別に書くほどじゃないけど…

ツイート以上、フリペ未満の雑文帖

読書日記一年分予定(47/52)

体も頭も心も動かず。寝てるだけで一日が終わっていく。



前回
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今週読んだ本

8/19

早起きして丸一日移動の日。疲れた。

8/20

休み。
今日こそは起きていようと思ったけど寝てしまった。体力が落ちきっている。
梨と桃を同時に食べる贅沢をした。

8/21

お腹痛いし鼻水止まらないし最悪。これはもう一本遅い電車かと思ったらギリギリ走れば間に合うみたいな時間について、これが一番怠いと思った。

栗田隆子『「働けない」をとことん考えてみた』(平凡社)の続きを読む。

無賃労働とかアンペイドワークの問題でさらに考えたいのは、「誰かのために行う(≒支援者的行動)」なら「労働」としてみなされやすいのに対し、「わたし、あるいはわたしたちのために行う(≒当事者的行動)」こととなると労働とはみなされない現実についてだ
栗田隆子『「働けない」をとことん考えてみた』 P89)

考えてみれば幼い頃から「誰かのためになりましょう」って教育されて、それはもちろん間違ってないんだけど、結果として自分のために行うことが過小に見えてしまうのはむなしい。

新型うつへのバッシングの話はものすごく身に覚えがある。実際に批判されているわけではないのに、社会がそんな感じだから自己批判の深みにハマってしまう。

あなたが今はただ眠ることで生き延びているならば、それはなによりも大事な営みなのだ。
(同P109)

というのは10年前の自分が切実に欲しかった言葉かもしれない。

うつがひどくなるとオンタイムを良しとする世界線についていけなくなるのだと痛感した。それゆえオンタイムで働かないと取り返しがつかないような仕事にはつけないし、つきたくないとつくづく思った。
(同P114)

これは自分が考えていることそのまんまだ。メンタル的なものなのか特性なのかは知らないけど、最近もう本当に時間感覚がひどい。なぜそこでそれをする!?ということの連続で、時間に間に合わなければならない予定は極力入れないようにしている。



8/22

今日もダメな睡眠だった。
電車はなんかご婦人が多くて、二駅目ですごい降りて空いた。普通に平日だよね…?

引き続き栗田さんを読む。

実際に相手がそれほど恐ろしい人でなく緊張感を与えているつもりがなかったとしても、子どもの頃から心身に溜め込まれた恐れや緊張感が何かのきっかけで噴き出し、「働けない」という状況になる場合もある
(同P147)

あああああダメだこれは分かりすぎる。実際自分もこれで仕事辞めてるけど、相手からしたら別に怒ってるわけじゃなくて「なぜ?」ってなるやつ。心理的安全性は一人一人の性質によってハードルの高さが変わるんだ。

註釈を読んでいて、小説を書いているトルストイが三人ぐらいいることを初めて知った。民話のトルストイと戦争のトルストイは、別!!


8/23

夢から醒めて3時ぐらいに起きたらめっちゃ寝汗をかいていた。冷房を入れてそのまま朝まで寝た。喉がガラガラになった。

栗田さんの続き。第三章の初めは「怠け者」とされる人々について。哲学者や宗教家などアウトサイダーとして生きることで評価された人々もいるが、そもそもマイノリティはその舞台にすら立たせてもらえない、という話。

もともと中央、マジョリティから外れているとまともに社会に位置付けられもせぬゆえに、そこから外れることにもさして意味が見出されない。あるいはマジョリティは潜在的なポテンシャルが高いとみなされるから、それを投げ出すことにも意味が見出される。しかしマイノリティはギャップもなく、ポテンシャルも低いとみなされるゆえ怠け者であることには何の意味も見出されないのである。
(同P168)

さらに、女性が「既存の社会を揺るがすポテンシャル」を見出されるのは、「良妻賢母」からはみ出て「男性との性的関係が奔放」であることが条件になっているという指摘も。これ、現代のマンガとかでもまだうっすらあるような気が……。
男らしさ/女らしさっていう概念が解体されないと無くならないような気もする。


帰りの電車で読了。連載なので全体の流れがあるというよりは、あちこちいろいろな話について書かれている感じだった。
特に何度も繰り返されているのが、あらゆる社会設計のベースにある普通の人物像=日本に住む日本人、日本語話者、健常者、異性愛者でシス男性、首都圏出身という「マジョリティの詰め合わせ」(P14)であるということ。こんな人逆にいまでは少数派なのではないかという話もあるのだが、それでも現にこの標準人間が政治的には日本を運営していくために必要と想定されているということだろう。そりゃあ生きづらいわな。

