別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

240320雑感

山地を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。
眼下に広がる田圃の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!
野面にすらりと足を置いて
虹のアーチが軽やかに
すっくと空に立ったのを!

——吉野弘「虹の足」 『吉野弘詩集』(ハルキ文庫)より

どのタイミングだったのだろう。
昨晩のことを思い出してみる。仕事終わりに、最終回を迎えるという聖書の読書会に立ち寄って、黙示録を読んだ。二年前の創世記の回から飛び飛びでしか参加していなかったけれど、最終回となると結構寂しくて、ついついスペースで配信されていた過去回を聞いたりしていて、深夜2時になった。
まずはそれだ。どれだけ興奮していようとも、夜更かしは良くない。体にも心にも悪い。
そして結局後びいてしまい、昼過ぎまで寝ていたし、起きてからも全然動けなくなってしまっていた。
で、お布団の中でスマホを見ていた。それもダメだ。目がどんどん疲れていって、眠たいのか疲れなのかわからない感じになってしまう。

そういうわけで、3時ぐらいまで全く動けなかったわけだ。ようやく布団から起き上がったときには、足腰がめちゃくちゃ凝り固まっていた。
こうやって休日を潰していくたび、自分のことが嫌いになってしまう。それが何より嫌だ。

唯一救いになったのは、知人に付き添ってもらい、電子ピアノを見にいく予定を入れていたことだった。
いいかげん、起きなきゃ。もしピアノを買ったら置き場所がないから、片付けなきゃ。
そうやって背中を押され、着替えを取りに部屋を出たときだった。雨が止んだ。夕時の低い陽が差してきた。
あ、虹が出るな、と思った。

虹は、思いの外近かった。家の窓から見えるたんぼの真ん中に、虹の右足が刺さっていた。

虹が出る瞬間を見るのは初めてかもしれない。虹は「すくっと立つ」というよりは、ぽわーっと出てきてふわーっと消えていった。
自分がどれだけ死んでいようとも、当たり前のように世界は激しかったり綺麗だったりするもんだなと思った。


冒頭に引いた吉野弘の詩は、国語教科書の最初に載っていた詩の中で一番印象に残っている詩である。というかこれ以外はどんな詩が載っていたか、あまり覚えていない。
詩の中でバスの乗客は、虹の中にいながらもそれに気づいていない村の人々に、渦中にいる時は気づきにくい「幸せ」の形を重ねている。
そうだよね。幸せってそういうものだよね。と納得する部分もあるのだが、一方で今読み返すと、「それって幸せっぽいけど、本当に幸せ?」と思ったりもする。
周りから見ている分には綺麗な虹であるが、実際その中にいる人たちが虹に気づいたとして、果たしてそれを幸せと受け取るだろうか。虹=幸せという考えは、かなり表面的なのではないだろうか。
「あなたは十分恵まれているでしょう? それで満足しなさいよ」というのは、時に相手を押さえつけてしまう大きな声になるかもしれない。

……なんてことを考えてしまうのは、大人になったということなのだろうか。


知人と見にいった電子ピアノは、思っていたよりは満足感のある感じでなくて、購入は見送った。たぶん期待値が高すぎたのだと思う。
週末に名古屋へ行く用事があるので(半仕事だからせめて交通費は出ないかなーと思っている)、ついでに最新機を見てこよう。それでも満足できなかったら……もう電子ピアノよりスタジオに通って生ピアノを弾きまくった方がいい気がする。

7割ぐらいは今日買うぐらいの気持ちでいたので、やっぱり触って確かめるって大切だなと思った。たぶん弾かずに買ってたら後悔してたし。
とりあえず、部屋をちょっとだけ片付けられたのは良かったな、と思いました。



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