別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

オススメされた文章を読む(1)

借りている本が色々ある。図書館本も次々借りているのだが、その上知人からも本を借りている。本当は借りているものから先に読んで返さなきゃいけないんだけれど、ついつい好意に甘えて先延ばししてしまう。図書館みたいにちゃんと期限を設けないといけないなと思う。私は整理がくそ下手で雑だ。無くしたりしてしまっては申し訳が立たない。ということで、奮い立ってもうすぐ返すことにした本を読んでいる。

まず一冊目はこちら。10年前の第18回文学フリマで頒布された伝説の文芸同人誌『ミラーボール回ラズ』。


https://c.bunfree.net/p/tokyo21/1367

世界の終わりの羊をめぐる不思議SFから離島での一秋のアバンチュール、江戸時代もかくやと言わんばかりの謎職人たちへのインタビュー集から右肩関節視点のほのぼのエッセイ(?)まで集ったこのアンソロジーは、まさに「妄想書店」の名に相応しい一冊である。
というか非常にクオリティが高い。十周年ですよね。商業誌化からの一般流通ありませんか? ……いや、ダークサイド耳をすませばがあるから厳しいか。我が子に悪司って名付ける親、相当嫌だな。
ちなみに貸してくれた知人のおすすめする「脱臼記」(右肩関節が身体を省みない主人からの自由を求め脱臼を試みるエッセイ。うん、エッセイ)を読んでいると無性に肩がムズムズして困る。脱臼したことは無いはずなのだが「脱臼記」の著関節が語る自由の素晴らしさに私の肩関節も共鳴してしまっているのかもしれない。やがて世界の全ての関節たちが独立運動を起こすだろう。来るべき肩関節解放戦線に備えよ。知らんけど。
最高に捻くれた癖を持つ人々が出てくる『ソドムの館』も読み応えがあって好き。ホラーかと思いきや残酷に美しい終わり方でビクッとした。本当に怖いのは人間です。


続きまして、文芸誌チャレンジで文學界を読んでいるはずなのに、なぜか手元にやってきた『群像 1月号』。ちょっと文芸誌が飽和し過ぎている。でも「君に読んでほしい」なんて言われたら読むしかないやん!

読んでほしいと言われたのは福尾匠さんの連載「言葉と物」の第6回「いま、書くことについて」である。内容は、ドゥルーズ/ガタリ千のプラトー』をベースにした日記論……。
いや無理無理無理ですお兄さんこれ今まで読んでもらいたがられた文章中最高難易度。もっとなんかこう、脱臼した右肩の関節と切断した左足のアキレス腱が運命的な出会いを果たして魔王討伐の旅に出るファンタジーみたいなゆるいのを読みたいんだ僕はそうだほむほむ。ほむほむ読もう。知人に勧められてちょいちょい買い集めてるけどまだ読んでなくて申し訳ないほむほむ……あっ、検索のスペースを取り上げた短歌特集だ。へーそんなにいっぱいあるのか。短歌のリズムや意味的な区切りのためにあえて「 」を入れるってやつはたまに見るけれど、検索ワードを取り入れることで更に遊び心が出てるのが良いなぁ。

と一通り現実逃避したところで、件の文章に取り掛かっていきたい。ポイントは「なぜこの文章が私に向けておすすめされたのか」ということである。きっとただ単に私が日記的なブログを書いているからとか以上の深い意味があるはずなのだ。

「言葉と物」の冒頭では、連載を書いている作家にとって締め切りと掲載までに二ヶ月ラグがあるという裏話が明かされている。そして著者にとっては、そのラグこそが文章を書き続ける原動力になっているという。一体どういうことだろう。
そこから早速ドゥルーズの論が引っ張ってこられて、「将棋的な文章」と「囲碁的な文章」がある、という話が始まる。「シニフィアン専制」とか「超コード化」とかよくわからないところは見なかったことにして、とりあえず「役割が固定化している/流動的である」ぐらいの雑な理解で進む。そして具体例として前者は論文的なアカデミックな文章、後者はもうちょっと俗っぽく、筆が乗って書いちゃってるみたいな、つまりこのブログみたいなものだと理解する。
そこから話は少し変わって、SNSについての論説になる。「SNSってもはやポジショントークとしてしか読まれないよね」みたいなことか。例えばいつもは饒舌なアカウントが、とある事件に関してだけは絶対に触れようとしない。これは「発言しない」というポジションを取っているとみなされるわけだ。そう考えるとめちゃくちゃ窮屈だな。(たぶんある程度世間から立場を認知されていてフォロワーもいる人の感覚なのかもしれないが)
この辺りまで来ると、だいたい著者がどの辺に結論を持っていこうとしているのかはぼんやりと見えてくる。たぶん「日記はSNSへの抵抗である!」という感じになりそうだなと思いつつ、もう少し続きを読んでみる。
ここで非常に耳痛な文章が出てくる。

