自身の過去のパートナーとの関係性が想起されていく。かつては良好な関係を築いていた彼氏だったが、同棲を始めた頃から平和活動やスタンディングデモに積極的に参加するようになる。一方の主人公はそういった活動にあまり積極的になれず、むしろそうやって熱狂的に活動することのほうが戦争に加担しているのではないか、とさえ思う。結局彼からは「君には心がない」と言われ関係は破局。これもまた現実的にすごいありそうなエピソードだと思う。
市川さんの作品は部分部分に象徴的なものが張り巡らされていて(例えば主人公の名前は「心音」だし、最終的に主人公は自身の中に「戦争」のような心音を抱えて生きていく)、一度読んだだけでは全く把握しきれないので、もう何度か読みたい。ボルダンスキーのオリエンタリズムとかも書かれて初めてそうなのか、と思ったし。

そして小川哲『嘔吐』である。タイトルからすでに不穏な感じがする。
物語はとあるブログ投稿から始まる。若手女性作家・角谷桃の発売記念イベントに参加するため会場に向かった人物が、「おじさん」であるから入場拒否された、という内容の投稿である。
投稿は炎上し、作家や出版社に批判が集まるが、徐々に関係人物の発言が出始めて……という藪の中式のストーリー。読み手の立場によってどちらを擁護したくなるかがきっぱり分かれる作品だと思う。炎上した人物は作家に出会って人生が変わったと主張しており、確かにそこには作家への愛が詰まっている。ただ、割とネトスト気味ていて、作家の過去投稿や、参加したインスタライブとかまで掘っている。作家側からすると、そりゃかなり怖い。
ただ、このおじさんにも一応分別はあって、身を引くべきところでは引いているし(サイン会でキレたのは事実っぽいが)、仮にこれが「男性アイドル対女性ファン」だったらここまで大ごとになったかというと微妙だ(もちろん、作家は自分自身じゃなくて作品を売っているのだが)。
というかこれは出版社側がもうちょっと仕事しろ案件なのではないかと思った。作家を守るならもう少し早く手を打っておけば双方のダメージも小さくて済んだのでは。

Xで感想見たらオタクにほど刺さってておもろい。


12/20

仕事が忙しい日だったので疲れた。
『GOAT』より、尾崎世界観「【ア】【イ】」を読む。今作はライブの観客側の話だ。私とヒロはライブがきっかけで出会ったカップル。ある日のライブで私は倒れてしまい、ヒロに看病されているという場面から物語は始まる。しかし、突然二人のことを【ア】および【イ】としてその行動を追う謎の人物が登場し……。今回も設定のぶっ飛び具合がすごいのだが、ライブに参加する人々の行動を追う調査員が存在しているらしい。その実態や目的は結局よくわからないのだが(人間のようでありながら、人間でもないような描写もある)、個人的には『モモ』の灰色の男をイメージした。
ここで登場しているライブというのがパンク・ラウドロック界隈で、ライブの描写がとにかく激しい。バンドの描写はほぼなくて、観客が次々ダイブやモッシュを決めていく様子が書かれている。まるで弱肉強食のサバンナである。
調査員が何らかの干渉をしているのかは不明だが、あれだけ楽しかったライブなのに終わったら何も覚えていない、というのはめっちゃ分かる。

続いて対談。『Awich×細谷功 具体と抽象で切り拓く「愛ある世界」』はラッパー×ビジネス書著者という異色のコラボだ。写真もふんだんにレイアウトした贅沢な誌面。
アーティストとして詩を書く際にどの程度具体と抽象を行き来するのか、といった話は興味深い。グラミーを獲るためには……と具体的な戦略を話し合ってる部分もあり、今音楽を多くの人に届けようとするならばビジネス的思考は避けて通れないよな〜と思った。


12/21

心がじわじわ疲弊していっているのを感じている最近。明日のために休みを取ったが結局11時まで寝てしまう。
ご飯を食べてひたすら印刷印刷。乾燥なのかプリンタの不具合なのか、2枚重なり紙を巻き込んだりとミスプリを大量生産し、カラーインクはマゼンダ以外出なくなっていて、そろそろプリンター買うべきだ。

イベント前の準備、どこまでやっても足りない気がする病がまた発症しており困る。

夜は数ヶ月ぶりに読書会にいき、他の人の紹介を聞きつつ文チャレのために『文學界12月号』をまとめていた。今回はなんか文量が少ないなあ。あまり読めていなかったかもしれない。


12/22

8時に頑張って起きて諸々の準備をして、ついでに『お前の寝言かわからない』を借りていた人に今日会うので慌てて読む。文系理系の特徴みたいなところは割とステレオタイプ的だけど、勢いは良い。