自分はこの普通人間からすればまあ遥か下の方に位置付けられることろにいる自覚はある(アラサー、アルバイト、実家住み、恋愛経験なし、特殊技能無し、貯蓄無し……)が、それでも日本出身日本語話者男性というだけですでにはかされている下駄があるわけで、だからこそ「そう簡単には分かれない」ことがあると思う。そことどう向き合っていけばいいのか。
栗田さんは『ハマれないまま、生きてます』(創元社)という著者も書かれているが、このタイトルはすごく言い得て妙だなと思う。(未読なので勝手な想像だが)
社会のおかしさに向き合っていくスタンスは、とことんハマらないということなのではないか。冷めた目で見つめるということ。冷笑ではなくて、素面。それは確かに茨の道かもしれないので常時やり続けることは難しいと思うけど、でもその先に誰も生きづらくならない社会があるのならば、やっぱり考えなきゃならないと思う。


8/24

最近休みの日は寝てしかいない気がする。学校行ってなかったときとか働いてなかったときは毎日こんな感じで、結局何も変わってはいないんだなと思う。

かろうじて行けた読書会ではぼっちのアリは死ぬという本が紹介されていて、自分も間違いなく平均よりは早死ぬだろなぁと思う。病であってもなくても。


例の“美”発言(投稿)がまだまだ波紋を呼んでいるようで、影響大きいんだなぁと思う。
本当に怒ることができるのは地方でアートをやられている方だと思うし、実際(取り沙汰された土地で制作されていて)反論されている方もいらっしゃるので、もうこれ以上何か書くのも烏滸がましい気もしつつ、考えてみる。
発言への反論に対し、それは拡大解釈(美術を文化全般と捉える)し過ぎているのではないかという批判もある。確かに自分も誤読しちゃったかなと思う。地方に美術が(そもそも美術がなんぞやという部分は一旦置いておき、作品的価値が認められているものという点で言えば)少ないのは事実。あの作品展も当然巡回してこないし、ましてや気になる作家の個展ともなると東京ばっかり。
ただ、そもそもなんであれが炎上=脊髄反射的な反論を引き起こしてしまったのかと考えると、まず一つは美術誌の関係者(=ある程度マジョリティ的な「美術」の規範を作る立場にいる人)がそれを言ってしまったことと、なにより「イオンモール」を引き合いに出してしまったのがよろしくなかったのではないか。
「でっかいイオンしかない」みたいのは自虐としてもよく見る文脈だけれど、実際地方民の多くはイオンやその他何らかのモールと共に育ち暮らしているわけで、時には複雑な思いを抱きつつも(モールが駆逐してしまった小売店の方々にとってはたまったもんじゃないだろうか)モールを必要としているのではないか。だから否定的な文脈で(しかも、日頃は都市の利便性を享受できる立場から)モールをネガティブな文脈で用いられることに対するモヤモヤ、みたいなのがあるんではないかな〜と思う。
というかそもそも地方にアートが乏しいことを指摘する前置きとしてイオンを出すのは違くない? そこは美術館とかギャラリーじゃないのか。イオンが美術と競合してるわけじゃないんだし。
なのでやっぱり「イオンモールだけが」って書かれちゃうと、文化の乏しさを言ってると捉えられてしまっても仕方ないんじゃないかなぁ〜とは思いました。イオンからすればとんだとばっちりだし。

地方民の都会コンプレックスとその裏にある都市的生活を憧れてしまう価値観とか、美術の権威主義的な部分とか、この問題はたぶんいろいろ根深いので、もっと議論がなされて良いかもしれない。


ちなみに余談だけれどモールに対する美術的なアプローチも当然可能だし、小野啓さんという写真家がその名も『モール』(赤々舎)という写真集を出されていたりする。20年にわたって各地のモールを撮影された作品で、モールを通して社会の変遷やそこに生きる人々を見つめる。
個人的には美術って作品だけじゃなくて創作行為自体やアプローチの仕方も含めるものだと思うので、やはり『美術の“美”もない』はどうか、と。


8/25

そんなことを悶々と考えていたら4時になっていて、シャワーを浴びて寝てすぐ起きて眠たいままご飯を食べて、眠たいまま原付に乗ったら当然忘れ物をし、取りに戻り乗り遅れた電車の次の便に乗ったらガラガラで、本を読もうとしたけど眠過ぎて無理だったのが今朝。

末木新『「死にたい」と言われたら』(ちくまプリマー新書)を読み始める。もちろん死にたいと言われる側でなく言う側ではあることはこのブログを読んでくださっている皆さまにおかれましてはご承知の程かと思われるところだが、かといって死にたいなんて言える人もおらず、そういう本を読み読みしてゆく。


夜のニュースでやっていた暑熱関連死の中に「自殺」も入っていて、やっぱ暑すぎると死にたくなるんやなぁと思った。