別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

ユートピアの方へ

読書会に参加した。課題本『ユートピアとしての本書』を読み終わったのがつい昨日だったので話すことも全然まとまっておらず、しどろもどろとした発言になってしまったが、「だいたいらこういう話があったよね」でも伝わってくれるのが課題本ありの読書会の良さだ(そこに甘えすぎるのもダメだけど…)。
ユートピアとしての本屋』は「本屋はユートピアである」といった内容の本ではない。むしろ「本屋は簡単にディストピアになってしまう」という警鐘を鳴らしつつ、ヘイトや差別に一人一人がどう向き合っていけるかというテーマを中心に書かれている。
私が関心を抱いていた表現の自由問題に関しては、構造的な差別のある社会における「中立」は中立ではないという指摘がなされていて、ここには参加者の皆さんも同意しているようだった。
正直な話をすると、私にとって「ジェンダー」も「差別」も「ヘイト」もまだ十分自分ごとではない。それは私がマジョリティの中に埋もれていて、「気にせざるを得ない」状態に置かれた経験がほとんどないからだろう。文系理系とか正規非正規だとか、社会の中の謎の分類に対して疑問を抱いたり苦しい思いをしたことはあるけれど、生まれ持った属性によって不利な立場に立たされたことはないかもしれない。そんな自分がこういった本を手にするのは「話題性」の側面が大きい。ただ、きっかけはそんなことであっても、こうして一冊の本を手に取らせ、入り口まで導いてくれるのはやはり本屋である。独立系書店の入り口付近によく置かれている、弱い立場の人たちに寄り添う本たち。それは、当事者の人々にとってはこれ以上ない肯定であり、自分のようにただの本好きにとっては入り口への誘いである。だから(たとえ流行りだとしても)その一冊を置くこと/置かないことの意味は大きいのだろう。

今回の会では、「正直どうかと思いながらも売る」側の立場の話も聞くことができた。これはヘイト本に限定しなければものを売る人なら大なり小なり感じていることなのかもしれない。本心ではあまり薦められないが、お金をもらい、客側から求められている以上売らなければならない。それを仕方ないと諦めるか、それでも何かできないかと問い続けるか。表面的な結果は変わらずとも、その違いは大きいと信じたい。
また、「ヘイト本」というカテゴライズに関しても、改めて考えると結構難しそうだなと思った。少なくとも「このジャンル=ヘイト」みたいな安易な判断をする前に、共有知を参照すること、そして最終的には自分で判断すること(その判断を他者に任せてしまうことが、結果的に別のヘイトを産んでしまう可能性があるのではないか)と思った。

最後に、これを書いていて強く思ったのは、いい加減そろそろ学校的なお行儀の良い道徳から離れなければならないなということだ。簡単に分類したり、判断したりできる物だけじゃなくて、よく分からないモヤモヤした、後味の悪いことにも向きあっていかなければ。そのためにはやっぱり、本を読まなきゃいけない。