10時前にニネンノハコ(※イベントとかもできる部室的空間)に着き、急いで片付けや準備を始める。このあと11時からイベント「大門文芸市」が開催されるのだ。
机を吊って端に寄せ、細々したものをどかすと、長屋のような細長い空間が完成した。その空間を机で分割して、半分は出店スペース、もう半分はお客さんの通路とする。狭いっちゃあ狭いけど、なんとかなりそうだ。
10時ごろに参加者が続々集まってきて、それぞれ自由に場所を決めて設営していく。と言ってもそこまで大掛かりなものはできないのだが、50cm幅ぐらいのスペースでそれぞれうまくレイアウトされていた。
11時、ついに「大門文芸市」がスタート。即売会っぽく拍手で始めてみる。まあローカルもローカルな催しなので、ほぼお知り合いしか訪ねては来ないだろう。と思っていたら、出店者さんの知人や引っ越された方など、あまり会わない人たちもちょくちょく来られていた。自分はいつも通りにあちこちうろちょろして写真を撮ったりしていたが、後で見返すと思ったほど撮っていなかったので一体何をしていたのだろう?
ところどころでボドゲを挟んだりしつつ、イベントは17時に閉幕した。からの夜の部として「文芸誌を一年間読んでみるチャレンジ」の12月号回をやる。昨年12月から始まったチャレンジなので、今回で一年。つまり最終回である。
思い返してみたらこの一年、ずーーーーーっと文芸誌を読んでいた気がする。文芸誌以外を読んだ記憶があまりない。いや、読んではいるのだが、常に文芸誌に追われながら過ごしていたので文芸誌の記憶ばかりが強く残っている。だから最終回で開放感を味わえるかと思ったのだが、後々なんらかのZINEとかにまとめたいなーと思っているのと、最近もGOATとかMonkeyとか色々手を出してしまっていて、まだまだ文芸誌漬けの日々が続きそう。
他の参加メンバーも年末で忙しく、正直みんなあんまり読めてない回だった。ちょっと不完全燃焼ではあるので、後々「総まとめ」的なフォローアップはしておきたい。


12/23

昨晩に引き続きもんのすごい寒い。山の方には雪雲っぽいものも見えていて、超極暖を着ていても暑くない寒さだった。

昨日の疲れを引きずっていて、太ももが痛い。イベント翌日は死ぬように眠りたい。だが仕事だ(前日に休みを取ったのだが、後ろでとった方が良かったかも)。
来月の文フリのあとは絶対休みにしようと思った。

疲れているのは体だけではない。自分の場合、パーティーが終わると、鬱が始まる。「みんなに負担をかけすぎたかも」「自分だけ空回りしてたかも」「というか自分何様」みたいな思考がぐるんぐるん。しかも今日は仕事でちょっとした残念なことがあって、それも自分が色々蔑ろにしていた結果だったし、凹む。もう辞めたい生きるのも辞めたい。そもそもこうやって日記を書くことによってもどこまでも自分の受け取り方を正当化しているみたいでずるいんじゃないか……と。

とりあえず、今週にもう一つプチイベントがあって、年末もなんかやって、そして文フリに向けた準備とか色々。半年ぐらいはまだやらなければならないことがあって、それを投げ出して死んだらみんなに迷惑をかけるから……という消極的な生きる理由で半年やっていけるかどうか。神のみぞ知る。当たり前のように「〇〇歳までに」とか「老後は」とかの計画を立てられる人が全然わからん。

計画といえば、自分が予定を立てたり優先順位を考えたり部屋を片付けたりするのが苦手なのは、「何かを固定するのが下手」なんじゃないかという考えを得た。計画とか締切とかって時間を区切って固定することだし、部屋を片付けるのは物の位置を固定することだし、という共通項を見出せなくもない。イベント前に「あれもやった方がいい」「これもやらなきゃ」となってストップをかけられないのもそう。
そんな感じで固定ができないので、「ずっとふわふわしている」ような感じがしているのではないか。もちろんいずれ時間なり空間なり体力なりの限界を迎えてストップさせられるわけなのだが、毎度納得のいかない中断ばかりしていると精神的にも結構しんどい。そう感じるのはこれまた完璧主義で、最後までコントローラブルであって欲しいみたいな欲望があるとか、別の問題も絡んでくる気はするが。


そうやって悶々しつつ今読んでいるのは、古賀及子・スズキナオの往復書簡『青春ばかり追いかけている、なにもかも誰より一番慣れない』。大阪のインディーズ出版専門店、シカクの出版部より出ているZINEだ。もうこのタイトルにすでに二人の個性が出ていて面白い。
個人的には特に古賀さんの独特の言葉遣いが好きで、最初の書簡に出てくる(風が)「泡で包むみたいにやわらかくて湿り気があって、優しさに困惑します」いう文章でもうやられる。
いちおう感情についてという大きなテーマはありつつ、その時々の季節や社会のことなどざっくばらんに書いてあって楽しい。

shikaku-online.shop-pro.jp