別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

空白の日記

カレンダーをめくるのが億劫である。なぜか毎月、翌月の中盤を過ぎたあたりでようやく思い腰を上げてビリビリと先月分を剥がす。

そんな怠惰な感じでも特に問題がないのは、カレンダーがカレンダーとしての役割を果たしていないからであって、それ以前にカレンダーに書き込むような重要な予定もない平凡な日々を過ごしているからである。ちなみにめくるのが遅いのは、カレンダーの写真が浅田政志さんの素敵な写真だからという理由もある。どちらにせよちゃんと時差補正をすればいいのだが……。

 

カレンダーと同じぐらい億劫なのが、日記を書くことだ。

2019年の夏に10年日記を買って以来、書いたり書かなかったりするものの、いちおう五年は続いている(どうでもいいけど、「一応五年」って書くと年号みたいだ。戦国時代ぐらいにあってもおかしくないよな)。

そんな日記も、3月くらいから空白が続いている。書いてもせいぜい月二日。10年日記はちゃんと日付ごとにページが分かれているので、どの日に書かなかったのかが一目で分かる。

 

それなりに紙質も良くしっかりした作りの日記に空白が増えていくのはなんだか勿体ない気がしないでもないが、しかし、「空白」であることにもそれなりの意味があると思っている。書かなかったのではない。書けなかったのだ。

過去の日記を眺めていると、例え特筆するようなことがない平凡な日であっても、何時に起きて、散歩したり本を読んだりして一日をやり過ごしたというような記録が残っている。つまり、書けなかった日というのは何もなかったのではなくて、日記に向かおうとする気力が無かった日なのである。

それをもう少し俯瞰的に眺めていくと、なんとなく「調子のいいシーズン」と「調子の悪いシーズン」が浮かび上がってくる。これはけっこう重要な情報だ。3月から4月は空白が目立つ。6月ごろは意外と大丈夫で、そこから冬に向かうと密度が増えていく。つまり、自分は一月とか四月とか、世間的に「節目」のシーズンが苦手というのがぼんやりとうかがえる。気持ちだけが先走って、周囲と比較して落ち込んだり、環境が色々を変わってストレスを感じやすい時期なのだろう。そういう傾向が見えてくると、対策のしようもあるかもしれない。

なお、4月22日は五年間一度も日記を書けていないやべぇ日である。完全に厄日じゃん。

 

補足しておくと、もちろん日記が書けない理由はさまざまである。一日中出かけていて、帰ってから即倒れ込んでしまうような日もあるだろう。だが、空白が二週間以上続くとなると、やっぱり気持ちの問題が大きいと言える。

日記を書くことはルーチンである。できればやりたい。意識には登っている。棚から引っ張り出してきて、机の上に置いてペンを取ればいいだけだ。10年日記の一日なんてたったの五行である。悩んでも十分あれば足りる。でもそれができない。

たぶん、整理がつけられないのだ。日記を書く行為は、その一日を整理して、終止符を打つ行為だと思う。それができないのは、何か心に引っ掛かることがあるということ。モヤモヤを抱えながら日々を過ごしているということだ。そして、意外と自分でもそれに気付かないことがある。最初は何か違和感を感じていても、それが続いていくと慣れてしまって、忘れてしまう。

そんなことを思い出させてくれるのが、空白の日記なのだ。

 

だから、日記を書くのは意外と大切。いや、別に日記じゃなくてもいい。ただ何かしら記録に残ることを続けていけばいい。ブログでもいいし、セルフケアアプリの感情記録でもいい。やった/やれなかったが記録として残ることが重要だ。その時々においては「できた」「できなかった」と一喜一憂することもあるけれど、それが続いていけば、とても意味のある蓄積になっていく。

記録があなたに問いかけてくるのだ。「最近、大丈夫?」と。