別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

読書を難しく考える

当たり前のことだけど、本を読むためには、今からある一冊を読もうと心に決め、その一冊を手に取らないことには何も始まらない。だが、私はこれが非常に苦手だ。読もうと思って借りている本、買った本。さまざまな本が本棚を圧迫しているが、そのどれもが「そのうち読もう」というカテゴリから「今読みたい」というカテゴリに移ってこない。「読む一冊」を決めることができない。
集中して本を読むためには、一冊の本だけ手元にあって、それ以外は何も持っていないという状況を作るのが一番だ。だから通勤電車の中だけは読書が捗る。一冊しか持ってきていないからだ。あと私は基本的に天邪鬼なので、みんながスマホをいじっていると本を読みたくなる。社会に対するちっぽけな抵抗である。
すごい読書家や読むのが早い人はもう2、3冊持ち歩いたりするのかもしれない。だが私は選択肢があるともうダメなのだ。行きに読んでいた本を置いて帰りに別の本を読もうものなら、もう最初の本に帰ってこれなくなってしまう。私が本を2冊以上持ち歩くのは、現在進行中の本がもうすぐ読み終わりそうな時だけである(そしてそういう時は余韻に浸る間もなくすぐ2冊目に移行している)。

そもそも私にとって読書は何かと言われたら、端的に言って暇つぶしである。社会を知るとか他者に共感するとか知識が増えるとか、そういう有意義そうな理由の百歩ぐらい前で、ただひたすら暇を潰すために本を読んでいる。こうでもして暇を潰していないと退屈のダークサイドに落ちてしまう。
基本的に世の中のあらゆる文化的活動の源泉は暇つぶしだと思っていて(暇倫過激派)、それがYouTubeだったりSNSだったりソシャゲだったりする中で、たまたま(ある条件下での)私にとって本がピッタリハマっているというだけであって、別に読書が格段高尚な趣味だとも思わない。「読書は素晴らしい」と思うのは、単に自分の推しが読書というだけのことだ。
その一方で、読書できないことに無駄に落ち込んだりもする。周りに読書家が多いからだ。自分が一週間のうちぼんやりTwitterを眺めている総時間の中で本を3冊読む人だっているかもしれない。そんな超人と自分とを比較して、落ち込む。
世の中には努力に対するハードルが高い人も低い人もいるように、読書のハードルが低い人だってたくさんいるだろう。だから本当な自分にあった最適な読書量を保てるのが一番いいと思うのだが、そこがまだ自分でもよくわかっていないのだ。

今、自分の心に「なんで読書できないの?」と問いかけてみる。
時間はたっぷりある。もちろんこうしてブログに向き合う時間も今の自分には必要で、それは確保した上でSNSをぼんやり眺めてしまう時間なんかはもうちょっと削れないものだろうか?

「怖い」
怖いという言葉がぼんやりと浮かんできた。何が? 読書が? 
読書というのは基本的に孤独な行為なので、読書をするためには孤独にならなければならない。それが怖い?
いや、ちょっと違うかもしれない。
本を読み始めると、(日によってまちまちだが)数分間全く集中できない時間が続く。目が滑る。文字が言葉として認識されない。でも、ある瞬間、吸った息が体の深くまで染み渡るような感覚で、本の中に没入するタイミングがある。それは完全に周囲の世界と断絶する瞬間でもある。仮にそれがめちゃくちゃ面白い小説だったりすると、しばらく戻ってこられなくなってしまう(たとえ明日仕事で早起きしなければならなくとも)。
もしかすると、それが怖いのかもしれない。
ゾーンに入ってしまえばもうこちらのもんなんだが、その最初の断絶する感覚。それを半意識的に避けているのではないか?
SNSをぼんやり読んでいる時には、その深い没頭は訪れない。スクロールするたびに情報が変わっていくので、没頭させてくれないのだろう。(SNSをみること自体には集中している、というか囚われている感じがするが)
つまり、SNSは読書に比べてライトである。精神力を用いて、深いゾーンに入ることを要求しない。人間は楽な方に流れるので、SNS(もちろん、それ以外のいろいろな物事も)に囚われていると、なかなか読書ができない。たぶん同じ理由でアニメとかも一気見できない。

そう考えると、読書できないことへの不満というのもただ他人と比較しているからだけではない気がしてくる。
ゾーンに入るのは大変だけれど、入った後の没頭感はおそらく気持ちいいのだ。おそらくというのは、没頭時の心地よさは後になると結構忘れていて、抜け出す頃には疲れていることが多いからかもしれない。

身近な読書界隈。これ10人ぐらいが1日に買った本である。怖い。

もどかしい。悔しい。そんな感情を抱いている。
最近読んでいる図書館本は、今週末までに返さなければならない。おそらく毎日の通勤時間×3日で2時間ちょい読んで半分なので、読了まであと2時間かかる。通勤時間だけではギリギリ間に合わない。今この時間を読書に充てれば間に合うはずなのだが、それを選択できない自分がもどかしい。
そんなの読もうと思えばいいだけじゃないか、と思われるかもしれない。だが私は自分の意志力を一切信用していない。読もうと思って、そこから読書に直行できることなんてほとんどない。他のやることが頭を掠めてうるさい。眠気にも負けてしまう。
読書に没入する、その瞬間は一瞬であるが、そこに至るまでは長い道のりが必要なのだ。読書に向かうための「流れ」を生み出さねばならない。
でも、そう考えるとやっぱり読書も生活と繋がっていて、決して断絶しているわけではないのかもしれない。そういうふうに考えられたら、「怖さ」やハードルもマシになるのではないか。
結局これも『ライティングの哲学』でやったあの流れに回収されそうだ。ぐるっと一周して戻ってきた。
でも、考えるって大体そんな感じかもしれない。
これもまた暇つぶしだろうか。