別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

堂々と落下する

休み。布団から出られず。食べて寝てを繰り返していたら気持ち悪くなった。
お布団に包まれていると身体的にはとても安心感を得られるのだが、頭では余計なことを考えてしまう。こんなに何もしていない自分に、生きている価値はあるのか? もし先延ばしにしていたあらゆる問題が降りかかってきたら、自分は耐えられるのか? なんで生きたくもないのに生きているのか?
こういう問いは、元気なときであれば「くだらなくて、答えのない、考えても無駄なこと」と思ってしまうかもしれない。しかしこれは問うこと自体に意味がある問いであって、答えが出ないなりに付き合っていく必要のある問いなのだろう。もちろん、それを問うている最中はとても辛いのだが。

起きると起きないの間の葛藤を何十往復もしたが、今日は起きた。起きてEPADを見にいった。予約を入れていたのだった。
本日観たのは劇団た組『ドードーが落下する』。公式では「青春失踪劇」と書かれていて、確かに青春だったような気もするのだが、扱っているテーマがテーマなのでかなり社会的な作品だと感じられる。
あらすじを一言でいうと、主人公の一人・夏目が失踪したことで彼の統合失調症が発覚し、友人たちとの関係性が変わっていく物語である。共通のノリで付き合っていたグループの中に「病気」という異質なものが持ち込まれ、ギクシャクしてしまうこのリアルさ。自分はあの「ノリ」が本当に嫌で人間関係を拒否しているところがあるので、正直どこまでリアルなのかというのは自信を持てないのだが、それでも「ノリ」から外されてしまいこんなことを言う夏目には共感してしまう。
「実は価値が無いものは見えない方が世間はすごく良くなるんですよ」
その価値があるとかないとかを判断しているのは社会とか「普通」の側にいる人たちなのに、それを当事者が内面化してしまうことの悲痛さ。そしてこの構図はものすごく身に覚えがある。
ただこの作品の救いは、病気の夏目から離れていく人々もいる中で、それでも歩み寄ろうとしてくれる信也や庄田がいたことだろう。夏目の糾弾したように上から目線すぎるところもあるし、逆に夏目も彼らをとても傷つけている。けれども、最後の最後がああしてタランティーノしかわからないギャグで終わったのは、ちょっとした救いだったような気がした。その辺が青春なのかもしれない。

「障害や病を持った人との付き合い」というと、どうしてもニュース番組的な、とても福祉的な、「適切なマニュアル的対応」とでも言うべき形を思い浮かべてしまう。それは多分、身近にそういう人がいなかったことや、義務教育で教えられてきた押し付けがましい「思いやり」なんかの影響が大きいのだろう。
でも、実際現実に存在するのは、障害や病以前にまずは一対一の人と人との関係である。
時にぶつかったり、不適切だったりしながらも、それでも関係しようとすること。そういうことなのかもしれないなあ。