別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

初トルストイの不思議な読後感について

いろいろな作家に触れる手っ取り早い方法として、ポプラ社から出ている「百年文庫」シリーズの読破を目指している。このシリーズはどれも150ページ前後の分量中に3人の作家の掌編が収録されていて、通勤時間に読むのにちょうど良いのだ。
現在読んでいるのが8巻で、テーマは「罪」。各巻テーマに基づいた作品が選ばれているのだが、8巻にはツヴァイク魯迅トルストイらの作品が入っている。ツヴァイク魯迅が20ページ程度の作品なのに対してトルストイは130ページあるという、かなりバランスの偏った巻になっているのも百年文庫ならでは。

そんなわけで、人生で初めて読むことになったトルストイは『神父セルギイ』だったのだが、この作品、短い割にめちゃくちゃ濃い。三人称で語られるセルギイ神父の葛藤がすっごいわかる。いや、「行く手にあらわれるいかなることにおいても、完全無欠に、みごとにやってのけて、人々の賞賛と驚嘆をかちえようとする」みたいな超絶レベルのマウント精神は持ち合わせていないのだが(例え認められるとしても、努力するのは嫌というかもうそれで何度も心折れてるし)、承認欲求でヤケになっちゃって、それがうまくいかないと今度は捻くれて全く違う方向に進む……みたいなムーヴはものすごく身に覚えがあって堪える。
そうやって揺れに揺れるセルギイ神父だが、やっぱりものすごく真面目でストイックな部分があって、最終的に自らの欲に絶望して巡礼の旅に出る。ここからの展開が本当に凄い。これは利他についての話なのかもしれない。神のためを口実にして人々のために生きる(利他のために利他をする)のではなく、人々のために生きると思いながら神のために生きる(思いがけず利他をする)。

なぜかしら、読んでいる途中に自分が疲れているのを強烈に自覚した瞬間があった。日ごろ、疲れを自覚できずに気付いたら限界近くになっていることが多いので、「ああ、疲れてるな」と感じてそれを受け入れられたのは、けっこう気が楽になる出来事だった。でもなんで読書中にそんなことが起きたのだろうか。トルストイの心理描写力が高すぎるからだろうか。この作品はおそらく緩急のバランスがすごく良くって、ずっと息を呑んで読み通す感じではなく、ところどころでふーっと力が抜ける瞬間があった。そういうのがうまく噛み合って、疲れの自覚に至ったのかもしれない。
こういう読後感は今まで感じたことがない。不思議な感じだ。この流れでトルストイ、いろいろ読んでみようかな。