別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

240115雑感

朝、駅の駐輪場に着いた時点で察した。多い。自転車が増えてる。即ち、学生たちのウィンターヴェイケイションが終わってしまったということで。またいつもの通勤電車に戻るのかと思うと憂鬱だった。もちろん都市部の満員電車なんかに比べれば全然空いてるし、前後左右に空白があるだけマシなんだけれど(本当の満員電車で通勤している人は本当に尊敬する)、でもやっぱり年末年始のカラカラトレインを味わった後ではちょっと悲しい。

今日という日を簡潔で端的で洗練された究極のシンプルさで表すならば、暇だった。最近割と暇だったが、今日は輪をかけてだった。小売店において暇とはつまり売り上げが立たないということであり、まあとてもよろしくないのであるが、かといって自分一人に何ができるというわけもなく、普段やるような細々した作業も今日は特段発生しておらず、世間のお店の公式アカウントがやけに活発な日って実は暇な日だったんじゃないかという気づきたくないことに気づいてしまい、もう諦めて読書タイムだった。

わたしは日頃小説を読まないというのは皆さんご存知と思われるが、それと同時に意外とミーハーであることも読者諸氏におかれては周知の事実と化しているだろう。そういうわけで、文芸誌チャレンジ的に読むべき『文學界 2月号』には全く手をつけず、芥川賞候補作『猿の戴冠式』が掲載の『群像 12月号』をパラパラ読んでいた。『戴冠式』は昨日の読書会でも紹介したのだが、あまりにしどろもどろに話しすぎておそらく全く内容が伝わっていなかったので、ここで改めて紹介したい。
物語は突然、「群れ」という共同体から切り離されて、人間によって教育され個人的自我が芽生えているボノボ(シネノ)の視点で始まる。シネノは自らのことを特別だと思っているのだが、その特別さは自らが望んだものではなく勝手に人間に与えられてしまったものなのである。……という話が続くのかと思いきや、突如視点はアスリートの女性(しふみ)と交錯し始める。しふみはとある事件で炎上してしまい、それがトラウマになっている。ネットの誹謗中傷にズタズタにされ、距離感のおかしいコーチに振り回され、限界を迎えそうになっていた時にシネノと出会う。そして、シネノこそは幼少期に生き別れた姉なのだと信じるようになる。
たぶんこういう流れだったと思うのだが、過去と未来、人間とボノボの世界を行ったり来たりしているうちに、今この独白は一体どちらの視点なのかがわからなくなってくる作品である。というかそれはたぶんあまり重要ではなくて、どちらも集団から勝手に切り離されて異質とされてしまった存在だからこそ、そこに意識のリンクが生じているということなのだろう。
個人的に後半の動物園脱走からの並走シーンは大変盛り上がってきたのだが、そこでカタルシスを与えてくれないのが純文学(?)。一気にどん底に突き落とされそうになって、でもギリギリのところで踏みとどまった……のか? というクライマックスを迎える。うーん難しい。
個人的にちょっと疑問だったのは、なぜシヅエ(ボノボ)もシネノと一緒に脱走したのかというところ。メス同士だから? でもシヅエはあまりそういうタイプじゃなさそうに描写されていた気がしたのだが、なぜだったのだろう。

という感じでちょっとしたモヤモヤを残しつつも読了した『群像』を返却し、さあ『文學界』に行くはずが、なぜかそのまま『新潮 12月号』と『文學界 10月号』を借りてきてしまっているわけである。どちらにも芥川候補作が載っている。

ばかなの???