日記とは「日付」を単位とした文章である。つまり「その日あったこと」を書くのが日記である。毎日書かれる必要はないが、「何かがあった日」だけ書くのは日記ではない。

(P412、太字原文ママ

エッセイを読んでいると、それほど大きな出来事がないにもかかわらず読み応えのある文章というものに出会うことがある。ふとした気づきや疑問から動き始めた思索が予想外のところへ飛んでゆき、一体どこに着地するのかとソワソワしながらページをめくってしまう。そういうエッセイを読みたいし、書けるようになりたいなと思う。……って、コト? 「今日は〇〇へ行きました!」とか「∴∵買っちゃいました!」とかだけ書いてるのはそれ日記じゃねぇぞってことですか!ですね!
確かに私は「24XXXX雑感」みたいなタイトルを付けることが多いが、それはメタテクストばかり重視されて中身がないことへの批判的抵抗なんかじゃなくて、ただタイトルを考えるのが面倒だゲフンゲフン そもそも「雑感」というのが既にかなり言い訳がましい。日記じゃないですーって逃げ口を用意しているようなもんなので、そこをど突かれると痛い。そりゃ痛い。

再びドゥルーズに戻って、次に出てくるのは「〈少なさ〉によって書くこと」という話。思考において王の首を切り落とすとかツリーをリゾームに裁ちなおすとかエクリチュールを減算的な多様体として「作り出す」というところでページを閉じて天を見上げそうになる。シンプルイズベストとか簡単な言葉で言い換えてしまいたくなるが、たぶんそういうことではない。言葉がまばらである(少ないということではない)、ということがここで持ち上げられているのは、「統一性」に対する批判のためだろう。うん、やっぱりこれ今までの連載を読まないとわからないのでは……? 
そして最後の方には、冒頭で触れられた連載のラグが日記にはあるという話になって(著者は日記を翌朝に書いているらしい)、それが非意味的切断をさらに分割し、統一性や刹那性から遠ざかることで書き続けられているというような結論が出されている。めちゃくちゃ意訳すると「論文は完成を求められすぎるし、SNSはその場限りすぎるし(ポジションを勝手に押し付けられるし)続かないけど、日記なら続けられるなー」ということか。たぶん。


さて、ここまでお勧めされた文章を2時間ぐらいかけて読み解いてきたが、まあ難しかった。というかこれ、現代思想を履修してることが前提の文章ですよね? 語句の意味さえ定かでない素人が勝手に解釈しちゃっていいのだろうか。私が捉えた主旨なんて所詮過程をすっ飛ばした結論なので、ここまで読まれている忍耐力のある方におかれましては、決して真に受けたり読んだ気にならないようご注意されたし。ちゃんと『群像』読んでね。

とりあえずここで、「なぜこの文章が私に向けておすすめされたのか」という最初の疑問に戻りたい。この文章を人に薦めるということはすなわち、「あなたにとって日記とは何ですか?」と問いかけるのと同じことのように思える。よって、私はここでそちらの問いにも答えねばならない。
まず、私はここに出てきたような「統一性」のある文章(=将棋的な文章)は書けない。そもそも修士論文だって書いたことのない人間なので、体があらゆる形式ばった文章を書くことを拒絶する。そんなのはChatGPTにでも書かせとけばいい。だから「雑感」というのが、整った文章を書かないという意思表示なのは確かだ。
そして私がそういうまとまりのない文章を書いてもいいと思えるようになったきっかけの一つは『ライティングの哲学』である。ビミョーにつながっているような、そうでもないような(そもそもかなり都合よく曲解している節はある)。

今、自分がブログを書いている理由には承認欲求だとか文章練習だとか色々あるが、他に「ゴミ捨て」的な側面もあるかと思う。一日の中で色々な経験・知覚を獲得するが、それらはごちゃごちゃの分別されない状態で頭の中に溜まっていく。一日の終わりに、キーボードの前に向かうことでようやく分別が始まって、最後に文章としてそれぞれの袋に入れてポイされる。たぶんそんなイメージだ。
だから私としては、「日記」すなわち「日々の記録」という感じではないし、だからこそ雑感とその他の記事が雑多に混じってても特に気にならないし、ブログやSNSや紙の冊子など色々なメディアをそれほど使い分けていないのかもしれない。

果たしてこれが問いに対するアンサーなのかどうかわからないが、とりあえず今日は眠いのでこの辺で終わっておく。そう、眠さというのもまた非意味的切断。。。
ブログを書いて頭の中を一度空っぽにしておくと、心なしかよく眠れるような気がする。まあ、ブログのために夜更かししてるから結果的にプラマイゼロですが。ということで私からの回答は「安眠のための布石」ということで、よろしかったでしょうか?