別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

心はどこで死んだ?

気づいたら、心が死んでいた。一体誰がこんなひどいことを……!(犯人はヤス
とまあ茶番はさておき、通勤の電車で『鬱の本』を読んでいたら、瀕死になっている自らの心に気付いてしまったのである。

『鬱の本』は昨年12月に点滅社より出版されたエッセイ集で、84人が「鬱と本」についてのエッセイを寄稿している。荻原魚雷さんとかphaさんとか個人的に最近読み始めたエッセイストから、町田康さんに谷川俊太郎さんに大槌ケンヂさんみたいな大御所まで寄稿している。なので、ある人の「鬱の時に救われた本」の著者がまた別の本を紹介していたりするという、なんだかすごい本である。
そんな本書には「鬱の時のこと」がたくさん書かれているのだけれど、そのどれもが身に覚えがあるようで、というかまさに今足を突っ込みかけてる感じがしないか? ってな部分もあったりして(もちろん診断的な「うつ病」ではなくて、なんとなくメンタル不調な感じ)、ちょっと心配になってしまった。

「他の人より感動が薄いのではないか」という疑問は以前から抱いていたのだが、特に最近それが顕著である。心が動いていない。様々な出来事が目の前をただ流れてゆく。というか、心を閉ざしているのだ。自分が。
心の扉を硬く閉じてしまう原因の一つは多分仕事で、業務的なコミュニケーションをする際にすごく心を殺している気がする。相手の目を見ず、早く終わってくれることを願いながら定型分を繰り返す。メールの文頭に「お世話になっております」と書いた瞬間に、なんだか大切なものに蓋をして閉じ込めてしまっているような感じがする。領収書なんて作ってる時はもう廃人形である。
これは仕事が悪いというよりも、自分の仕事に対する姿勢——「失敗を絶対絶対したくない」という強迫観念のせいであるような気がする。下手に心を開いて取り組んで失敗しようものなら、立ち直れる気がしない。だから、心を殺す。
SNSにもじわじわと心を削られているような気がする。そこに飛び交う刺激的な情報、キツイ言葉、対立、不満などなどを「自分はまともで冷静だ」と思いながら眺めているのだが、その実じわじわとストレスを溜め込んでいる可能性は高い。一日に触れる情報数の制限かなんかあった方がいいんじゃないかほんと。(それが良い情報でも悪い情報でも、数が多すぎると疲れるはずだ)

『鬱の本』のエッセイの多くは鬱経験について書かれていて、それはやっぱり重かったりするんだけれど、でもその中にも「カメラを持って川辺を歩いた」とか「差し込む光が綺麗だった」とか少し希望になりそうな話もあったりする。今の自分にはそういうのが圧倒的に足りていない。チャンスがあったとしても見過ごしてしまっているか、たいして気にもせずスルーしてしまっている。
心がこのまま瀕死状態だったら、いずれ体も不調になって、生命として本当に死んでしまうかもしれない。もうちょっと心のことを慮ってやらねばならない。



ちなみに『鬱の本』は読書会をやる予定。

オフラインだし、平日夜だし、そもそも品切れでなかなか手に入らない「鬱」についての本の読書会。一体どれだけ人が集まるのか不明だが、とりあえず誰も来なかったら会場のスタッフさんと人生でも語り合おうかなと思っている。
これをやって、ちょっとでも心を取り戻せたらいいな(殺人マシーンとして育てられた愛を知らぬ少女……?)